贅沢なキョウフ
素敵な画像だわ。(笑)
自分の感覚を大切にするってこわい。
自分の言葉をつくってあげること
趣味は?
勉強って?
真面目?
言葉という記号に同じ味付け=意味付けをしているけど、
人それぞれ味覚が違うように、同じ言葉でもみんないろんな意味づけをしていて、
たとえ同じ意味合いでも、その言葉で傷ついたおもいでがあれば、発話者が違くても
わたしは
その思いでをまた味わい、おなかいっぱいになってしまう。
わたしは人間観察がだいすきだし、
同じシチュエーションでそれをどのように感じたのか
なんでそう感じたのか
なんとなくをふくめて
全部聞いてみたい。
そうすることで
いかに自分が自分の感覚で生きているかが分かるし
おんなじケーキを食べている=シチュエーションなのに、
おいしく感じたり、さみしくかんじたり、もたれたり。
ほんっとにおもしろい。
いまゼミの発表資料作成のために勉強しているけど、
本を読んでまとめるという行為が、ずっと胸につっかかっていて、
その本の内容にいくら共感できても、それを自分の視点としてもインストールしても、
その言葉は相手の作品であり、私は鑑賞者でしかないということだった。
相手の料理を味わって、おいしい、ごちそうさま。と何度も言っているけど
食べ終わってどうしていいのかわからなかった。
だから発表資料つくるときも、
必死に相手のレシピ通りつくって、構成して発表していたけど、
全然味わえなくて。なんか悲しかった。
でも気づいた。鑑賞者のまんま、作り手になってしまったから、やりづらかったんだよね。
あくまで読むときは鑑賞者、読者、読み手、受けてでいいの。
でも書くとき、つまり自分の研究という作品になるとき、
あなたは唯一無二の作者であるわけよね。
相手の作品を味わって消化したあと、
その素晴らしさ、美しさを、
今度はあなたという媒体を通して、届けること。
いろんなやり方があって間違いはないということが正解なんだけど。
アナタのレシピでそれを仕上げること。
塩味だったとしても、味噌に変えていいし、
焼きででてきたものを、生でだしてもいい。
そこに、どんな根拠があるのか。
生でおいしかった人がいるならそれをやっていいし、
新しい方法なら新しい方法であることを述べたうえでやればいい。
研究は、自分が媒介者になる最大の舞台かもしれない。
媒介者であり、作者であり、学生であり人間である。
えうけるwwwww
こわいこわい。どうしよう。めっちゃこわい。
え?どうしよう。
ああああああああああああああああああああああ
とりあえずいってきます!
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