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上野恩賜公園開園の日

今日、5月9日は、明治9(1876)年に上野恩賜公園が開園した日です。
というわけで、今日は上野恩賜公園についてのちょっとしたあれこれを。

上野恩賜公園とは?

上野恩賜公園(通称上野公園)は、 寛永2年(1625年)、徳川家康・秀忠・家光に仕えた天台宗の天海大僧正

の発願により、江戸の鬼門(丑寅=北東)

を封じるために建立された東叡山寛永寺

の旧伽藍に造られた公園です。
天海大僧正は実は明智光秀だ、なんていう説もあったりしますが…。

寛永寺は現存しますが、元々は現在の上野恩賜公園ほぼ全域にわたる広大な土地が境内でした。
最盛期の寺域は30万5千坪(東京ドーム6個半くらい、現在の上野公園のおよそ倍)だったそうです。半端な大きさではありません。

天海に大いに帰依した家光が自分の葬儀を寛永寺で行わせたことから、寛永寺は増上寺と並ぶ「菩提寺」のような位置づけとなり、4代家綱、5代綱吉の廟は寛永寺に、その後の将軍は寛永寺と増上寺、交互に廟を作ることが慣例となりました。

その後、幕末には上野戦争

の舞台となり伽藍の大半を焼失、寛永寺も廃止の危機に陥りますが、寺域を大幅に縮小する形で再興、現在に至ります。
この際、没収された寺域に造られたのが上野恩賜公園です。


ところで「上野」とは?

「上野」という地名の由来にはいくつかの説がありますが、最も一般的に支持されているのが、「上の方にある平野=台地」だからだ、という説です。

実際、上野はどのような場所かというと…

もう少し引いてみます。

緑色っぽい部分は少し標高が高い「台地」です。
西側にずっと続いているのは「武蔵野台地」。そして、その先端にあるのが「上野台地」です。
地理的な表現では「舌状台地」といいます。
そう、上野はまさしく「台地」なんですね。

このような台地の先端部分は、昔から要地として集落ができやすい傾向がありました。
周りはほとんど低地ですから監視しやすいですし、入り口は西側の一か所だけ、あとは坂の下ですから防御もしやすいです。

同じような立地に造られた城塞としては、小田原城

が良い例です。
小田原城は巨大な「総構え」が注目されますが、城だけで見ても極めて考え抜かれた立地と構造を持っています。

城と言えば、伊東潤先生の

こちらの本。
城の物語、縄張り、構造などを掘り下げていて、実に読みごたえがあります。
もちろん小田原城も載っていますので、是非。

上野台地は古くから交通の要衝としても注目されていたようで、上野恩賜公園では、発掘調査で縄文時代の遺物や弥生時代や古墳時代の集落跡が発見されています。
さらに言えば、史跡ではありませんが摺鉢山古墳

もあります(前方後円墳です)。


上野恩賜公園で忘れてほしくない人

上野恩賜公園にある銅像と言えば、何と言っても「西郷隆盛像」

ですね。
堂々たる西郷どんの姿、見たことがある人も多いのではないでしょうか。

その他にも、
小松宮彰仁親王像

野口英世像

ボードワン(正確にはボードウィン)博士像(上野公園を作ることを提言した人)、

などあります。
あ、ちなみに現在のボードワン博士像が作られたのは平成18(2006)年。
妙に新しいのは、実は「違う人の像」だったのを作り直したから。
比較すると

UENO様より引用

こんな感じ。髭の有無だけではなく、確かに別人です。
誰?と思うのですが、実は弟さん(元駐日オランダ領事)だそうです。
オランダから提供された写真が、実は弟さんのものだったという超凡ミス。
それを言うなら西郷どんも…と思うのですが、まあそこは…(笑)

実は他にも、かなりマイナー扱いされているのが安井誠一郎像

初代東京都知事なのですが、西郷どんの陰に隠れてマイナー扱い。
実は、東京オリンピックの招致にも尽くした凄い人なのですが…。

上野公園に行った際には、来年がオリンピックですし、是非探してあげてください。

というわけで、今日は上野恩賜公園について触れてみました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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