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「それでも諦めない。」第1話

あらすじ
康太の父は人生の多くを失ってしまったICUサバイバーとなる。生きている、でもそれだけでは「人間」として生きていけない父の姿。PICS(集中治療後症候群)と呼ばれる症状に苦しむサバイバーを支えようとする康太たち家族も、底なし沼に沈みそうになる。そんな中、一人の医師とそのチームが手を差し伸べる。康太は特にそのチームの電話連絡係の女性に支えられ励まされ、もう一度父と自分の人生を組み立てようとするが。

20x7年3月某日

父さん、父さん?

・・・あ、ああ、康太か。どうした?

それさ・・・接続する場所、ちがうからさ。(俺はそっと父の手に右手を滑り込ませ、その手が持つ工具を受け取る。)

え?あれ?・・・ああ、そう、そうだったかな。

そう言って父は手許をもう一度見た。

・・・康太がいてよかったなぁ。えーと、ちょっとここから頼んでいいか?


ゆっくりとその場から車椅子を動かすと、父は窓の方に向けて車椅子を停めゆっくり背もたれに体重を乗せる。そのまま少し伸びをして、背中でふぅっとため息をつく。暖かくなってきてから昼間は開けっぱなしの窓からは、時折ほんのりと沈丁花の香りが届く。この時期だけの、母の好きだった香りだ。男だらけの油臭い工場には似つかわしいとは言い難いが。でもきっと父にはこの花の香りの記憶は 母さんもいて自分も仕事に誇りをもって生きていた、そんなときのものなんだろう。

父は、まだ仕事に戻るということを諦めていない。そりゃぁそうだろうと思う、父の興味で趣味で生き甲斐でもあったわけだから。
俺は場所を代わって、父のやりかけていた修理を再開する。
もう、「まだ体力戻ってないよね」とか「疲れるほどやんなくていいんだよ」とは言わなくなっている自分に気付いている。でもそれに気づいている、と認めてしまったらあれこれが崩れ始めそうな気がするのだ。

ねぇ、そこのレンチとってよ。

車の前に座り込んでいた俺の言葉に、車椅子からから半分前屈みになって作業台のうえに父の手がのびるけれど、指は空中で躊躇ためらい、やがてそこから動かなくなる。俺は黙って立ち上がり、レンチを作業台の上からとりあげる。
作業に戻る前に思い直し、レンチこれね、と父の目の前に出す。父は困ったような半分泣きそうな顔をしながら、ああ、すまん、と言った。


20x7年4月5日水曜日

「おはようございます小林さん。医療連携室サポート係の藤枝です。その後お父様のお加減はいかがですか」

電話の向こうの藤枝亜衣さんは、去年の8月から2週に一度いつも水曜日朝に連絡をくれるサポーター/コーディネーターと呼ばれるお仕事のひとだ。気付いたらもう8ヵ月になる。ヘルパーさんと病院、そして患者家族の間に入る特別支援サポート係だと聞いていた。どんな資格を持っているか知らないけれど、父が退院してからの2年半で会ってきた担当の先生たちより、とてもお世話になっている沢山の看護師さんたちより、どんな質問をしてもわかりやすく説明してくれるし、なにより辛抱強くこちらの話を聞いてくれる。専門的な事は必ず担当の広木先生に確認をとって数時間以内に再度電話かメールをくれる。ものすごく頭の良い人なんだろうな、と思うし頼りにしている。
父が退院してから亜衣さんが担当になるまでの間は、今思うと結構綱渡りな感じだった。最初の頃こそ外科外来とかが定期的に受診できるところで質問があればできる場所だったけれど、退院後半年くらいで外科外来の予約はなくなって、正直いろいろ小さな疑問や困ることが山積した。でもいちいち病院に電話するわけにもいかないし、その頃のヘルパーさんの小池さんに質問すると「詳しいことは病院に聞いて下さい」になるし、大体その頃もう病院のどこに連絡して聞いたら良いかもわからなくなってた。あの頃は何気に大変だったよなぁ。

そう思い返すと、亜衣さんがいなかったら俺は父と二人で今も暮らせているとは思えないくらい、疑問も泣き言も愚痴もため息もまとめて受け止めてくれ心に寄り添ってくれている(少なくとも俺たち親子はそのくらい頼りにしている)ひとだ。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないけど本当なんだ。彼女の笑い声っていうのを聞いたことがないのが残念だけどプロだもんな。患者家族と話してて笑うなんて、まぁしないよな。一度でいいから聞いてみたいけど。

定期連絡の基本は簡単な確認だけだから1分も喋らないこともある。でも亜衣さんに尋ねたり相談したりしたことは、次の外来(といっても、今ではすでに外科じゃないし3ヵ月に一度になっているけれど)までにちゃんと担当の広木先生やヘルパーさんと情報が共有され、ではこれからこうしてみましょうか、とすぐに変更が加えられたりする。当たり前の様だけれど、人間ってあれこれ忘れやすいものだし、「気をつけていても連絡が届いていても次のアクションにつながらないことなんてよくある」と看護師をしている友人が言っていた。そう考えると、亜衣さんが担当になってくれている我が家は本当についているのだと思う。

なにより亜衣さんの声はなんというか、素敵なのだ。素敵って表現はどうかと思うが、耳に心地いい、といったらいいのかな。俺は別に声フェチなんかじゃないと思うが、あの柔らかなゆっくりした話し方、女性にしてはすこし低めの、でも良く通る声は、俺にはずっと聞いていたいような音なんだ。亜衣さんのサポート電話が入るようになって3ヵ月ほど経ったころ、担当になったこのサポート係の優秀さに加えて声のよさについて父に何気なく話したら、

「康太、ウキウキして楽しそうだな」

とちょっと悪戯っぽく父が言うものだから、真っ赤になって俺は全力で否定した。
が、電話の声を聞く期間が長くなるにつれ、当たらずとも遠からずってものかな、と思い始めた。亜衣さんから電話がかかる時間は俺はちょっと仕事に手がつかなくなるし、かといってワンコールで応えたら待ち構えているみたいに聞こえそうで、俺は3回、4回と電話に出るまでのコール数を変えている、2週毎に回数を変えて、できるだけ自然に。

きっと向こうはそんな事まったく気にしてないんだろうけど。仕事だからな。でもこちらはやっぱり2週毎の水曜日の電話は指折り数える感じで待っている。

「こんにちは藤枝さん、いつもありがとうございます。ええ、特に大きな変化はありません、良い方向にも悪い方向にも。」

もちろん電話口では亜衣さん、なんて呼べない俺はチキンだが。いいんだ、心の中では彼女の名前で呼びかけているから。

「そうですか、ヘルパーの飯田さんからもそのようには伺っています。・・・あの、ちょっと確認してもいいですか。」
「はい、なんでしょう。」
「飯田さんが、お父様が何もしないでぼんやりされる時間が長くなった、と気にしていらっしゃいます。もちろん前任の小池さんからのレポートにあったような、お父様が混乱したり泣き出したり暴れたり、ということは飯田さんからは伺っていないので、全体にはいい傾向なのかもしれませんが・・・」

今の担当ヘルパーさんの飯田さんは、亜衣さんがサポートに入った頃に交代で入ったひとだ。ベテランだときいたけれど、広木先生ともかなり頻繁に直接話をしているようだ。
そういえば飯田さん、この頃以前より頻繁に父に声をかけるようになったなぁ。言葉クイズみたいな事もやってる。最初はただの話し好きなひとかと思ったが、どうやらそれらは会話というより、父の忘れてしまったことを思い出させたり言葉の訓練みたいな感じみたい。

亜衣さんが言ったように前任ヘルパーさんの小池さんや俺の前では父は時々取り乱すだけではなく、泣き出したり烈火の如く怒り出したりしていた。ただ飯田さんが担当になったあたりだっただろうか、ちょっと暴れ気味な行動は減ったのでよかったのかな、それなら他のちいさな事はいいやと俺は思っていた。いや、思おうとしていた。でも飯田さんにはそれは変に反応がない、みたいに見えるんだろうか。

実際は 父はなんというか、物忘れがひどいというか・・・いや、違うな。あれは物忘れじゃない。本来よく知っているはずのこと、記憶のある部分がまだらに抜け落ちていて、最近はもう途方にくれているんだと思う。最初は「父さんも歳だからなぁ」とみんなで笑っていたが、もう最近はそれがあんまり笑い飛ばせないレベルにあることは、俺だって薄々気付いていた。

「えーと・・・そうですね、なんというか・・・途方にくれているように見える、というか。PICSピックスの一部なんだろうって思ってはいるんですけど。あの、藤枝さん、関係ないかもしれないんですけど」
「はい、なんでしょう。」
「話したことがあるかもしれませんが、父ってとても友人が多かったんです。母が存命のころは一週間に何度も父の友人が家に遊びに来ていたのを覚えてます。もちろん、母が亡くなって、父もあんな大きな病気をして、だからみんな遠慮してるのかもしれないですけど・・・どうやらそんな仲の良かった友達のこと、名前だったり顔だったりどんな付き合いをしていたかだったり色々なんですけど、かなりあやふやになってるみたいなんですね。遊びに来ている人を誰かと間違えたり・・・このあいだなんて話している最中に、突然 どちら様でしたっけ、修理ですか、なんて言い出すし。あ、最初は分かってるんですよ。でもあるときから分からなくなったりするみたいで。話の辻褄が合わなくなったり、他の人との記憶をまぜてしまったり。」
「そうなんですね」
「そんな自分に苛立つのか、突然もの凄く怒り出したりすることも以前はよくありました。だからかもしれませんが、この1年くらいは、訪れてくれる父の友人はほとんどいなくなりました。父も自分から連絡を取ろうとかしなくなってきましたし。」
「・・・なるほど。それで今は話し相手が減った分、ぼーっとしていると?」
「いえ・・・あ、いやぁ、どうなんだろう。ちょっと俺じゃわかんないんですけど、父のあのぼーっとする感じはなんというか、友達がどうこうってものじゃない気はします。以前、泣いたり怒ったりしていた部分が 諦めた感じになってぼーっとしているというか・・・うーん、ちがうかな、ごめんなさい、俺、よく分からなくて。ただ、心配になる感じのぼーっとしている、です。」
「・・・いえ、だいじょうぶですよ。・・・もしかしたらご本人もぼーっとする原因なんか、分かっていらっしゃらないから不安かもしれませんし、会話などの中で次に何を考えるかが分からなくなって、その結果のぼーっとしている、なのかも。」
「そうですよね、父だって分からないですよね。」
「だけど私個人としてはちょっと心配です。・・・お父様、規則正しく生活できてます?眠れているようですか?食欲とか?・・・一緒に暮らされていて、おかしいな、と思うことは他にはありませんか、なにか大きく混乱されるとか。」

亜衣さんは決してこちらを急かすことはしない。考えながら、でも家族である俺の混乱も拾い上げ、一緒に考えようとしてくれる。早口にもならないし、でもこちらが安心するリズムで語りかけ、聞いてくれる。プロだから当たり前なんだろうか。いや、きっと亜衣さんの人柄だよなぁ。(なんて誰かに言ったらまた要らぬ勘ぐりをくらうからいわないけど)

「なんていうんだろう、俺も父に関しておかしいな、と思うこと自体を止めちゃってるかもしれません。退院してからの父はずっと、昔の父ではないので。えーと、これもPICSピックスーFからくる無関心なのかな。なんか分かんなくなってしまって・・・でも藤枝さんが根気よく聞いて下さるの、とても助かってるんです。ありがとうございます」
「いえいえ、実際に何か出来るのはヘルパーの飯田さんと担当の広木先生なので。私がやっているのはあくまでサポートですから。」

でも患者家族にはただのサポートっていう距離が一番ありがたかったりするんだと、この2年半の生活のなかで俺はよく分かっている。

「で、あのぅ藤枝さん、もしできたら、なんですけど」
「はい、なんでしょう」
「今度お時間いただいて、すこし前に教えてもらったPICSピックスのことをもう一度説明してもらってもいいですか。こんなに時間が経ってまた、なんですけど。あ、もちろんお時間のあるときで構いません、今日でなくても。俺もまだ仕事中なんで・・・」
「わかりました、もちろんです、それこそ私の仕事ですし。飯田さんもそのあたりは詳しいので彼女に聞いていただいてもいいかとは思いますが、日中のお時間は康太さんのほうがお忙しいですよね。」
「では2週間後の定期のお電話の時でも」
「いえ、きっとそのあたりが分からないせいで、康太さんはどれが後遺症でどれが康志さんの年齢のせいで、本当はどれを気にしなければいけないのかが分からなくなって来ている、ってことですよね。早めにお時間をとりましょう。康太さんがゆっくり話せる時間を教えていただけますか。もし康志さんも一緒にお聞きになりたいと言うことでしたらオンラインセッションを設けますし」
「うーんと、困ったな・・・実は最近仕事が溜まってて。ご相談したいことはちょいちょいあるんですけど、時間が過ぎるともういいかなってなっちゃって。」
「分かりました、では康太さんさえよかったらですが、夕飯後などの急ぐ必要のないとき、まず直接お電話ください。それでゆっくり伺うなりセッションの予定を組むなりいたしましょう」
「え?・・・でも」
「大丈夫です、担当人数も決まってますし、実際ご家族の方で質問したいことを溜めておくとどれが聞くべきことなのかわからなくなって後からあれを見過ごしちゃいけなかったんだ、となることだってあるんです。データとしてちゃんと伺っておかないとチームの仕事の質にも関わりますし、なにより今後の、小林さんご家族のような患者さん達のためのデータ分析に役立ちます。というわけで今私がかけている番号・・・こちらにおかけください。いつもの報告書にある電話番号です。直通になっています。」
「・・・それじゃご迷惑じゃ・・・」
「えーとですね、そうやってご家族が私共サポーターを気遣ってくださるのはありがたいんですよ。でも本当に気遣う相手は小林康志さん、お父様へであってほしいんです。」

そりゃあそうかもしれない。でも担当とはいえ若い女性(声からの推測だが、35歳まではいかないと思う)に、仕事の時間外にかけていいものか。

「大丈夫ですよ、その辺込みでの担当人数が決まってます。康太さんが常識外れな時間に理由無くおかけになることはないと信じてますし。あ、そうそう理由といえばあれです、少し話は違いますけれど、お父様の様子がいつもと違うけど病院に行っていいかわからない、なんていうのは、まさにその’理由’にあたりますし、そういう時こそいつでもかけて下さって結構です。報告書にも24時間対応、ってなってますよね?」
「そうなんですか・・・ではお言葉に甘えます、あまり遅くならない時間にかけますね。」
「はい、ご心配なさらないでくださいね、こちらもちゃんとそういうプログラムで動いていますから。」

1年もたたない電話口での付き合いだが、こんなこともサービスに含まれているとは知らなかった。もちろん、酔っ払ってかけたりなんて、絶対しないけど。俺は亜衣さんに丁寧にお礼と、近日中にまたかけ直すことを約束して電話を切った。


↓ 第2話 


サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。