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そういえば昨日は討ち入りの日?

何故か忙しく感じる師走、私もその例外ではなく、何となくせわしない日々を送っております。

そんな中で、すっかり忘れておりました。
昨日、つまり12月14日は、日付を見ると、赤穂浪士(四十七士)たちによる吉良邸討ち入りの日です。
ただ、討ち入りの日は「旧暦の元禄15年12月14日」、新暦(太陽暦)に直すと1703年1月30日なので、正確にはあと1か月ほど先のお話になります。
とはいえ、年末の風物詩ですので今、記事にしてみることにしました。

 この赤穂浪士の討ち入り、発生時から主君、浅野内匠頭の無念を晴らした「武士の鑑」、美談であるとして語り継がれ、浄瑠璃や歌舞伎の大人気演目にもなりました。
一応、法的に赤穂浪士たちは「罪人」ではあるので、それを英雄視する演目は幕府としては困ったものと感じたはずです。

しかしその人気ぶりから取り締まりなどできるはずもなく、江戸時代を通して「勧善懲悪(悪を懲らしめる)」の代表的な演目であり続けました。

そのタイトルは現在の年末時代劇でもおなじみの「忠臣蔵」です。
正式なタイトルは「仮名手本忠臣蔵」といいます。

一方、討たれた吉良上野介義央は「悪辣で卑怯者」、と評価は散々。
事件後解体された吉良邸の材木は、全く買い手がつかなかったとか。
当時、古材は再利用するため高値で取引されていましたし、吉良邸ともなればいい材木を使っていたはず。
事故物件とはいえ買い手はつきそうなものですが、それほどまでに評判が悪かったんですね。
ちなみにその後、吉良邸の材木の行方がわからなくなり、江戸の古材には吉良邸の材木が混ざっているという噂が広まったため古材価格が大暴落するなど、事件の影響は思わぬところまで広がっています。

さらに、隣家でありながら討ち入りの際に義央を助けられかった上杉氏(吉良氏は親戚)も、武士らしくないととばっちりを受けて「炎上」。
結果的に四十七士を助けたことになるので吉良氏ほどの扱いはされなかったものの、「軍神」謙信以来の名門上杉氏も、この後しばらく肩身の狭い思いをします。

実はこの時の米沢藩主上杉綱憲は、吉良上野介義央の実子。
父を助けられなかった薄情者・無能な息子として、世間の風当たりは相当なものだったようです…。
実際には、兵を出せば上杉氏は改易(お家取り潰し)になりかねませんでしたから、助けなかったのは藩にとっては正解だったのですが。

そんな、元禄時代の一大事件、赤穂事件について少し見ていきたいと思います。


赤穂浪士がしたのは「仇討」なのか

当時の法的に見れば赤穂浪士の行動は仇討にはあたらないという考え方もできます。
仇討は中世から近世にかけて、法的に認められる行為だったのですが、

・尊属(目上の親族)を殺害された場合
・加害者が行方不明で、警察や司法権による処罰が困難な場合

に限定されていました。
つまり、「公権力による処罰の委託」という性格を持っていたのです。
赤穂浪士の場合、

・浅野内匠頭長矩は、彼らにって尊属ではない
吉良上野介義央によって直接殺害されたわけではない
・公権力による処罰はすでに終わっている

など、それまでの「仇討」の要件を満たさないのです。

しかし、彼らの行動は「義」であるという擁護論が巻き起こり、話が複雑になっています。
当時、幕府が推していた儒学の一派、「朱子学」は、君臣の序、つまり上下関係を重視します。
転じて「家臣が主君に対して忠誠心を持つこと」は非常に大切である、と説かれていました。

赤穂浪士たちの行動が、浅野内匠頭長矩への忠誠心から来た行動であれば、朱子学の理念にもかないますし「義」であるということになります。
ただ、赤穂事件のように、主君の仇討と称した事件は前例がありませんでした。

法には違反しているが、理念にかない「義」である、となればその扱いはとても難しいものになります。

・処罰を見送れば、法秩序を否定することになる
・厳罰に処せば、世論を敵に回す
・下手をすれば幕府の推しである朱子学や、武士の「義」を否定することになりかねない

という、完全に板挟みの状態です。


そもそも5代将軍綱吉

の時代は、戦国時代の価値観や風習(戦国遺風)の払拭に力を入れていました。

例えば、有名な「生類憐みの令」ですが、これは綱吉が動物好きなため…とか、お告げがあって…など、その発端には色々な説があります。
ただ、綱吉は非常に聡明だったとされていて、そんな個人的かつ短絡的な理由だけで政治を行っていたとも考えられません。
同時期に盛んにおこなわれていた寺社仏閣の造営や修復も含め、その理由を考えてみます。

綱吉の時代は関ケ原からおよそ100年、大坂の陣が終わり、「元和偃武」が実現されてからすでに80年あまりが経過しています。

その頃現役で戦っていた人はもう生きていないでしょうが、その頃の話を直接聞いている世代はまだまだ多いはずです。
つまり、まだ「戦国時代」の価値観を大いに引き継いでいる世代であるとも言えます。

さすがにこの時期になると、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨を美学とし、命より彼らなりの義と名誉を重んじた「かぶき者」

は姿を消していますが、まだ人々の心の中に戦国は生きている、といったところでしょうか。

綱吉は、命の価値が軽かった戦国時代の遺風を正し、命が尊重される世の中を目指していたと考えられます。
いきなり「命を大切に!」と言っても効果は望めませんから、殺生を戒める仏教信仰動物愛護令、さらに服忌令のように「喪に服する」習慣など、死を忌み、命を尊ぶ価値観を作り上げる政策を実行に移していたのでしょう。

そこに降って沸いたのが赤穂事件です。
綱吉の「おいおいおい!」という渋い顔が目に浮かぶようですが…。


結局、赤穂浪士たちは「切腹」という結末を迎えます。
しかし、高家(幕府において儀式を司る名門)旗本を斬殺したという罪に比べれば、切腹というのはかなり寛大な処置でした。
普通であれば斬首ですね。
切腹は武士の名誉を保ったままの死斬首は名誉なき死なので、同じ「死」でも大きな違いがあります。

例えば、島原の乱

を招いた島原藩主松倉勝家は、改易(お家取り潰し)の上、斬首刑になっています。
その責任が極めて重いと断罪されたためで、大名の斬首は極めて異例でした。

ちなみに、赤穂浪士の子孫たちは各地で子孫であることを理由に登用されたり…赤穂浪士の人気は江戸時代を通して全国的に衰えることはありませんでした。
そのことを考えると、幕府の

・仇討とは認められないので処罰する
・情状酌量として、斬首ではなく切腹として名誉を保たせる

という処置は正解。
法秩序を守ることはできましたし、幕府まで「炎上」することは何とか回避することができたのです。
ただ、結果として吉良上野介義央を弁護する余地が全くなくなってしまったのですが…。
ここは、死んでしまった彼に泥をかぶってもらおう、という事だったのかもしれません。


赤穂浪士はなぜ支持を集めたのか

これはもう何となくわかりますね。

失われつつあった「武士は名誉と義を重んじて死ぬことが美しい」という武士の「こうあるべき」姿を赤穂浪士が体現してしまったからです。

さらに、吉良上野介義央の評判が、この赤穂事件以前からあまり芳しくなかったことも大きいです。

まず一つが、実は朝廷に嫌われていたらしいこと。
これは、高家である吉良上野介義央は、幕府の対朝廷政治工作要員でした。そのため、天皇や貴族たちは彼のことを良く思っていなかったのです。
実際に、当時の日記には事の発端となった松の廊下事件のことを「珍事々々(=面白い出来事)」と記しており、義央の負傷を喜ぶ内容になっています。
さらに、事件の報告を受けた東山天皇は「御喜悦(=たいそう喜んでいた)」というのですからいやはや…。

また、切腹となった浅野内匠頭は「不便々々(=何とも可哀想である)」とも述べています。

さらに、上杉家の中での評判もあまり良くなかったらしいこと。
吉良家の石高は高家であり、従四位下という官位の割には低く、4000石程度でした。吉良氏は足利氏の血を引く名門ですが、大名ではなく旗本だったためです。

大名…石高1万石以上。自治権の強い「藩」をつくることができる。主従関係はあるが、徳川家直属の家臣ではない。

旗本…石高1万石未満。徳川家直属の家臣。将軍に面会(お目見え)はできるが、藩をつくることはできない。

そのため、事あるごとに息子が養子に入った(のちに藩主)上杉家からお金を引き出すようになり、ただでさえ財政が苦しい上杉家をさらに苦しめた、という逸話が残っています。

さらにさらに、高家旗本の中でも、特に儀式などに精通したリーダー、「高家肝煎」という立場を利用して賄賂を集め、気に入らない者をいじめていた…などという逸話も残っています。
これについては、後世の創作も多く、さらに賄賂は当時、作法などの指導をしてもらった側は必ず渡していたお礼のようなもので、特別に義央が悪どかったわけでもなく…。
そう考えると、義央については問題がなかったわけではないものの、その「悪」についてはかなり脚色も含まれているようです。

ただ、いずれにしても「義」の赤穂浪士と「悪」の吉良上野介義央、という善悪二元論的な構図がどの身分、どの地域でも完全に出来上がってしまったのが、赤穂事件だったと言えるでしょう。

そして、義央の「悪」について、弁護してくれる人が身分問わずほとんどいなかった事、そして当事者が皆、多くを語らずに死んでしまったことで、義央の名誉回復は非常に難しいものになってしまいました。

赤穂事件が発端となり、後の時代にも曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』

のような勧善懲悪ものが人気を博したように、そして現代の時代劇でも勧善懲悪がもてはやされるように、やはり「武士は名誉ある死を!」という風潮は、根本的には今に至るまで変わっていないのです。

そういった意味では、「武士」のあり方を綱吉の努力むなしく人々の中に固定してしまった事件が赤穂事件だったとも言えます。

ちなみに、義央を少しだけ弁護しておくと、彼は自分の領地では「黄金堤」という堤防を築くなど、名君として慕われていたそうです。
赤穂事件の悪役である義央を大々的に弔うわけにもいかず、領民たちが義央を公に弔うことができたのは、事件から実に100年以上が経過した後のことでした。

また、浅野内匠頭と吉良上野介義央の争いの原因は、実は大名たちの争いに巻き込まれたことだった…とか、塩田の利権をめぐる争いだったとか、松の廊下事件、そして赤穂事件には色々な説が飛び交っています。
そういった説を読み、当時の社会情勢と照らし合わせてみるとまた面白いかもしれませんね。

年末、また忠臣蔵が放映されると思いますので、勧善懲悪の元祖としてぜひお楽しみください。


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