無題

帝都を蘇らせた「大風呂敷」

1923年(大正12年)9月1日に発生し、南関東地域に甚大な被害をもたらし、およそ10万人の死者を出した関東大震災

その復興の中心人物の一人が、第二次山本権兵衛内閣で内務大臣兼帝都復興院総裁を務めた後藤新平

でした。

1、後藤新平、医者としての20代

1857(安政4)年6月4日陸奥国胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)吉小路に、留守家家士、後藤左伝治と利恵の長男として誕生しました。
また、蘭学者高野長英は彼の大叔父にあたります。

6歳の頃には書にも長けていた後藤新平は、8歳の頃から漢学、11歳の頃には藩学で詩文を学ぶなど、その才覚は目を見張るものがあったようです。
ちなみに、同じ頃、胆沢県大参事の安場保和

の目に留まり、学僕(書生)となっています。
ちなみに同期の学僕には後の首相、斎藤実

がいます。

17歳の時、福島洋学校に入学しますが、翌年周囲の勧めもあり須賀川医学校に転校します。
本人は当初政治家を志していたようですが、大叔父の高野長英の生涯と重ね合わせて心配した周囲からも止められ、当初は医者としての道を歩みます。

しかし彼は、図らずも政治の世界に引き込まれて行きます。
これが「運命」というべきものでしょうか。

1882(明治15)年、岐阜で遊説中の板垣退助

が暴漢に襲撃され、負傷します。

何とその際に手当てを行ったのが後藤新平。
その手際の良さと落ち着き払った態度に感服した板垣は、「彼を政治家にできないのが残念だ」と呟いたと言います。

そして翌年、その板垣の計らいもあってか、内務省衛生局照査係副長に抜擢され、官僚としての道を歩み始めることになるのです。


2、官僚としての30代~40代

彼は、1890(明治23)年から2年間、ドイツに留学します。そして帰国後、内務省衛生局長に任じられます。

翌年、相馬事件に連座して投獄されるというハプニングに見舞われますが、1894(明治27)年に無罪放免(投獄されていた期間は長いですね💦)、臨時陸軍検疫部事務長官に就任します。

「臨時陸軍検疫」とは一体何事か…というと、日清戦争後に国内に帰還する兵士に対する検疫を行うことでした。
後藤新平はここで卓越した手腕を発揮。
わずか2か月の間に700隻もの艦船と23万人あまりの将兵の検疫を実施、その際に1500人のコレラ患者を発見したのです。
江戸時代以降度々流行していたコレラは、「コロリと死んでしまう」の連想から「虎狼痢」「虎狼狸」などの呼び名がつけられ、明治時代に最も恐れられた伝染病のひとつでした。
その国内への侵入を防いだ功績は大きく、諸外国においてもその防疫体制は高く評価されたのです。
そして、それを取り仕切った後藤新平の評価は高まり、当時の臨時陸軍検疫部長、児玉源太郎

の目に留まることになります。

後藤新平は、1898(明治31)年、児玉源太郎が台湾総督に任じられると、その右腕である民政局長に就任、台湾の発展に力を尽くします。
後藤新平は、台湾の旧習を過度に改変せず、
・サトウキビやサツマイモの栽培
・インフラの整備
・アヘンの禁止

などにより、悪習の廃止と近代化、経済発展を実現します。
ちなみに、以前の記事で取り上げた鈴木商店

も、この時に台湾で事業を成功させています。

後藤新平が今でも台湾で格別の敬意を払われているのは、この業績によるものです。
元台湾総統、李登輝氏も、事あるごとに後藤新平について触れています。

そして、児玉源太郎は、後藤新平に、新天地満州の開拓と近代化を担うよう要請します。
当初は固辞した後藤新平でしたが、児玉源太郎の急死により翻意。
1906(明治39)年、南満州鉄道株式会社の初代総裁に就任します。


3、政治家としての50代

後藤新平は、児玉源太郎の遺志である満州の近代化に力を尽くしました。
その方針は「文装的武備」
武断的な統治ではなく、インフラを整備し、文化や経済の発展を図ることで多民族間の融和を図り、国力を増大させるというものでした。

それを実現するため、奉天や新京などの巨大都市の建設、学校の整備と教育の充実、電気や水道の整備、医療体制の充実などを、莫大な資金を投じて実現させました。
これにより国力を高め、隣接するロシアや清との軍事力に依存しない共存関係を実現しようとしたのです。

その後、後藤新平は外務大臣などを歴任し、政治家として活躍するようになります。
そんな後藤新平を待っていたのが、関東大震災。
発生翌日、その手腕を高く評価していた首相、山本権兵衛

直々の要請を受け、内務大臣兼復興院総裁を引き受けたのです。
彼は、復興事業を始めるにあたり、満州での経験をフル活用します。
「東京を、欧米に引けを取らない最新の都市に作りかえる」
これが彼の方針でした。
そのために要求した予算は30億円(当時の年間国家予算の1.5倍(!))でしたが、全額は認められず、10億円が充てられました。

彼は当初、延焼遮断帯として機能し、なおかつ将来の自動車社会化にも対応できる放射状の巨大街路の建設、火災に強い鉄橋の架設、避難場所や緑地としての公園の整備に着手します。
ちなみに、満州もそうでしたが、後藤新平の計画はとにかく壮大であったため、ついたあだ名は「大風呂敷」でした。
昭和通り・靖国通り・隅田公園などは、その名残です。
計画は都心の大地主(銀座の大地主伊東巳代治など)の抵抗もあり、当初の計画通りにはいきませんでしたが、現在の東京の原型を作ったのは後藤新平であると言えます。

そして、1929(昭和4)年4月9日、後藤新平は亡くなります。
その前日に遺した言葉は、
「金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上」
でした。
享年73歳。
日本・台湾・満州の近代化に力を尽くした生涯でした。


4、おまけ

ちなみに、後藤新平はボーイスカウト日本連盟の初代総長でもあります。
そんな後藤新平が、ボーイスカウトの心得と同時に、災害に対する心得にも通じる言葉を遺しています。

「人の御世話にならぬよう。人の御世話をするように。そして酬いを求めぬよう。」

心に刻んでおきたいものです。
今日は「防災の日」。
関東大震災に関係する重要人物の一人、後藤新平について取り上げてみました。
皆さんのご参考になれば幸いです!

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