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日本史のよくある質問 その18 「荘園」とは?⑧

前回の記事では、藤原道長・頼道の持つ荘園の実情はどのようなものだったのか…について触れました。

実際のところ、確かに当時の藤原氏の力は強大で、他家と比較すれば多くの荘園を集積していたことは事実です。
しかし、その実情は

・荘園の収入に占める割合は、食封に比べたらそれほど多くない
・荘園領主が、外部からの圧力を避けるために「勝手に」寄進している

という状況になっていました。
あくまでも藤原氏は受け身で、主な収入も従来の食封(朝廷からの給料)だったのです。

では、これらのことを踏まえて今回のテーマ

荘園整理令と「四至牓示

です。

さて、以前の記事でも度々触れているのですが、この時期の荘園というのはまだヨーロッパの荘園のようにはっきりした領域が決まったものではなく、あくまでも「田地」を指しています。
その田地も開墾と荒廃を繰り返しているため、実は「荘園」の場所はここ!と完全に領域は確定はしておらず、やや流動的でした。

この田地の「開墾と荒廃」というのがやや曲者なのです。
藤原道長の時代になると、各地で奇妙な現象が見られるようになります。
それは大名田堵(有力な田堵)たちによる公田(公領における田地)の意図的な耕作放棄です。

実はこの頃、大名田堵たちはこんなことをしていました。

①耕作を請け負った公田を、耕す者がいない、などと理由をつけて荒廃させる
②荒廃した公田は、国の管理リストから抹消される
③荒廃した土地を再開発する
④「再開発」した土地は、税の優遇対象になる(税負担の軽減)

なかなか頭がいいなぁ…と思うのですが、やり方としてはかなり法的にグレーなラインです。

また、この方法を用いると、「公田」は帳簿上ではどんどん荒廃して無くなってしまうことになります。さすがにこれには、国内の徴税を請け負っていた国司(受領)も困り果てます。
このようなグレーな行為を取り締まるような動きも見せるのですが、決定的な効果はあげられずにいました。

この食封が「国」経由ではうまく集まらないようになると、貴族や寺社はそれを自分たちで取り立てに行くことになります。
具体的には、国司を通じて各地の公領内の田地(名)に直接、貰うはずだった食封を税として割り当てるのです。

税の流れを図解すると

こんな感じです。

こうなると、公領は実質的に貴族や寺社の領地のような性格を持ち始めます。
しかもこれは違法行為ではなく、朝廷の了解のもとに行われていることから考えると、初期荘園の話を少し被る部分がありますね。

そしてこの過程で、今までは「田地」という認識だった荘園が、田地や山海河川、畑地などを含む「領域」に変化していったのもこの頃です。
「田地」という認識だと、荒廃と開墾を繰り返す田地の変動が激しく、毎年のように税の割り当てを見直さなくてはなりません。それはとても不便です。

そこで、税を割り当てる田地を一か所にまとめてひとつの「領域」を作り(円田化といいます)、管理の効率化を図ります。
そして、この「領域」を示す石や杭を、四隅に設置します。
これを「四至牓示(ししぼうじ)」といいます。

後の時代になると、これを絵図にしたもの(荘園絵図)が作られるようになります。

この四至牓示の内側は、太政官・民部省・大宰府などの了承を得れば「荘園」として正式に認められてしまいます(官省符荘)。
そして、国司が四至牓示の内側については現地調査を全く行えなくなる(不入の権を得る)ケースが生まれます。
ただ、初期荘園と同じように、収穫の一部は国司に税として納めていました。

初期荘園と異なるのは、初期荘園は基本的に未開墾地を荘園化しているのに対して、このケースは既に開墾されている公領を荘園化してしまっている点です。
このことは、荘園が公領を徐々に圧迫し、国司による徴税をますます困難にしていきます。
そう考えると、国司はこの動きに逆らいそうなものです。
確かに、国司の中にはこのような動きを止めようとした様子も見られます。

しかし一方で、奇妙な動きをする国司も多く見られます。
国司がこのような荘園を認めてしまう(国免荘)ケースが多発し始めるのです。しかもこの認可、特定の時期に集中しています。
それは「国司の任期満了寸前」です。
任期満了寸前に国免荘を認めても、自分の徴税任務には大きな影響は出ません。
しかも、荘園からはお礼(賄賂など)などのうまみもあります。
どうやら国司の中には、制度を悪用して私腹を肥やそうとする輩は少なからず存在したようです。

このような状況を踏まえ、後三条天皇は1069(延久元)年、「延久の荘園整理令」を発します。
この荘園整理令ででは、

①券契(=領有根拠を記した文書(公験))が存在しない荘園は停止
②寛徳2(1045)年以後に作られた荘園は停止

などの内容が含まれていて、券契については「記録荘園券契所」という場所で審査を行いました。

この1045年という微妙な時期で区切っているのも面白いところです。
発したのは1069年ですから、およそ20年前。
実は、この1045年にも一度、荘園整理令が出されているのです。
時の天皇は後冷泉天皇。「寛徳の荘園整理令」といいます。
内容としては

①前任の国司の任期中以後に立てた国免荘を全て停止
②命令に背いた国司は解任し、今後一切国司には任用しない

という、厳しい罰則規定付きでした。
この2つの整理令を合わせると、何となく朝廷の目的が見えてきます。

つまり

・国司が私腹を肥やす目的で認めた荘園は違法
・正式な手続きを踏まない自称「荘園」は、誰の名義でも認めない

逆に
・きちんとした手続きを踏んだ荘園はそのまま認める

ということです。
寛徳の荘園整理令で、国司の不法行為による荘園は停止されているはずなので、ダメ押しとして延久の荘園整理令で券契のない違法荘園を摘発した、という流れですね。
一方で、食封を払いきれないのは事実なので、その調達など経済的に必要な部分については認める…という感じです。

さて、これらの荘園整理令で国司たちはどのような動きをするのかを見てみます。
寛徳の荘園整理令で罰則規定を設けられた国司にとって、国免荘を乱発することはかなりリスクが高くなってしまいました。
こうなると、やはり中央政府寄りの立場を取った方が得策、と多くの国司が判断します。
また、中央政府の中にも派閥がある(天皇家、藤原氏、後の「院」など)ので、そのどれかすり寄っていきます。
この派閥のことを「権門」といいます。
所詮彼らは中級貴族に過ぎず(正式には「貴族」ですらない)、生き残るには長いものには巻かれなくてはならないのです。

荘園の取り締まりに国司が積極的に参加するようになりますが、その標的が公平に選定されるとは限りません。
やはり、力の弱い荘園(名義が大貴族や大寺社でないもの)が標的になりやすいことは想像に難くありませんね。

しかし、荘園側もこの措置には反発します。
特に一度は国司から認可をもらっている国免荘の反発は強いものでした。
中には、券契を持っているのに難癖をつけられて取り締まられたケースもあったようです。

そこで荘園領主たちは、より力が強い貴族や大寺社に寄進をして自己防衛を図る必要に迫られます。この頃から、荘園が寄進されるケースが加速度的に増えるのはそのためです。
そして、中には国司と荘園領主の武力衝突に発展するケースも出てきます。

「領域」を支配する荘園領主が、国司との対立に備えて武装する…何となく察しが付くでしょうか。
これは、後に「武士」となる人々の一系統です。

彼らが武装し戦う目的は、自分の土地を守ること。
武士たちが「土地」にこだわり、地名を「名字」として名乗るようになるのは、こういった誕生の経緯があるからです。
そして、同時に、領域を支配する「領主」という概念がはっきりと確立していきます。

かなり話がややこしいですが、結果としては

・違法な荘園の多くは停止・廃止された
・券契を持つ荘園は、「領域」を支配し、支配者は「領主」となる
・国司は大貴族や大寺社、天皇家、院など、「権門」に所属するようになる
・領主の武装化が進む
・荘園も、いずれかの「権門」に寄進されるケースが増加する

などの結果をもたらしました。

天皇自身も荘園を持つようになったことは、これらの荘園整理令は以前のような中央集権的な公領による全国支配をもはや目指していない、という事も意味しています。

このように、「富豪の輩」「受領」の出現から始まり、後三条天皇の頃になると律令体制による中央集権的な支配は決定的に変質しています。

・課税単位が「人」ではなく「土地」になっている
・中央集権的ではなくなっている

体制を「王朝国家体制」といいます。
また、12世紀ごろにかけて成立した上記のような土地の支配の仕組みを「荘園公領制」というのです。
この制度は鎌倉~安土桃山時代という「武士の時代」にも存続しますが、豊臣秀吉による太閤検地で消滅していきます。


さて、次回は、今回せっかく少し触れましたので…
「武士」の成り立ち
について少し語りたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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