平家納経3

文明と地図を考える その18 「行基図」④了

前回の記事は、行基図と仏教の関連性についてのお話でした。

まず一点は、行基図に描かれた日本の形が「独鈷」や「宝形」という法具や仏教建築に見られる形をかたどっているいる点です。
そしてもう一点が、円形をベースに描かれているのは「円相」という仏教世界を示す図形を基にしている、という点でした。

よく考えてみると、最古の行基図を収蔵しているのは「仁和寺」…ですよね。つまりお寺です。
これは偶然ではなく、このこと自体に意味があります。


というわけで、今回のテーマは

行基図と仏教界の関わり

です。

この話をする際には、行基図が作られたと考えられる時代の背景について少し考える必要があります。

まずは、主役である行基の生涯について少し詳しく見てみます。

行基は奈良時代の僧。
15歳で出家し,薬師寺で義淵らについて法相を学び,さらに山林で禅定を修した。
母の忌服を終え,諸国を遊歴して自行化他に励み,これに従うものは1000人をこえたという。
弟子を連れて各所に橋を造り,堤を築いた。瀬戸内海に五泊を開いたのもその一例である。
各地に布施屋 (無料宿泊所) をつくり,摂津に田150町を開墾し,さらに各地に道場 (僧尼院) を建て,畿内にあるものだけでも49ヵ所に及んだ (四十九院) 。
このような宗教活動は朝廷によってきびしい弾圧が加えられ,養老1 (717) 年4月の詔となって現れた。
詔は,行基や弟子たちが巷でみだりに罪福を説き,家ごとに説教して歩き,施物を強要し,聖道と称して民衆を惑わし,ために民衆が生業を捨てて行基に従ったのでこれを禁止する,というものであった。
しかし,朝廷は彼らの勢力を無視することができず,天平3 (731) 年,行基について修業するもので,男は61歳以上,女は55歳以上のものに入道することを許可した。
同15年,彼は当時行われていた東大寺大仏造営のため,諸方を勧誘して歩くことになった。
彼が以前から民間に培っていた勢力が,大仏造営に利用されたわけである。同年1月21日前例のない大僧正に任じられ,宗教上の最高の地位に立った。
同21年,聖武天皇以下に菩薩戒を授けてのち,菅原寺の東南院で80歳の生涯を閉じた。
彼にまつわる多くの霊験譚が伝えられ,また当時の人々は彼を行基菩薩と称したという。
(ブリタニカ総合大百科より一部抜粋)

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