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納豆と照葉樹林文化をざっくりと

ちょっと体調がすぐれず、投稿をお休みしていました。
今日から少しずつ復活です!

さて、7月10日は、7(な)10(とう)…で「納豆の日」でした。
元は関西でつくられた記念日でしたが、今では全国納豆協同組合連合会が全国版の記念日にしています。

ところで、納豆は日本では極めてメジャーな発酵食品の一つ。
そこで、今回は納豆がどのように生まれたのかなど、納豆の歴史を追ってみたいと思います。


1、納豆文化の気候帯

納豆というと日本独自の食品のようなイメージもありますが、実はその分布はかなり幅広いものです。
まずは、そのお話に入る前提として、ちょっと気候に関するお話を…。


地理を高校で勉強された方の中には、もしかしたら聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
地理における気候帯区分で、「ケッペンの気候区分」というものがあります。
ドイツの気候学者ウラジミール・ペーター・ケッペン

が、19世紀末から20世紀初めにかけて作り上げた気候区分で、現在スタンダードに使われている気候区分でもあります。

ケッペンの気候区分の特徴は「植生」による分類です。
気候帯をA(熱帯)~E(寒帯)までの5つに分け、さらにその中を細分化しています。
その中でも、「Cw(温帯冬季少雨気候)」という気候帯があります。
この気候帯は、日本にも多く見られるCfa(温暖湿潤気候)や、東南アジアの赤道付近に見られるAm(熱帯モンスーン気候)や、中緯度地帯のAw(サバナ気候)の中間に位置するもので、植生の特徴としては「照葉樹」という樹木が多く見られる点があります。

照葉樹は、
夏季は熱帯に近い気温で多雨、冬季にやや冷涼になり乾燥
という気候に好んで生育します。
モンスーン(季節風)の影響が強い、東南アジアから東アジアに多く見られます。

照葉樹の代表例は「チャノキ」(お茶の木)

「椿」など。

葉がやや厚く、つやつやしていること、そして常緑樹であることが特徴です。


2、照葉樹林文化論

そして、この照葉樹林が多い地域、文化でも独特のものがあります。
文化人類学者の中尾佐助氏、佐々木高明氏らが提唱した「照葉樹林文化論」と呼ばれるものがあります。
その中の食文化の項目に、納豆などの発酵食品が挙げられています。

かつて、1972年、先述の中尾佐助氏が『料理の起源』という著書において示した仮説が「納豆の大三角形」

※「ミツカン」ホームページより

この仮説は、雲南省付近で生まれた納豆は、インドネシア、ヒマラヤ、日本に伝わり、それぞれ「テンペ」、「キネマ」、「ナットウ」という食品として現在に伝わっている、というものでした。

つまり、納豆は日本起源の食品…というわけではなく、中国雲南省を中心に、南はインドネシア、北は西日本までを含む広大なエリアで育まれたものである、と言えそうなのです。
雲南から伝播したものなのか、各地で同時多発的に生まれ、それぞれが独自の進化を遂げたのかについては論争があります。

納豆に不可欠な要素は、「大豆」「植物」「菌」です。
このうちいわゆる納豆菌と呼ばれるものは、枯草菌と呼ばれるグループに属する菌です。

枯草菌とは
土壌中や植物体に普遍的に存在する。空気中に飛散している常在細菌のひとつ。
0.7-0.8 × 2-3 µmの大きさの好気性のグラム陽性桿菌である。中温性で、最適生育温度は25-35℃である。
(Wikipediaより。一部改変)

ちなみに、枯草菌はクマムシ並みのストレス耐性を持つ細菌でもあります(高温・低温・放射線などにも耐える)。
これによると、枯草菌は照葉樹林地帯の気候が、最適生育温度に近いことになります。
納豆の大三角形のエリアでは、伝統的な製法を見ると、稲藁やシダの葉など、それぞれの地域で入手しやすい植物の葉を使って発酵させています。


3、日本における納豆の起源と普及

では、日本に納豆が伝わったのはいつ頃なのか…という点ですが、これに関しては諸説あります。
日本における納豆の始まりに関する説をざっと挙げてみたいと思います。

①弥生時代説
納豆の作成に必要なものが「大豆(の煮豆)」と「藁」であることから考えて、大陸から稲作が伝わった縄文時代末期、或いは弥生時代には既に納豆に近い食べ物があったのではないか、という説です。

当時の竪穴式住居の床には藁が敷き詰められていたため、そこにこぼれた大豆の煮豆が発酵、納豆ができたのではないかという考え方ですが、それを立証する史料がないため、推測の域を出ません。

②源義家説
もうひとつ、平安時代後期の後三年の役(1083(永保3)年~)で、源義家

がそのきっかけを作ったとする説があります。

実は似たような話が各地に残っているのですが、有名どころでは「水戸納豆」の起源に関わるもの。

源義家が奥州に向かう途中、水戸市渡里町の一盛長者の屋敷に泊まった折に、馬の飼料である煮豆の残りから納豆ができた。

という説。

そして、戦いのさなか、

清原家衝が金沢柵(現在の秋田県横手市)に立てこもったため長期戦となり、馬の飼料である大豆を周辺の農村から急遽徴収した。
その際に、急かされた農民たちは、煮た大豆を熱いまま俵に詰めて差し出してしまった。すると数日後、煮豆は納豆になっていた。
食べてみると美味しかったので、義家はこれを兵糧とした。

という説。

これらの説も、確実な証拠が存在しないため推測の域を出ません。
しかし、本来照葉樹林地帯ではない東北地方や茨城県で納豆文化が盛んであるところから見ても、あながち眉唾とは言えない部分があります。


いずれにしても、平安時代には既に「納豆」という言葉は存在していました。
「納豆」という語句が確認できる最古の書物は、11世紀半ば頃に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』です。
「腐水葱香疾大根舂塩辛納豆」とあるのですが、この時に出てくる納豆は、現在の納豆(糸引納豆)ではなく、麹菌を使って発酵させた後に乾燥・熟成させた、「塩辛納豆(糸を引かない)」

と呼ばれるものです(写真は「納豆学会」ホームページより)。
現在の味噌に近いイメージですね。そのまま食べるだけではなく、調味料として使われたりもしていしていたようです。
現在も

こちらのお店では塩辛納豆を製造販売しています。

また、納豆という名称の由来については、江戸時代の『本朝食鑑』に「(奈良時代に、留学僧によって日本に伝えられ)、寺の納所(=台所)で作られたので納豆というようになった」とする説が書かれています。
ここでいう納豆は、塩辛納豆を指しています。

糸引納豆が歴史資料に登場するのは室町時代中期。
御伽草子『精進魚類物語』に登場します。
「なまぐさ料理」と「精進料理」が擬人化して合戦する物語で、「納豆太郎糸重」という納豆を擬人化した人物が登場します。
いかにも糸を引きそうな名前ですね(笑)

その後、江戸時代になると、醤油の普及と時をおよそ同じくして庶民の日常職として普及していきます。
実際、江戸時代の川柳で
『納豆とじじみに朝寝おこされる』
というものがあり、どうやら「ごはん、納豆、味噌汁」という組み合わせは江戸時代の朝食として珍しくはなかったようです。
ちなみに、当時の納豆は傷みやすかったため、冬場の食品でした。納豆は冬の季語として使われていた辺りにその名残があります。

意外に納豆が一般化したのは最近ですが、塩辛納豆も含めればその歴史はかなり長そう。
ただ、各地の納豆の関係性についてはまだ研究途上で、その成果が待たれるところです。

というわけで、今回は納豆について紹介してみました。
食文化や歴史の参考として、お役に立てば幸いです!

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