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怒りはどこで生まれるのか〈炎上と処罰感情〉

昨年のことでですが、柔道部の顧問をしている中学校の教師が、部員である生徒に暴行して全治3カ月のケガを負わせるという事件がありました。

きっかけは些細なことで、「OBが差し入れたアイスクリームを生徒が無断で食べてしまった」というものでした。

被害者の生徒は謝りましたが、激怒した教師は「謝っても許さん」といって柔道の技をかけ、生徒を失神させます。それでも教師の怒りは収まらず、失神した生徒の頬を殴って目覚めさせた上で、寝技や投げ技を10回以上くり返し、生徒は胸椎骨折という重症を負いました。さらに、もうひとりの生徒にも同じような暴行で軽症を負わせています。

管轄する教育委員会によれば、暴行した教師は「ふだんは優しい先生」だったとのこと。前任校の離任式の挨拶では「2つの手は、人を助けるためと自分のために使おう」と話すような教師でした。

でもその一方で、生徒を殴ったり押し倒したりしたことで訓告処分を2回、生徒の頭に頭突きをして鼻骨骨折させたことで減給の懲戒処分を受けた過去がありました。この処分の後、この教師は「アンガーマネジメント(怒りをコントロールする方法を学ぶ心理教育)」の研修を自主的に受けていたそうですが、その後にアイスクリームの暴行事件を起こしてしまったわけです。

簡単に言えば、この教師は「キレると歯止めがきかない人」ということになります。

この暴行の現場には副顧問もいましたが、恐怖で身がすくんでしまい、制止することができなかったそうです。それほどに加害者である教師の怒りが凄まじかったということです。


この教師が見せたような凄まじい怒りは、異常で病的です。アイスクリームを無断で食べたのは注意すべき行為ですが、重症を負わせるようなものではありません(そもそもどんな罪を犯したとしても私人が勝手に刑罰を与えてはいけません)。理不尽すぎるほどのキレ方、制御できない処罰感情や暴力衝動は、やはり普通ではありません。

でも一方で、これと似たような光景を私たちは日常的に目撃しています。

いつ頃からなのか、「不祥事を起こした著名人に対して一般市民が社会的に処罰を与える」ということが多くなりました。不倫や反社会的勢力との交際が発覚した芸能人が無期限謹慎したり、ハラスメント行為が報道された公務員やスポーツのコーチが職を追われたり。

一般市民によるこうした処罰は、ときには法的な処罰よりも厳しく、復帰しようとするたびに「永久に許すまじ」「親族もとろも」という断固たる憤怒によって何度も罪が掘り返され、私刑がくり返されます。皇族の結婚についての一件もそうです。

有名人のみならず、SNSでは毎日のように誰かの投稿が炎上します。企業のCMやリリースが批判を浴びて取り下げられることも日常茶飯事です。

こうした光景は、コロナ禍でいっそう増えたようにも思います。感染者を悪者のように報道するマスコミ、「気の緩み」と市民を非難する首長や専門家、市民が市民を監視し合う自粛警察、戦犯探しに精を出すインターネット。

些細なことにキレる人がいて、相手が謝罪しても許さず勝手に処罰を与える。キレている人は正義の名のもとに激怒し、処罰という名の攻撃を永遠にくり返す。

些細なことに激怒し、理不尽にキレる人の言い分はこうです。

「不祥事を起こした人間はその攻撃を甘んじて受け続けなければならない。だって不祥事を起こしたのだから。先に私を怒らせたのはオマエなのだから」。



誰かが理不尽にキレたとき、「キレさせたほうが悪い」と決めつけるのは間違いです。

なぜなら、実は、理不尽な怒りは目の前の相手に対するものではないからです。

凄まじい怒り、私刑を与えたくなるほどの処罰感情、制御できない暴力衝動(SNSでの攻撃を含む)は、きっかけをつくった相手に向けられたものではなく、そもそも自分自身のものであるからです。



「怒り」はどこからくるのか、考えたことがあるでしょうか。

多くの人は、漠然と、「怒りはどこかよそからやってくるものだ」と考えています。自分の外側の環境や、他者によって、怒りがもたらされると思っています。

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誰かが危険なことをしている。不謹慎なことをしている。社会良俗を乱すようなけしからん行為を行っている。

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だから怒るのは当然。

私を、社会を、危険にさらしたのだから、傷つけられたから、傷つけられそうになったのだから、怒るのは当然のこと。

相手がひどいことをすればするほど、私の怒りは強くなる。相手が犯した罪が重ければ重いほど、私の処罰感情は強まる。そうしなければ社会良俗が保たれない。だからこの怒りは正当。この処罰感情は正義。

怒りは常に「自分に向けて外からもたらされるもの」だと思っています。

怒りの燃料を補給したのは自分ではなく、罪を犯した他者だと思うからです。



でも本当はこうです。

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その怒りは、もともと自分の中にあったものです。もともと溜め込まれてきたもの。足元の穴に溜め込んで、蓋をして、地上では素知らぬふりをしてきた怒りです。すべては自分自身の怒り。

人は、その生い立ちの中で、さまざまな感情を感じながら日々を生きています。

さまざまな感情は、からだの中で生まれ、からだによって昇華されます。昇華された感情は「経験」として残ります。日々、そのくり返しです。

何かの事情で昇華されなかった感情は、そのまま溜め込まれていきます。怒りや不満、妬みや恨みとなって、その人のからだの中にとどまります。

特に、子ども時代の体験によって溜め込まれた感情ほど、昇華されずに溜まっていきます。なぜなら、子ども時代というのは親や学校の管理下にあって、自由に発散することを許されていないからです。その体験の当事者が親や学校であれば、怒りをぶつけたり抗議をすることもできないので、ただただ無意識の深い穴に放り込まれていきます。

溜め込まれた感情が穴の外に出されることはありません。そもそも消化できないから溜め込まれたのであって、表に出していいものではないわけです(本来は表に出して昇華したほうが健全ですが、本人は「そうしてはいけない」と思っています)。

だから足元の穴にマグマのような怒りを溜め込みながら、その上に蓋をして、本人はいかにも何も溜め込んでいないかのような顔をしています。蓋の上に立つ足は震えているのですが、まるで平気な素振りです。溜め込んだ大量の怒りとは裏腹に、社会的な成功者や人格者のようにふるまっている人も少なくありません。



ある日、とても些細なきっかけで、蓋は開いてしまいます。

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蓋が開く理由はいろいろです。

火山の噴火と同じように、マグマのような怒りが溜まりすぎていっぱいになり、いよいよ噴き出してしまったということもあれば、

恋人や配偶者など心を許せる相手に出会ったことで、思わず蓋が開いてしまうこともあれば(この人なら怒りを癒やしてくれるかもしれないという無意識の期待もはたらきます)、

もうどうにも我慢ならないという限界ギリギリにきていたタイミングで、自分より弱い相手を見つけ、ちょうどいいターゲットにしてしまうということもあります。

誰かの不祥事を見つけたタイミングに、「今なら怒りを正当化できる!」という無意識がはたらいたかもしれません。

蓋を抑え続けるのに疲れてしまった、平静を装うのが嫌になってしまった、成功者や人格者のようにふるまうことがバカバカしくなってしまった、そうした気持ちが無意識に生まれていた場合もあるかもしれません。

どれも、トリガー(引き金)になるのは些細なできごとです。

開いた蓋からは、溜め込んできた怒りがどんどん噴き出してきます。

蓋があるのも、蓋が開くのも、怒りが噴き出すのも、すべては無意識と本能の領域で起きることなので、意志や理性(大脳)によって制御することはできません。そもそも蓋が開いたことにすら気づけないことがほとんどです。

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噴き出した怒りは燃料となり、爆発します。

自分が溜め込んできた燃料が爆発して怒りに燃えているのですが、本人は「目の前にいる相手が自分を怒らせた」と思い込んでいるので、相手に対して怒りをぶつけます。

目の前の相手は、単にトリガーとなったできごとに居合わせただけで、怒りの本質とは無関係です。蓋が開いたのが別のタイミングであったなら、そのとき居合わせた相手が怒りをぶつけられていたことでしょう。

相手の不正義によって怒らされているのではなく、あくまでも自分が溜め込んできた怒りを燃料にして燃えているだけなのですが、本人は

「こんなにも私を怒らせたのだから、相手はよほど悪いことをしたのだ!」

と思い込んでいるわけです。



強すぎる怒り、理不尽な処罰感情には、往々にしてこうした背景があります。

アイスクリームを食べた生徒に暴行した教師にも、よほど溜め込んできた怒りがあっただろうと想像します。

過去に何度も生徒に暴行して処分を受け、アンガーマネジメントの研修を受けたにもかかわらず、腰椎を折るほどの重傷を負わせてしまっただから、よほどの怒りです。

重要なのは、「こうした怒りや処罰感情は、理性や意志で制御できるものではない」ということです。

実は、怒りの神経回路と、理性の神経回路とは、まったく繋がっていません。完全に分断されています。

言ってみれば「怒りはアクセル/理性はブレーキ」になるわけですが、あくまでも別々の足で踏んでいるということです。怒りというアクセルがほどほどの範囲であれば、理性のブレーキで制御することは可能です。でもアクセルを思い切り深く踏み込んでしまったら、ブレーキはききません。

さらに、怒りの神経回路の伝達スピードは、理性の神経回路とは比べものにならないほどに速いものです。新幹線と各駅停車くらいの違いです。だから、ひとたび怒りの神経回路が発火してしまったら、理性や意志でもって「怒りをマネジメントする」なんて、そもそも無理なことなのです。



制御できないほどの怒りや処罰感情で燃えたぎる人を、だからといって一方的に責めるのも違います。

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実は、怒りを溜め込んでいる穴の底には、さらに隠れた感情があります。

怒りの下の層にあるのが「甘えたい気持ち、依存したい気持ち、頼りたい気持ち」。これは単なる甘えではありません。すべてをまるごと受け入れてほしい、運命の糸で繋がった相手と結ばれたい、誰かとひとつになりたい、一心同体で溶け合ってしまいたいという、凄まじいほどの依存欲求です。

さらにその下にあるのは「見捨てられるかもしれない」という恐怖。その恐怖には続きがあり、「きっと見捨てられるに違いない」という絶望でもあります。過去にそう思うような体験をしたということ。

さらにその下、無意識の穴の一番底にあるのは「愛されたい」という切実な思いです。これも、自分自身の存在価値を証明してほしい、この世界に歓迎されている自分だと誰かに許されたいという、根源的な叫びです。

つまり、「加害者はかつての被害者であった」ということ。

生い立ちの中で溜め込んできた怒りの底には、暗闇で孤独を恐れる小さな子どもの姿があるのです。


多くの人は、「感情は理性でコントロールできる」「衝動は意思の力で制御できる」と考えています。それができない人のことを「意思が弱い人」と決めつけ、人間失格者とでもいうように見下します。

怒りを制御できなかった本人も、深く傷ついています。理性や意思の力が弱い自分を恥じます。こんな自分では社会に受け入れられない、存在価値のない人間だと思います。

そうした感情は、人知れず溜め込まれ、次の爆発の燃料になります。本人や周りが感情や衝動を制御できなかったことを「恥」として扱うことで、地下のマグマはさらに熱さを増してしまうだけです。

小さなあの子が愛されたくて泣いているだけなのに。



もちろん、とはいえ、それは免罪符にはなりえません。

溜め込んだ燃料で爆発した怒りを人にぶつけてはいけません。暴力行為を行えばそれは犯罪行為であるのだから、法で裁かれるべきです。

正義や信念の名の下に、煮えたぎる処罰感情のままに他者を燃やしてはいけません。それはテロリストと同じです。

ただ、「制御できないほどにキレるのは異常だ」と決めつけるだけでは何も解决しないということ。「理性で制御できないなんて未熟だ」と見下すのは間違っているということです。

その怒りを、誰も制御などできません。

同じくらいの怒りが溜め込まれて、その蓋の上にずっと立たされたら、誰だって同じことをしてしまったかもしれない。

キレるかキレないかの違いは「理性的であるかどうか」「成熟した人間であるかどうか」ではなく、どれほどの怒りを溜め込んでいたか。ただその一点に尽きるのです。

そして、その怒りは、本人が望んで溜め込んできたものではありません。

昇華することを許されなかった、発散させてもらえなかった、抑圧することを求められていた。そうしなければ存在を許されなかった。

そうするしかなかった。

それだけです。



SNSを見れば、今日も誰かが炎上しています。

高く立ち上がった炎は、罪を犯した人が焼かれる業火ではありません。糾弾している人たちが溜め込んできた怒りという燃料が燃えている、その炎です。

正義を盾に怒りを燃やし続ける側だけではありません。

炎上の引き金となったそもそもの発言が、差別的であったり、誰かを否定したり傷つけたりものであったり、ハラスメントの要素を含むものであったなら、その人もやっぱり、怒りを溜め込んできたのかもしれません

溜め込んできた怒りは、爆発させて誰かに火傷させるためのものではありません。そんなことしていいわけない。

だからといって意志や理性でマネジメントするものでもありません。そんなことできるわけない。

怒りは、マグマのようなエネルギーを持つとても強い感情です。人を傷つけ、燃やし、社会的に抹殺してしまえるほどの力を持ちます。怒りをぶつけた側も、自分の炎に焼かれて大やけどを負ってしまうこともあります。

だからこそ、安全な形で昇華させることが大切なのです。

抑え込むのではなく、ないことにしてしまうのではなく、無理に消火しようとするのではなく、からだの外に出すこと。自分も他人もやけどしないように、あくまでも安全な形で、無意識の穴の外に出すことです。

大切なのは、その怒りは自分のものなのだと認識することです。他者によって持ち込まれた怒りなのではない。自分の人生に起きたできごとの証であるということ。怒りは決して排除すべきものでも恥じるものでもない、自分という人間の大事な一部であるということです。

そうしてきちんと昇華させた燃料は、かけがえのない経験として人生のエネルギーに変換されます。挑戦する原動力となり、継続する情熱となり、希望の光になります。

怒りのエネルギーは忌むべきものではなく、使いようです。誰かを糾弾するためだけに使うなんてもったいなさすぎます。



爆発して燃える炎の奥に、愛されなくて泣いている小さな子どもたちがいる。そのおぼつかない足元の穴から、燃料のマグマがどんどん溢れ出している。誰の燃料がいつ引火してもおかしくない今です。

もしもその怒りが、
誰かの孤独を温める炭火になったら。
いつかその怒りが、
誰かの暗がりを照らす灯火になったら。

昇華された怒りのエネルギーで、世の中はどれだけ明るくなるだろう。
ふとそんな想像をします。

ガソリンを浴びせてライターをかざし、脅し合うような世の中ではなく、

凍える夜、目の前でかじかむ手を合わせる人のために、そっと榾を継ぐような

誰もがそんなお互いになれたらと

そういう風に思います。


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