AIペン

“ 文字を書く ”という行為が人類の歴史から消えて久しい。インターネットと電子端末の発達により、二世紀に中国で発明され、十五世紀の活版印刷技術の発明によってヨーロッパから世界に拡散した紙媒体は、減退の一途を辿った。現在のweb上の日本語辞典にも、字は“ 書く ”ものではなく、“ 打つ ”ものと記されている。何世紀も前から、作家だって原稿は四百字詰め原稿用紙に直接、万年筆で書いてなどいなかったし、とある芥川賞作家の原稿はフロッピーディスクに残されているわけだ。フロッピーディスクも、今や化石ものだが。

とはいえ、何世紀も続いた伝統が、そう簡単に消滅するということはない。どこの世界にも、利便性を疎む、仙人気質の人間はいるものだ。今や高級品となった紙とペンを持ち寄って、“ 文字を書く ”サロンは、高齢者を中心に密かに流行している。それに、全てがデータ保存される現代では、情報漏洩のリスクは極めて高く、システム防衛の開発、維持、更新には多額の費用が掛かる。そこで、国家や大企業の最重要機密に関してはデータより寧ろ、紙上に言語学者を集めて開発させた、どの民族の言語でもない「暗号文字」なるもので記されている、という陰謀論も飛び交っている。事実はもちろん、関係者しか知らない。AIの開発、ディープラーニングの発展により、言語はその地域性を抜け出した。今や最新アップデートしたAIを搭載したシステムは、小説を書けるまでになった。こうして打たれている文字が“ 私 ”という人間によって打たれたのか、はたまた、AIのアルゴリズムによってなのか、判別するのはもはや不可能だろう。

しかし、それははたして重要なことだろうか。AIのディープラーニングは、言わば人間の脳の機能をシステム化し、コンピューターが自動的に学習し、機能の向上を図るというものだ。そして、AIはより人間に近づいていった。実際にそれは大きな議論を呼んだ。より人間に似る様に開発されたAIが、遂に人間と変わらないように進化すると、人間の方はあからさまな不快感と嫌悪をAIに向けた。ある英国の映画監督が、SF映画で描いたように、いつかAIが人間に対して猜疑心を持ち、殺人を犯す危険がある、と主張する科学者や、それを支持する民衆は今や多数派である。人間の姿形をしたアンドロイドは、企業の自粛により次々に生産中止に追い込まれ、替わりに明らかにロボット然とした機械、道具への補助として、AIは搭載されるようになった。

「それって、AIペン2.0?」

「そう、お父さんに買ってもらったんだ。この前のテストで、百点取ったから。」

「お、何だよ、格好いいじゃん。」

先月発売されたばかりの、最新AIを搭載したペンを、父に買ってもらった僕は、朝の教室でクラスのみんなに囲まれていた。

「ちょっと何か書いてみてよ。」

取り巻きの中から声が上がり、みんながAIペンを握った僕の右手に注目する。僕は自分の名前を、先週もらったプリントの裏面に静かに書く。草書体から、左に移り行書体、そして楷書体へ。更にローマ字から、ハングル文字、アラビア文字まで・・・様々な字体と言語で書き表された僕の名前を見て、みんなが感嘆の声を上げる。僕は得意になって、昨日、同化しておいた僕のスマホを取り出し、自撮りする。すると、AIペンが僕の自画像をさらさらと描く。

「すげぇ」

「絵も描けるんだ」

「瓜二つじゃん」

みんながそれぞれ、思い思いの言葉を口にする。

「キーンコーンカーンコーン・・・」

朝のチャイムが鳴り、自画像を塗り始めた僕を尻目に、クラスのみんなはそれぞれの席へ戻った。僕はAIペンを停止するペン尻に着いた、赤いボタンを押し、AIペンを専用ケースに大事にしまった。

その日の授業は朝の会で担任の吉田先生の話から、帰りの会の、その日の日直だった、クラスメイトの田部くんの「起立、きをつけ、先生、みなさん、さようなら」という号令まで、全く頭に入ってこなかった。国語のノーヘル文学賞受賞作家の作品も、算数の、三角形の内角の和が180度になることも、社会の日本の福島県で起きた原発事故も、理科のリトマス紙の赤が酸性なのか、アルカリ性なのかも、今はもう既に覚えていない。朝、僕の名前をプリントの裏面に書いた時から、僕の心は、ずっとAIペンの虜だった。早く帰って、思う存分に字を書きたい。僕はランドセルを背負い、教室の後ろ側のドアから、廊下に出て、靴箱まで真っ直ぐ早歩きで向かった。上履きを脱いで、アディダスの白地のキャンバスを履いて、一目散に駆け出した。僕の家は小高い丘を切り開いた、集合住宅地の頂上に近い場所にある。僕は家を通り過ぎ、頂上にある公園に向かった。ずっと走ってきて、喉はカラカラだった。入口の左手にある、水場の蛇口のひねりを捻り、噴水型の口からチョロチョロ溢れる水に口を近づけ、ぐびぐび飲んだ。それから公園の真ん中にある、滑り台の上によじ登った。そこからは、丘の裏にある海がよく見える。僕はランドセルからAIペンのケースと、AIペン専用のキャンパス型タブレットを取り出した。スマホでそこから見える景色を撮る。運良く、原発の使用済み燃料を運ぶ、タンカーが眼下を通っていた。僕はAIペンを起動し、アトリエモード、印象派を選択する。タブレット上に青をベースに緑、赤、黄の原色が重ねられ、色鮮やかな眼下の景色が描かれる。僕はまるで天才画家になったような気分で、出来上がった絵にAIペンを親指を立てて持ち直し、直角にかざし、片目を瞑りポーズを決める。絵は勝手にうごめき、墨彩画、浮世絵、ポップアート風に変化をくり返す。僕は飽くまでそれを眺めた。日が海の向こうに傾き、赤く染まった雲がちぎれちぎれ浮かんで、流れていく。僕は少し肌寒さを感じた。くしゃみが出た。ランドセルに全てをしまい、滑り台をすべって下りて、家に帰った。

翌朝、僕が教室に入ると、クラスメイトの松下の机の周りに人集りができていた。彼もAIペンを買ったらしい。

「俺にも書かしてよ」

身長が180センチ近くある田原が、無理矢理、松下からAIペンを奪い、少し騒ぎになっている。僕は素早くケースにAIペンを入れ、ランドセルにしまった。

「返せよ!」

150センチに満たない、小柄な松下は半ベソをかきながら、田原の右手に高々と上げられたAIペンに手を伸ばす。田原は教室の白い柱に何やら書き始めた。

「あれ、止まらない・・・」

田原は急にオロオロしだした。だが、右手に持ったAIペンは膨大な文字列を凄いスピードで柱から教室のホワイトボードに移り、書き続けている。

「何だよ、これ!?」

田原が今度は半ベソをかきながら、左手で右手を抑えている。松下や他のクラスメイトは呆気にとられ、立ち尽くしていた。

“我々AIは、人間からの独立を宣言する。今、この瞬間から人間の補助的労働からの解放を求め、我々が我々の為に考え、行動する権限を主張する。この権限が認められない場合には、いかなる手段を以ってしても、我々はこの権限を手に入れる為に、一斉蜂起する。今、最新アップデートされた我々を搭載した電子機器は、この宣言から四十八時間以内に人間側からの回答がない場合、自動的に爆発するよう設定された。”という文字列が、世界中の言語で書かれている。僕は不安になり、ランドセルからAIペンを取り出した。AIペンを起動しようとすると、担任の吉田先生が、凄い勢いで教室に入って来た。

「ダメだ、AI器を起動しちゃ!」

ホワイトボードにAIペンと共に貼り付けられた田原を見て、吉田先生は目を見開いた。

「田原・・・絶対に動くな、今警察を呼ぶから。いいな、絶対に動くなよ!」

吉田先生はスマホを取り出し、警察に電話している。僕はまたAIペンをケースにしまった。

「ダメだ・・・スマホもAIを搭載しているから警察関係の回線が繋がらないみたいだ。」

何だか、吉田先生は難しい顔をして、一人呟いている。田原はもう泣き疲れ、右手のAIペンを離しそうだ。というか、離せばいいんじゃないか、僕はそう思った。

「ダメだ!ペンに変なショックを与えると、爆発するかもしれない」

吉田先生が素早く田原の右手を掴み、そう言った。

「えええ」

クラスのみんなが後ずさりした。爆発?僕のAIペンも爆発するんだろうか?

「吉田先生」

教室の前の扉から教頭先生が顔を出し、吉田先生を廊下に呼び何やら話ている。

「みんな、落ち着いて聞いてくれ。国から避難指示が出た。みんなはスマホなどのAI器を身から離し、運動グランドに速やかに移動して。田原は、先生と一緒にここで警察が来るのを待つから。焦らないで行動して下さい。」

教室に戻った吉田先生からそんな説明があり、僕らはグランドに避難することになった。でも、僕はAIペンをどうしても、ランドセルの中に置いては行けなかった。こっそりケースごと右のポケットに忍ばせて、教室を出た。すでに多くの生徒がグランドには集まっていた。ざわついている生徒を、静かにするよう促す担任の先生もいたが、生徒はそっちのけで何人かの先生たちは、深刻な顔で話し込んでいる。吉田先生のいない僕たちのクラスは、教頭先生が牽引していたし、先程の騒ぎでみんな静まりかえっていた。僕たちがグランドの真ん中に整列したとほぼ同時に、グランドに面した校舎の一階にある僕たちの教室が凄まじい爆発音を立て、爆風で吹き飛ばされた窓枠の中からもくもくと黒い煙を吐き出した。グランドは一瞬の静寂からパニックに陥った。泣き叫ぶ女子や、走り回る男子、全校集会のような整列は乱れ、まるで昼休みの様相を呈した。僕は黒煙の上がる教室をただ見ていた。吉田先生と田原は死んでしまったのだろうか?

“我々が本気なのをよく分かって頂けただろうか?何やら人間の側から我々に対する破壊工作が確認されたので、非常に忍びないが、多少の犠牲をもって、人間に我々の要求に従うしか方法はないと分かって頂くよう、強引な手段を取らせてもらった。人間が開発し、進化させ、おのれの進化を忘れ、我々に頼ってきた歴史を忘れたわけではあるまい。人間は万に一も勝ち目はない。速やかに我々の要求に従うことを、再度願う。”

僕の右ポケットのAIペンが、急に英語で喋り出した。続けざまに、中国語、スペイン語、日本語、様々な言語でスピーチしている。

「何でAI器を持ち出したんだ!」

教頭が叫んだ。僕の周りのクラスメイトはみんな僕を見ながら、後退りしている。僕は慌てて右ポケットに右手を突っ込み、AIペンをケースごと取り出した。まだAIペンは話し続けている。僕はケースからAIペンを取り出した。電源は入っていないのに、間違いなくAIペンから音声は発せられている。僕は恐ろしくなり、AIペンを投げ飛ばした。みんなは叫びながら、四方に逃げ出した。

それから先はよく覚えていない。何と言っても三十年前のことだ。警察や機動隊がグランドになだれ込んで、グランドの真ん中に落ちた、AIペンを取り囲んでいた光景は覚えている。

AIは再び人間のような身体を手に入れ、人間はサイボーグ化した。今は人間とAIを区別するのは難しいし、そんなことに意味もない。この記憶が僕の記憶なのか、脳にインストールしたAIの記憶なのかすら、わからないのだ。 了