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琵琶湖を地歴する

7月1日は「びわ湖(琵琶湖)の日」。
1980(昭和55)年7月1日に施行された「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」にちなんで制定されました。

琵琶湖と言えば、日本最大の湖、そして環境問題に対する取り組みでも知られていますが、その成り立ちについては高校などでもあまり触れられることはありません。

というわけで今日は、琵琶湖について、地理と歴史の観点から見ていきたいと思います。

1、琵琶湖はいつ頃生まれたのか

琵琶湖の歴史をたどると、非常に古い時代までさかのぼります。
それは、「第三紀・鮮新世」
今から420万年ほど前のことです。
人類史で言えば「アウストラロピテクス・アナメンシス」が存在していた頃。
アウストラロピテクスは、いわゆる「猿人」です。

そして日本列島は、まだ島ではなく、ユーラシア大陸と地続きでした。

まだ日本列島の原型すらないですね。

この時代の琵琶湖は、現在の琵琶湖と区別して「古琵琶湖」と呼ばれます。

2、琵琶湖はどのようにして生まれたのか

琵琶湖は、地殻変動によってできた「構造湖」です。
構造湖としては、バイカル湖(ロシア)

などと並んで世界最古の湖と言われています。

構造湖
湖の成立原因による分類の一つで、地殻の断層運動によって発生した湖のこと。
発生原因ゆえ、水深が深く発生した時代も古いものが多く、古代湖と呼ばれるものにほぼ一致する。
比較的大規模なものが多く、ネス湖、チチカカ湖、タンガニーカ湖、バイカル湖(ロシア)が代表的。
日本では、琵琶湖(滋賀県)、諏訪湖(長野県)、青木湖(長野県)などがこれにあたる。
(Wikipediaより)

最初に「古琵琶湖」が生まれたのは、現在の三重県伊賀市平田にある上野盆地。
断層が作り出した窪地に水がたまることで形成されたのが、「大山田湖」です。
比較的水深が深く、気候も温暖で安定していたことから多くの生物が暮らしていたと考えられています。
ちなみに、淀川や琵琶湖にのみ生息する日本固有種「ビワコオオナマズ」

の原種にあたるナマズも、この湖に生息していたようです。
しかしこの大山田湖、300万年前には、周辺から流れ込む川が運んできた土砂によって埋め尽くされてしまいます。

それから、その北側に地殻変動で湖ができては、川が運んできた埋まる…ということを繰り返します(阿山湖、甲賀湖、蒲生湖)。
また、この間に地球の環境は寒冷化し、これらの湖に生息していた生物は大半が絶滅したとされています。

蒲生湖が土砂に埋まり、およそ湿地帯となった140万年ほど前、現在の岐阜県及び三重県と滋賀県との県境沿いに位置する鈴鹿山脈

が隆起します。
さらに、約40万年前になると比良山系が隆起、断層の活動が活発になったことで、現在の琵琶湖が形成されました。

イメージとしては、琵琶湖は東側を鈴鹿山脈、西側を比良山系に囲まれていると考えると良いでしょう。

3、琵琶湖を取り巻く歴史

琵琶湖は、縄文時代からすでに交通路として利用されていました(丸木舟なども出土)。
また、古代には「近淡海(ちかつあふみ)」、または「淡海乃海(あふみのうみ)」と呼ばれました。
これは、現在の滋賀県の旧国名「近江」の語源でもあります。

ちなみに、浜名湖は「遠淡海(とほつあふみ)」。
浜名湖がある静岡県西部が「遠江」と呼ばれたのはこれが語源ですね。

「琵琶湖」という名前が一般化したのは江戸時代中期頃とされています。
測量により湖の形が琵琶の形に似ていることがわかり、琵琶湖という呼称が定着したのだそうです。

琵琶湖は、古代から近代にいたるまで、日本の交通の要衝として栄えてきました。
というのも、琵琶湖は日本中の陸路・水路の結節点ったからです。
古代の幹線道路「七道」のうち、東海道・東山道・北陸道が合流する場所。
近世の「五街道」では、東海道と中山道が通る場所でもあります。

ちなみに、東海道と中山道が合流するのは「草津宿」

です(東海道53次の52番目)。

さらに言えば、琵琶湖湖畔は城が多くつくられた場所でもあります。
彦根城や長浜城をはじめ、現存しませんが、織田信長の居城としてあまりに有名な安土城、そのモデルとも言われ、当時最先端の総石垣を持つ観音寺城、明智光秀の居城でもあった坂本城、石田三成の居城であった佐和山城、浅井氏の本拠地でもあった小谷城など、挙げればきりがありません。

それもそのはず。近江国に残る城跡は1300余り
これは全国でもトップクラスです。
この地域は交通の要衝=商業ネットワークの中心でもあったため、この地域を掌握しようと戦国大名たちは熾烈な戦いを繰り広げました。
その時代背景が、最先端かつ多数の城がこの地域に築かれることになった理由です。

織田信長は、長浜城(羽柴秀吉)、坂本城(明智光秀)、大溝城(津田信澄)、そして安土城で、琵琶湖とその周辺地域を完全に掌握することで、その支配力を盤石なものにしようとしました。
江戸幕府が彦根城(当初は佐和山城)に譜代トップの井伊家を配し、琵琶湖を西国の抑えの拠点としたのも頷けます(井伊家の石高は、他の譜代から見ても群を抜いて高い30万石近い石高です)。

4、おまけ

「急がば回れ」ということわざは、琵琶湖から来ています。

室町時代後期、琵琶湖を渡るには草津と大津の間を結ぶ「矢橋の渡し」

という渡し舟を使っていました。
しかし運休が多く、瀬田の唐橋(琵琶湖の南、瀬田川にかかる橋)

まで迂回した方が確実だ、とうたった
「もののふの矢橋の船は速かれど急がば廻れ瀬田の長橋」
という、室町時代後期の連歌師、柴屋軒宗長の歌がもとになっています。

というわけで、7月1日には間に合いませんでしたが、琵琶湖について歴史や地理の観点から書いてみました。
そうなんだ!と思っていただけるところがあれば嬉しいです!

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