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言葉、幼稚園児、数学。

私は先日投稿した「記憶力、自己肯定感、コツ、呪い。」というタイトルの記事に少し長めの感想をいただき、フォローもしていただきました。

実を言いますと、過去に私が真面目に書いた文章にいただいた感想の中でも断トツの長さの感想でした。

24歳中頃の現在、そこそこ長くオタクな私は様々な文章を書いてきましたが、いただいた感想文でこれほど嬉しい気持ちになったのは初めてでした。

私は何かの経験によって衝撃を受けた場合、その感覚と、それを強調する過去の体験等について表現したいという欲求を持っています。

ですので、今回も例に漏れずそうする事にしましょう。過去の体験についてお話します。


私は元々理論数学を専門にしていまして、自分に対して常に何かを問う習慣があります。

例えば先日の記事で申し上げた「自己肯定感が無い。という表現は現実に則しているか?自己否定感がある。と言った方が現実に則しているのでは?」という問いは、まさにその習慣から生まれたものです。

私はそういう基質のある子供でした。親曰く

「なんで同じ木についてる葉っぱはみんな同じ形なの?」
「なんでお人形は生きてないって言えるの?」

と言う類の質問を大人に沢山投げかけていたそうです。

幸い父親がアカデミックな人間だったため、邪険に扱われること無く過ごすことが出来ました。

良い思考には良い言葉が要る

ある程度の頻度でネット上で見かける話題で自分の周りでも見に覚えがあることですが、「羨ましい」と言おうとして「ズルい」という人がいます。

少なくとも私個人は「ずるい」と言う言葉は、ある人が卑怯な、あるいは不正な行為や手段を通して何か得をして、誰からも咎められていない状態に対して発される言葉だと認識しています。

しかし、ある人が何かを行使できる状況にあり、それが不正でも卑怯でもない手段によって成された事であれば、「羨ましい」ということの方がまだ適切でしょう。

これの何が怖いかと言うと、ズルいと言い続けていると逆に発言者が言葉に使われて、本来卑怯でもなければ不正でもない行為に対して不信感を持つようになってしまいます。

なぜそう断言できるかと言いますと、ネットで長く付き合いのある友人が以前その呪いにかかっていた人で、実際に観測したことがある為です。

友人にその事を指摘すると自分では気がついて居なかったようで、とても驚いていました。

友人は賢い人で、それに気がついてからは羨ましいと言ったり、ゲームであれば対戦相手を賞賛したり、敬意を払ったりする人になりました。(もちろん改善に時間はかかっていましたが。)

良い言葉を使う人の振る舞いは気持ちが良いですが、私の目には言葉を自覚的に改善しようとする友人の姿もまた、立派なものに映りました。


実際の状況に対して適切な言葉が充てられるか?これはかなり大きな問題であり、それでいて非常に個人的な問題です。あまり他の人が指摘してくれるものでもありません。

言葉狩りをしすぎても生活が窮屈になるでしょう。しかし、荒い言葉を使いすぎると思考が言葉に支配されてしまいます。

自分の思考が自分の言葉によって左右されているということを強く自覚する事は、ある種の訓練であり生活の質を上げるために良い方法だと思います。

自分の言葉が改善したり、あるいは良い言葉とそうでも無い言葉と悪い言葉を自覚的に選択する。そういった行為は正しく「言葉を選ぶ」という行為です。

良い思考には良い言葉が要ります。そして良い言葉を自覚的に選択できると理想的であり、それを自覚的に継続している限り、新しい表現や言葉に出会った時に吸収できる人となるでしょう。

幼稚園児と数学が私の言葉を律した

これは数年前のこと。國學院大學の児童文学会という所が、絵本作家のあべ弘士先生をお招きして講演会を開きました。

確か私は当時大学2年生で、数学をしながら「良い言葉」あるいは「良い表現」とは何なのかについてぼんやり考えていました。

数学において良い表記とは?良い表現をするための良い記号とは?

文学部で日本文学を専攻している同期の優秀な友人ともよくその類の事について話していた時期で、では絵本作家さんはどう考えて生きてきたのだろうと思い、参考にしようと講演会に参加しました。

少し紹介しますと、あべ弘士さんは長いこと旭山動物園で飼育員をしていた人で、かなり長いこと動物に関する絵本を出されている作家さんです。

その講演会であべさんが仰られた発言もかなり私にとって影響のあるものでしたが、1番ショックだったのはその講演に保護者さんと一緒に参加なさっていたお子さんの質問でした。

「シロクマもハチミツは好きですか?」

この質問の自由度は果てしない。そう直感しました。

あの子はまだ扱える言葉の数こそ少ないけれど、限りなく言葉の呪いに縛られていない時期だということ。

その少ない語彙からでも簡単に繰り出せる疑問文でありながら、思考の自由度が垣間見えました。

そして何より、シロクマの話を聞いた自分が、自発的にその質問を思いつけるか?

答えは明らかにNo。どう頭をひねったって出てきません。その思考の自由度が羨ましく思いました。

それからしばらくの間、私は真剣に悩みました。自由な思考とは?言葉を選択するとはどういう事か?

的確な質問は的確な回答よりも思いつかない。様々なものを見るよりは様々な見方を身につけた方が良い。

今では、表現の為に自分の言葉を自分で選択するべく、日本語と数学というふたつの言語の能力を駆使している。そういう気分になっています。

あの時の幼稚園児さんには非常に感謝しております。お世話になりました。


繰り返しますが、良い思考には良い言葉が要ります。

それは日本語でも数学でも同じことで、適切な表現、適切な記号、適切な文章、適切な名前が設定出来れば、良質な思考、良質な出力となって、日々の生活の質を上げ、視界を良好にし、問題を問題と認識する能力が上がり、人の言葉に対して寛容に、柔軟に対応出来ることとなるでしょう。

最後に、私の好きな文章を一つ紹介して、終わりたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。

自分が本当に模倣しようと思う著者を探す為に良い本を読む事である。彼は単純で、示唆にとみ、美しいと思われることを求めてそれを楽しむべきであり、問題を解き、自分のゆき方にかなった問題を選び、その解答につき思いめぐらし、新しい問題を作らなければならない。このようにして彼の最初の発見をするように心掛け、自分の好み、自分の行き方を見出すべきである。

いかにして問題をとくか G.Polya 著 柿内賢信 訳 より

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