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日本史のよくある質問 その17 「荘園」とは?⑦

前回の記事では、国司と開発領主の微妙な力関係、そして「職」の世襲化と「受領」の出現について触れました。

今回の記事では、それらを踏まえ、摂関家に対する荘園の寄進、その実像について、藤原道長・頼道親子(摂関政治全盛期)を中心に触れていきたいと思います。

というわけで今回のテーマは

「藤原道長・頼道の荘園とは」

です。

さて、高校などで日本史の授業を受けた際の記憶がある方は、藤原一族でも最も有名な藤原道長

について、このような習い方をした記憶がありませんか?

「藤原道長は、寄進された莫大な荘園と、成功(じょうごう)で得た財力を背景に権力を振るった」

道長が造営した法成寺

(現存しませんが)などはその典型例として挙げられます。

※寄進とは
荘園の支配者である中下級貴族や現地の有力者などが、国司(受領)からの圧力を回避し、経営の安定化を図るためにより上位の権力者に土地の名義を差し出すこと。
一般的には、名義は変わっても、元々の支配者が荘官などの役職に就き、管理者として引き続き支配を続けていた。上位の権力者は、その荘園から年貢を得ることができた。
※成功とは
朝廷の行事の費用、殿舎や寺社の修繕や造営の費用など、本来、朝廷の公費で負担すべき事業を、任官希望者を募りその費用を負担させ、見返りに官職を斡旋するという売官制度の一種。

さて、実は…この内容、近年では必ずしも正確ではない、とされている事をご存知でしょうか。

その「誤解」の元になっている文献があります。
それは、『小右記』
道長の時代に、右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ)

が残した日記です。
その1025年7月の日記には、

「天下の地、悉く一の家の領となり、公領は立錐の地もなきか。悲しむべきの世なり。」
一の家の領…摂関家=藤原家の領地
立錐の地もなきか…錘が立つほどの広さもない=ほとんどない

という記載があります。
1025年7月というと、道長の最晩年(1028年1月没)にあたる時期です。

余談ですが、藤原道長、これだけ歴史上の有名人で、普通に病死したにも関わらず、「お墓」がありませんよね。
それどころか、この時代の歴代藤原氏の当主のお墓って聞いたことがないような…?
もちろん、その理由はきちんとあります(当時の死生観による)ので、またいずれ触れたいと思います。

話を戻します。

この日記をダイレクトにとらえると、「かつて公領だった土地の多くは荘園になってしまい、摂関家が日本中の土地を独占している」ように感じます。

しかしこの日記の記載、実際のところはかなり誇張が含まれていることがわかっています。
というのも、この時期の荘園と公領の割合は、小右記を見ると99.9%荘園のように感じますが、実際のところはどうだったか…というと、12世紀末(荘園が最も増えた時期)でも、荘園6:公領4程度だったと考えられているのです(「荘園公領制」というシステムになります)。
つまり、小右記のこの記事が書かれた1025年(11世紀前半)頃は荘園の割合はもっと少なかったと考えられます。

では何故、このような記載と誤解が生まれたのか。
これは現在でもあるなぁ、と思うのですが、前後の文章を無視して、一部分だけを抜き取って読み取っているのです。

この一文、藤原道長の子、能信(よしのぶ)が領有していた山城国の荘園で、雑人(下級役人)が主人の権威をかさに着て、国の使いとして荘園を訪れた人物に対して乱暴狼藉を働いた、という事件に実資が憤慨し、感想として書いたものなのです。
「荘園などというものが拡大するからこのような事件が起きるのだ!」という至極感情的な文章で、荘園の害についてことさらに強調しようとしたため、荘園の広さ(割合)などについてもかなり誇張したものになったと考えられています。

実際のところ、11世紀の荘園の寄進の実像は、まだだいぶ「ゆるい」ものでした。
確かに官省符荘(朝廷が認定した荘園)や国免荘(国司が認定した荘園)は増えていましたし、中には「不輸の権」や「不入の権」を獲得した荘園もありましたが、その割合は決して多くはありませんでした。

※不輸の権
  荘園が納めるべき国家への租税が減免される権利

※不入の権
  外部権力の権力行使を拒否することができる権利
  使者の立ち入り拒否=不入権
  警察・司法権力の拒否=検断不入権
  税徴収権の拒否=不輸権
  などが含まれます。
  「不輸の権」は「不入の権」の一部なのです。

この時期、国司による圧力(国司の中には、荘園を何かと理由をつけて取りつぶし、公領に編入しようとする者もいました)を避けるため、荘園の領主が勝手に、摂関家などの権威がある者に寄進をしたと言い張り、摂関家領であると名乗る(これは偽装では…)というケースも多発していました。
摂関家としても、「え?何それ聞いてない…」という荘園も多々あったと考えられています。

つまり、道長の時代には「摂関家が支配する巨大荘園」というものはまだ存在していなかった…というのが実像のようです。
道長の時代の貴族の収入源は、摂関家も含めてまだ朝廷から支給される「食封(お給料のようなもの)」が主でした。

目に見えて摂関家へ寄進される荘園が増加し、我々がイメージするような摂関家の領地、という雰囲気を持つ荘園(家領といいます)が形成されはじめるのは、道長の子、藤原頼通

の時代になります。

この時代になると、国司は正式な手続きを踏んでいないと思われる(公験=法的な証明書がない)私領についてはどんどん収公(公領に編入)する動きを強めていました。
さらに、「一国平均役」「臨時雑役」という形で、公領・荘園関係なく賦課される税制が始まります。
このような圧力、課税を避けるために、摂関家など権威あるものに対する寄進の動きはますます強まっていきます。

しかし、そんな頼道の時代ですら、収入源の主なものは食封であって、藤原家が荘園からの収入に依存していたり、経済基盤を積極的に荘園にシフトした様子も見られないのです。

そのことをよく表している言葉があります。
天台宗の僧侶、慈円

がこの時代の言い伝えを元に書いた『愚管抄』には、後三条天皇

が延久元(1066)年に行った「延久の荘園整理令」で、頼道が荘園の券契(正式な荘園であるという証明書=公験)の提出を求められた際の問答が記されています。それによると頼道は

50年あまり君(天皇)のご後見として関白をしていた間に、所領を持つ者が縁を求めて寄進してきたものを、そうかと言って受け取ってきました。
そのため、特に立荘の正式な手続きなどしていません。どうして文書などありましょうか。
ただ私の領であると申しているところが不当であり、不確かなところは皆、停廃(荘園取り潰し、収公)されるべきでしょう。

と述べています。
この発言、頼道が荘園整理令に反対し、後三条天皇に摂関家の権威を示すために言った放言であると言われます。

しかし、どうも今までの流れを見ているとどうもそうではなく、これは事実であり、本心だったのではないかと考えられます…。

というわけで、今回は道長の時代から頼道の時代の荘園の実像について触れてみました。

次回は、今回も少し触れましたが、荘園に対する朝廷の姿勢の変化がみられるようになった「延久の荘園整理令」とその周辺のできごとについて触れていきたいと思います。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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