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【小説】「夫婦の絆」第三話

第三話「秋」

 年老いた夫の指は、依然として私の喉を絞めている。走馬燈というものは、時間にしたらほんの三十秒ほどなのに実際よりも長く永く感じてしまうのらしい。私の意識は色々な所に飛んでいった。我が子のことを思い出した私の瞳は涙で濡れているに違いない。

 次に浮かんできた光景は夫の実家工場が倒産の危機に陥った時のことだ。子供に手が掛からなくなった頃から、夫の工場で事務員として働くようになった。愛想のない、癇癪もちの夫に代わり、従業員に言葉を掛け、ねぎらった。少しでも居心地の良い職場になればと願っていた。

 子供は巣立ち、義理の両親もその当時流行した感染症によって相次いで亡くなってしまった。面会も許されることなく死に目にも会うことはできなかったから、亡くなった実感を伴わない別れとなってしまったのだ。

 思えば夫は、両親と死別した頃から、不安定な精神状態になっていたのかもしれない。それまでよりも、怒りっぽく、短気になったように見えた。もともと、気は長い方ではなかったが、以前ならば怒らなかったところで従業員を叱ったり、度を超してキレたりする様子が見られた。

 教育現場ではオンライン化事業が進んだり、会社はリモートワークが始まったり、新しい価値観がもたらされた時代でもあった。現場に行かなくても用事を済ますことができる新しい仕組みができつつあった。

 でも夫は、工場を稼働させる仕事だから、リモートでは仕事ができない。従来の仕事を時代に合うように変えて行くことは、個人経営の工場主には難しかった。
 夫である森山が工場経営の全責任を負っていた。この時代は、たった一つの変幻自在なウイルスにより世界は大混乱していた。世界はつながっているのだという事実を、一つのウイルスが同時に大流行したことから皮肉にも実感することになった。夫の工場も、その影響を受けていた。ウイルスの侵入を阻止するために、各国は出入国を制限したのだ。そのため、工場に必要な原料が手に入りにくくなって、価格が高騰した。

 夫の工場は地元自動車メーカーの下請けの仕事で、必要な部品の金型からプレス加工までを請け負う会社だ。様々な種類のコネクター、自動車電装品や一部のコンピューター関連品を製作している。この工場業務には、高度な技術が必要とされる。それは、加工する機械をまず設計することが求められており、また、その高性能な機械を使いこなす高度な技術も求められている。ミクロン単位での細かい作業が必要だ。
 夫は新しい技術を学び直して、この高度な機械を設計するCADシステムに生かしていた。その技術は、長岡という夫の大学後輩の開発部員も一緒に研究していた。うちの工場は技術力はあったのだが、経営がうまく回っていなかった。

「工場長、材料費は先月よりも、5パーセント上がっています。でも、発注の数は減るばかりで、このままですと・・・・・・」
「そうだな。長岡。そこの差額を少しでも埋めていかないと、まずいことになる。今のままでは、部品を作っただけ赤字だ」
 長岡は工場の危機的な場面で、夫に提案をしてくれるベテラン社員だ。彼のおかげでその都度、倒産を免れてきた。誰が言っても言うことを聞かない夫が唯一、聞く耳を持つのは長岡の言葉だけだ。他の従業員が夫に抱く反発や不安を受け止めて、間に入って話をしてくれるのも長岡だ。そのおかげで、夫のようなワンマン工場長でもなんとか務めることができている。

 私は事務の仕事を手伝いながら、夫と長岡の会話をよく耳にしていた。私は長岡に、特別な感謝の念を抱いていた。
 これまでの夫であれば、長岡の話をしっかり聞くことができただろう。だが、両親が感染症で亡くなってから、日に日に頑固になっているのだ。聞く耳を失った夫に助言できる者はもはや、誰もいないのかもしれない。

 長岡は、工場が存続するためには何が必要なのか終始考えている。
「工場長、このままでは三ヶ月後には赤字で会社は潰れてしまいます。材料の配合を見直して亜鉛を減らし、アルミの配合を少し増やしてみてはどうでしょうか?」
「長岡君、そんなことをしたら部品の強度が下がってしまうじゃないか。我が工場の部品はエンジン回りなんだ。強度こそが安全を保障するのだよ」
 夫は、長岡を睨み付けた。そして、吐き捨てるように言った。
「信頼を無くすことにつながるのではないかね?」
「でも、今の材料費の高騰した状態では、作れば作るほど損失が出続けます」
「そんなこと、言われなくても分かってる!」
 夫はそう言うと、デスクの上にあった部品サンプルを長岡に目がけて投げつけた。長岡は、咄嗟のことで避けることができず、彼の腕に当たり鈍い音がした。その部品サンプルは私の事務机の方まで飛んで来た。
「長岡さん、大丈夫ですか?」
 私は駆け寄った。思ったよりも傷口は深いようだ。自分のハンカチで止血をした。
「おい、消毒でもしてやれ。長岡君、今は国の補償がどうなるのか待つことが大切なんだよ」
 夫は一言も詫びずにそう言った。
「長岡さん、消毒をしましょう」
「はい」
 長岡は力なく返事をした。

 長岡を従業員用の休養室に案内した。六畳の和室は工場の創業当時から変わっておらず、昭和の臭いがした。小さなローテーブルの前に隣合わせて座った。止血したハンカチを外した。長岡の腕をそっと抑えて、傷口を消毒すると、長岡は短く唸った。傷口に消毒液が滲みるのだろう。
「長岡さん、大丈夫ですか?」
「なんとか」
 長岡は、照れ臭そうに微笑んだ。ガーゼを傷口に当て、テーピングで固定した。長岡の腕は筋肉質で、しなやかで逞しかった。
 私は長岡の顔をこんな近くで見つめたのは初めてだった。日頃抱いているイメージよりも、柔和な瞳をしていた。
「長岡さん、申し訳ないです」
「いいんですよ、奥さん。僕たちは工場長の癇癪には慣れていますし、工場にいる時だけ我慢すればいいんですから」
「いつも夫をフォローしてくださって感謝しています」
「僕は、それよりも家庭でも仕事でも一緒に居る奥さんのことが心配で・・・・・・」
 そう言うと長岡は、突然、私の唇に、自分の唇を重ねてきた。私は突然のことに一体何が起きているのか掴めなかった。だが、長岡の体温は唇を通して伝わってきた。優しくて溶けてしまいそうで涙が溢れた。誰かの優しさを感じたことは結婚以来、皆無だったのだから。
 長岡は一瞬、唇を離して私の瞳を見つめ、涙をそっと指でぬぐった。

 そして再び私の唇を求め、舌を絡めて来た。彼の右手はいつしか、私のブラウスの上から何かを探すようにねっとりと彷徨っていた。体の奥の方から熱いものが込み上げてくるのが分かったが、必死で打ち消した。
「長岡さん、止めてください」
 誰かの体温を求めていたのかもしれない私は、それでも両手に力を込めて、長岡を突き放した。もしも夫にバレてしまったなら、長岡はどうにかされてしまうことだろう。それだけは避けなくてはならなかった。
「長岡さん、何もなかったことにしますから・・・・・・」
 私は乱れた髪を手櫛で整え、そのまま工場を後にして自宅に戻った。長岡は一人で工場に戻って行った。

 私は自宅に戻ると、何事もなかったかのように夕食の準備を始めた。自分の中に女としての性の片鱗が残っていたとは気付かなかった。長く忘れていたスイッチが押されてしまった。どうしたら良いのか分からない遅い性の目覚めに、思春期の少女のように戸惑っていた。このスイッチが押されてしまったら、誰かを求めたくなる。それは、非情な夫でも良かった。

 忘れてしまいたくて、無心でジャガイモの皮をむき、玉ねぎを切り、肉じゃがを煮込んだ。そして煮込んでいる間に、味噌汁を作り、サラダを用意した。

 私は夕食を作り終えて、夫が帰宅するまでの時間をいつも持てあましていた。子供がいた頃は、一緒に宿題をしたり、今日の出来事を話したり、一緒にドラマを見たりして楽しい時間だった。夫婦二人の生活とはこんなにも味気ないものなのかと最初のうちは失望感でいっぱいだった。「空の巣症候群」といった方が良かったのかもしれない。
 夫は普段通り九時過ぎに帰ってきた。

「補助金だけではどうにも間に合わない。来月も赤字らしいんだ」
 夫は、夕食のテーブルに着くと開口一番にそう言った。夫が普段よりも落ち込んだ表情をしているので不安になった。
「いよいよ銀行に融資をお願いしようかと思うんだ」
「融資を頂いた後に、返却の目処は立ちそうですか?」
 夫が怒るのを承知で聞いてみた。
「いや、まだ分からないんだ。返す見込みができるかどうか」
 こちらが拍子抜けするほどに弱々しかった。これまで見たことのない夫の姿だった。結婚してから初めて、私は夫を助けたいと思った。あんなに憎しみ合っていた夫に対し「何か力になりたい」という気持ちが芽生え、不思議な心持ちがした。
「ねえ、あなた。私に何かできることはないかしら?」
「君に出来ることは、僕と一緒に泥船に乗ることなんだ。だけどもし、国が無利子・無担保に近い形で融資してくれるなら助かる見込みがある」
「無利子・無担保で融資してくれたらどんなに助かるでしょうね」
「そうでない場合は覚悟して欲しい。倒産するかもしれない。君は、僕と結婚したことを後悔しているんじゃないかな」
 私の顔を見ながら夫は、静かにそう言った。私を気遣っている様子が伺えた。これまでは、家族なのに他人だと思っていた。家族なのに、彼は私のことをまるで敵対しているように扱っていた。

 それが、夫の両親が亡くなってからようやく、心を許してくれた。私との距離が少しずつ縮まってきている。長い時間を経て、今、ようやく夫婦としての関係を築き始めているのかもしれない。昼間の、長岡との一瞬の出来事は記憶の向こうに追いやられていた。ただ期せずして長岡によって入れられた女としてのスイッチは押されたままだったのだ。
「ねえ、あなた。私はあなたと結婚したことを後悔していないわ」
 そう伝えると、夫は私の膝に泣き崩れた。夫の涙を見るのは初めてだった。元々は、好きで一緒になった相手である。力なく弱っている姿を見せられると、母性本能のようなものが芽生えてくる。これまでのひどい仕打ちを忘れてしまった訳ではない。でも、このまま夫を見捨てる訳にもいかなかった。夫婦とは、運命共同体のようなもので、不利益があれば一番身近な敵対者となり、不利益が解消されれば良き理解者と成り得るのだろう。

 この夜、私は何十年ぶりに夫と夜を共にした。誰でも良かったわけではなかったのだ。この変わり果ててしまった女体を恐る恐る見せることができるのは、やはり、夫しかいなかった。これまでのことを払拭するかのように夫は私を優しく抱いた。名前を囁かれた時には、二十代の頃に戻っているかのようだった。もう一度夫婦関係をやり直したい。心から思った。

 夫の工場は、この時かろうじて倒産を免れた。政府系金融機関から民間金融機関に広まった「ゼロゼロ融資」により、実質無利子・無担保で融資を受けることができたのだ。少しずつ黒字に回復をするのだが、充分な利益までには至らなかった。

 そして夫は、六十歳になるのを区切りに、後継者もいないことから廃業を決断した。事業継承を行わず、技術継承は従業員に行い、取引先にもできるだけ迷惑がかからないように工場を畳んだ。少し残った負債は、工場の土地や建物を売却することでなんとか賄うことができた。こうして私たち夫婦は、工場経営の気苦労や責任から解放された。

 森山と私の半生における子育て後の期間は、「仕事の充実期」であった。工場が軌道に乗って多くの利益を生んだのだが、結果的に工場は廃業してしまった。それでも何か実りがあったとするならば「夫婦の絆」ではないだろうか。「夫婦の絆」は様々な誤解や摩擦を乗り越えてようやく生まれるものなのだろう。


 だがしかし、廃業ののちに分かったのだが、工場にあった借金はまだ数百万円残りがあり、その後の人生に暗い影を落とした。







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