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「おそろし 三島屋変調百物語事始」 宮部みゆき

読了日:2012/8/16

川崎にある、とある宿屋の娘、おちかは自分の間近で起きた悲劇から立ち直れずにいた。
江戸で叔父夫婦の営む三島屋はそんなおちかを引き取り、奉公人として働かせながら、静かに優しく見守っていた。
ある日、急用のため留守をする叔父から、碁の約束していたお客様へのお詫びを努めてほしいと頼まれる。
人と距離を取り、心を閉ざしているおちかは、その依頼に難色を示すものの、身内であり奉公人の立場でもあるため、逆らうことはできずお客様へ挨拶に伺う。
相対したおちかは、お客である籐兵衛が庭をみて狼狽するところを介抱する。
聞けば籐兵衛は、庭に咲く曼珠沙華の華とそれにまつわる自身の過去を思い出したという。
おちかは図らずも、藤兵衛から彼と曼珠沙華にまつわる話を聞くことになる。
その話をのちに聞いた叔父は、考えをめぐらし、江戸中のちょっと不思議で怖い話を集めはじめる。
そして、その話の聞き役をおちかに命ずる。

宮部みゆきの時代物。
やはり宮部さんの時代物はよい。

この小説の中では、家族だったり、大事な人、身近な人への複雑な感情が書かれている。
話のひとつひとつが、ほんのり哀しくて、切なくて、でもどうしようもなくて。
号泣するほどではないけど、時々心を揺さぶるセリフや何気ない言葉がある。
そのじんわり感が良かった。

後書きで「怪談による診療内科」とあって、思わずなるほど!と頷いた。
おちかは様々な人の話を聞いて受け止めて、話をした人の心を少しだけ軽くする。
さらに自分も人に話をすることで、混乱し、塞いでいた心を整理していく。

「何事もインプットとアウトプットのバランスが大事」というのが私の持論なのだが、これを読んで「やっぱり改めてそうだなぁ」と思った。
食べたら食べた分、きちんと出さなければ体が不健康になるように、知識・情報、感情も、入れたからには(作り出したからには)なんらかの形で出さなければ、心や思考は少しずつアンバランスになるような気がしている。

仕事でセミナー講師や、テキスト作成をやっているけど、入れた知識をアウトプットしている最中に、
「あっ!これってこういうことか」とか
「前にわからなかったあれってこういうことか!」
と気付く経験が何度かあった。
アウトプットする行為やアウトプットに伴う思考の過程で、情報が整理され、定着していくんだと実感する。

鬱になってしまったり、心が不安定になるのも、インプットとアウトプットのアンバランスが原因のひとつにありそう。
悶々とした感情や考えを吐き出す場がないと、人はしんどくなってしまう。

殺人事件を起こしちゃった人たちも、孤独がその根本にあることが多い。
それって、結局、感情をアウトプットできる場所を得られなかったが故の悲劇なのかなあと思うので、誰か一人にだけでも、話を聞いてくれる人がいたら違ったのかもしれない。
ま、いろんな要因があるだろうから、もちろんそれだけではないだろうけど。

ワタクシ的名文

「おまえにも、誰かにすっかり心の内を吐き出して、晴れ晴れと解き放たれるときが来るといい。きっとそのときが来るはずだが、いつ来るのかはわからない。そしてその役割は、ただ事情を知っているというだけの、私やお民では果たすことができないのだろう。おまえが誰かを選び、その誰かが、お前の心の底に凝った悲しみをほぐしてくれる」
「同じ女同士ですもの。わたしだって、可哀想だとかさぞ辛いだろうとか、反対に、なんて嫌らしい商いだろうとか、いろいろ思ったものです。あの人たちを買って遊ぶ男の人たちを、人でなしだと思ったこともあります。でも、そういう思いはみんな心に蓋をしてしまいこんでおくように、おっかさんは言いました。あんたが一人で何をどう頑張ったって、川崎宿の飯盛女をみんな助けることはできやしないんだし、あれはあれであの人たちの生計の道なんだからねって」
世の中とはそういうものなのだ。
「わたし、今になってわかるけど、うんと深い根っこのところでは、私たち家族は松太郎さんのこと、ちょうど、丸千に来る飯盛女の人たちと同じように扱っていたんじゃないかと思うんです」
親切にする。困っていれば助ける。笑顔をかわすことだってあるし、何かあれば案じる。そうしておけば、互いに利得のある間柄だからだ。
でも、線は引いている。
亡者はいる。生者の胸のなかに。浄土もある。生者の胸のなかに。そんな易しいことならば、誰がこうして苦しむものか。

じんわりほっこり、ちょうどよいバランスの小説。

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