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改元の多様性と元号の一般化① 元号の成り立ち

現在の天皇陛下(今上天皇)が譲位されることで今年で平成も終わり、新元号が制定されます。

そこでとかく話題になる新元号についてですが、歴史を学ぶにあたって元号の話は外せないところです。
そこで、平成が終わるにあたり、現在では我々の身近な存在となった元号について歴史などをさかのぼってみたいと思います。

本当は平成最後の夏!なので、もう少し楽しくて気の利いた話にしたいのですが、元号の話をするのはたぶんこの時期くらいしかないと思い、こんな内容になりました。
夏らしくなくてすみません…。

この話を通して、去り行く「平成」と来る新しい元号について想いを馳せる一助になればと思っています。

①「元号」の成り立ち

元号は、中国の王朝である「前漢」の武帝が、紀元前115年頃に、自らの治世の当初に遡って「建元」という元号を定めたのが最初と言われています。

ちなみに、日本で最初の公な元号は、645年、孝徳天皇の即位と共に定められた「大化」です。
※「大化の改新」は大化元年に始まっています。
 (下は、「乙巳の変」の一場面。住吉如慶・具慶作)

この時期に元号を公に使い始めたのは、大化の改新のコンセプトでもある「中国にならった中央集権化」の一環であると考えられています。

そもそも、元号を定めることは、
「空間のみならず時間も支配する」
ということを意味するので、日本における中央集権体制の確立の過程で元号を定めるようになったのはごく自然な流れと言えるでしょう。

その後、一度「白雉」に改元されますが、孝徳天皇の崩御後は新元号が定められず、天智天皇の時代の大半は元号がありません。
壬申の乱を経て即位した天武天皇は、崩御の直前、新たに「朱鳥」という元号を制定します。
しかし、天武天皇の崩御と共に再び元号は使われなくなります。
朱鳥の使用期間は48日、これは現在までの最短記録です。

その後文武天皇の時代(701年)に「大宝」と元号が定められてからは、日本国内では一度も絶えることなく元号が使用され続けています。
※大宝元年に大宝律令が制定されています。

公に…というのは、「大化」以前、継体天皇の時代にも「善記」という元号があったのですが、これは公のものではなく、朝廷で内々に使われていたようです。

現在では、元号を用いていた国(中国やベトナム、朝鮮など)では王朝が滅んでしまったため、現在でも元号を正式に用いているのは日本だけです。

元号が他の暦法と違うところは、「改元」があるため、西暦やイスラム歴、皇紀と違って元号単体での永続性がない部分です。
これは、先述の通り元号は「時間を支配する」という概念から定められているものなので、「在位中に変えるのも自由」ということですね。
明治以降は一世一元の制により、元号は天皇陛下の代替わりでしか変わりませんが、それより前は改元はもっと様々な理由で行われていました。


②「元号」を独自に定める意味

歴史で習った方も多いと思いますが、当時、周辺国は中国に「朝貢」をしていました。
朝貢は、周辺国が中国皇帝に挨拶に行き、自らの土地の支配権を認めてもらう…という話だったかと思います(卑弥呼や倭の五王の話など)。

朝貢の大まかな流れは、
・「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上
・「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用)
することにより、冊封を受けることです。
ちなみに、冊封とは、「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同じ意味です。

もう少し言い換えると、
・臣下の礼を取り、その証として、貢物を献上する
・天子(中国皇帝)から元号と暦を授かる
ことで、天子(中国皇帝)から土地の支配権を認めてもらう

という流れです。

ここで目にとめていただきたいのが、
「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること
という部分です。
そうなると、冊封を受けた国(日本も)は、中国の元号をそのまま利用しなくてはならないはずです。
しかし実際には、外交文書では中国の元号を使い、国内向けには独自の元号を定めるという形がとられていたようです(暦は、江戸時代まで中国歴を使用)。
これに対して、中国側も(わかってはいたでしょうが)表立って咎めたりはしなかったとか。

この二重基準は、当時の中国と周辺国、そして周辺国の国民それぞれの関係に原因があります。

冊封は封建とほぼ同じ意味…というところなのですが、封建体制でよくある勘違いがあります。
例えば鎌倉時代、「武士たちは皆、鎌倉殿(将軍)の家人(家臣)である」
と考えている方が意外に多いことです。

鎌倉幕府の組織を見ると、
「鎌倉殿は、御家人たちと主従関係を結び…」
とあります。

この「御家人」というのは、全ての武士を指してはいません。
御家人はあくまでも「一族の代表者」
実際、鎌倉時代の御家人は、幕府の本拠地に近い武蔵国でさえ100人はいなかったですし、鎌倉から離れた国では。一国に数名程度だったと言われています。

つまり、鎌倉殿と主従関係を結んでいるのは、全国でも500人程度しかいない代表者だけである、ということですね。

では、その他の武士はどうだったのかというと…
鎌倉殿と主従関係を結んでいない代表者(=非御家人)もいましたし、御家人や非御家人の家人(代表者ではない人たち)たちもいました。
※表現がややこしいですが、鎌倉殿の家臣=御家人、鎌倉殿以外の武士の家臣=家人ということです。

この「御家人の家人」達は、鎌倉殿との直接的な主従関係がないのです。
(御家人の家人に、将軍は直接命令はできない)

このシステム、実は室町時代の守護体制や、江戸時代の幕藩体制でも見られます。
(例:徳川将軍が直接命令できる家臣=御家人・旗本 大名の家臣=藩士)

前置きが長くなりましたが、冊封体制では、冊封された君主は自分の領域内における高度な自治を認められていたことになります。
(冊封したからといって、自分の家臣は中国皇帝の命令を受けるわけではない)
そうなると、自分の領域内では、引き続き自分の権威を示す必要がありますね。

日本が中国の中央集権体制にならって国家制度を改革していくにあたり、中国の元号ではなく独自の元号を定めたのは、「日本における空間と時間の支配者は天皇である」ことを示すためだったと言えます。

一方で、外交文書では中国の元号を使い、中国をきちんと立てることで、外交と内政のバランスを保っていたと考えられます。


ちょっと長くなってきましたので今回はここまでということで…。
次回は、改元や元号制定の基準、過去の元号の色々などを書いていきたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


※Note運営様
「平成最後の夏」に当たるのか、自分でもちょっとわかりません。
もし該当しないな、という場合、連絡いただければタグを外しますのでよろしくお願いします<m(__)m>

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