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「私」ができること

先日から多才な人達の作品に触れることが沢山続きました。とくに11月に入って、他の人のお手伝いから「作品」というものやそれを生み出す方の人生観にふれることが多くて、色々考えさせられました。

絵が描けたら。作品が作れたら。歌が歌えたら。楽器を思う存分弾くことが出来たら。そんなことを考えるなかで、2つの「聞こえない会話」が自分のなかでありました。

【やりたいならいつでも始められる】
当たり前ですけど、上に書いた「〜たら」は、「やっていない自分」が先にあります。
やっていない理由?上手くないから。プロみたいな人は沢山いるから。

練習もしてないのに上手くなるなんて、そんな世界に私達は住んでないし、練習なしでなんでも出来るなんて、それでは面白くないじゃないですか。

プロになりたいのか?それで生計立てるのが目的か?
いえ、自分を表現する手段を持ちたいだけ。言葉にならないモノを表現するものがあったらいいな、と思うだけ・・・

始めればいいことですよね。もう半世紀生きてきたんだから、評価とかそんなものを気にせず好きなようにやってみればいい。
誰に気付かれなくても自分で好きな作品を生み出せたら嬉しいじゃない?
そう、そこが「〜出来る人はいいなぁ」という理由なら

始めてみればいい。


【自分の中には何も無いのか?】
これは大分前から何度も繰り返し自問したところですが。
他人の作品をみて「〜できたら」と思う自分には「何も無い」と思っているのか?本当にそうか?

いえ。そんなわけ無いじゃないですか。

あのひとのように絵は描けないけど思い描くことはできる。
あのひとのように音楽は奏でられないけれど音楽の素(もと)を拾うことはできる。
それ以上に その人たちが出来ないことで自分が出来ることも沢山ある。

自分のなかに既にある、否定しようがないほど「他の人より上手く出来る」こと、強みとも言いますが、それを突き詰めて学んだり考えたりした時期もありました。でも恐ろしいのは「他の人より・・・」な部分、他の人からみたら本当に「すごい」部分は、自分の中で徹底的にダメ出しする部分であり、もっとひどいと「自分で無視している」能力であったりするのです。無視している心理の奥底には 自分を否定する心があります。

「オマエが本当に優れているのはなんだ?」

この問いって、実は結構キツイものです。
試しに他の人に褒められることが多いことで、自分で「いやいや、ないない」って思っていることを書きだして、自分を本気で外側から見てみてください。ざわつきませんか?
それでも それは「わたし」に与えられたギフト(天賦の才)を見出すヒントです。

他の人をみて素直にスゴイと思えるのはいい。自分もそこに近づきたい、と努力するのは更に良い事だとおもっています。
けれど、同時に「何と対比して自分を空っぽだと思っているのか」そこを見つめることはいつだって大事なんだ。


そんな「誰かとの対話」のなかで気付きます。
自分が本当にやりたいこと、自分ができること、自分がこの世界で上手にできること、上手く出来ないけれどやりたいこと、それはきっと 生きている、っていう時間を自分のつくった絵の具や音で飾ることなんだと。

自分なりの創意工夫を重ね続けることで どんな作品も、どんな自分でさえも唯一無二へとなっていくんだな。


さあ、今日はなにをしよう。



サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。