天保国絵図

文明と地図を考える その27 「天保国絵図」(後編)

前回の記事では、最後の官製国絵図、「天保国絵図」が編纂された時期の主な出来事、そして主な人物について触れました。

時の将軍は徳川家斉。15代に渡る徳川将軍の中で最長の在位期間を誇った人物でした。
しかし、その時期の世相は波乱万丈。

貨幣経済が地方にまで浸透し、江戸を中心に化政文化が花開く一方、貨幣経済の浸透により、経済的な競争に敗れて没落する人々も多くいました。
人々が長きにわたる天下泰平の中で繁栄を謳歌する一方、飢饉も度々発生し、「モノ言う人々」による事件も頻発。

統治体制のほころびが露わになり、「幕末」に向けてややきな臭い空気も漂い始めた…そんな時期です。

そんな中、100年以上も出していなかった国絵図編纂命令を、1835年に出したのはなぜなのか。
今回はそのお話の締めになります。

というわけで今回は

江戸時代の官製日本地図⑦
徳川家斉の治世と天保国絵図(後編)

です。

天保国絵図の編纂命令が出た当時に絞ってこの時期の出来事を考えてみると…
やはり、天保の飢饉

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