見出し画像

ジャンル「Yuzuru Hanyu」という事とファンとして

初めて羽生結弦さんのスケートを見た時の衝撃を、今でも鮮明に思い出せる。
2014年の24時間テレビのスペシャルアイスショー。
「この世にこんなにも美しいものがあったのか…」と思った。
それから「羽生結弦」と「羽生結弦のフィギュアスケート」から目が離せなくなった。

私は何かのファンになること、ハマることをよく「つかまった」と言う。
これも以前テレビで聞いた言葉なのだけど以降しっくり来るので使わせて貰っている。
あちら側にそのつもりがなかったとしても、私は「羽生結弦と彼のフィギュアスケート」につかまったのだ。

私は羽生さんのスケートが好きなだけで「フィギュアスケート」というものに詳しいわけではない。
とはいえ、幼い頃にクラシックバレエを習っていたので「舞踊」というものは今でも見るのが大好きだ。
ステージエンタメでもダンスが上手い人の方によく目が行ってしまう。

ステージエンタメが好きと言ったが、そんな私は演劇、ミュージカルが好きだ。
もちろんストレートプレイもよく見る。
とにもかくにも、音楽、舞踏、言葉、その他様々な五感の刺激で表現される「物語」が好きなのだ。
というか、好きなんだなぁ…という事に最近気付かされた。

GIFT、そしてRE_PRAYを見た時に、ものすごい衝撃を受けた。
表現の手段としてはフィギュアスケート。いたってシンプル。
なのに、そこに繰り広げられている物語の情報量も重さ深さもとにかく凄まじくて質量何億トンレベルのものではないかと思う。

羽生結弦は役者なのか、と言えば、そうでもあるしそうではない。
「演者」と呼ぶ方がもっと近いかもしれない。
けれど「羽生結弦」は何を表現しても何を語っても、徹底的に「フィギュアスケーター」なのだ。
「フィギュアスケート」そして「アイスショー」の“幅”を広げた…と思ったのだけど、それはひょっとして違うのかもしれない、と思った。
これは意味合いの誤解をしないで欲しいのだけど、彼は決して「フィギュアスケートやアイスショーの幅を広げた」わけではないとないと思う。
広げたもののジャンルの幅としてしまうには、羽生結弦選手がやっている事はあまりに特異過ぎて別次元、別宇宙なのだ。
どっちが上位でどっちが下位という話ではない。
これは私がどうしようもない羽生結弦オタクだから大袈裟な言い回しをする事を許して欲しいのだが、よくよく言われている「新宇宙・羽生結弦」がはからずも生まれてしまった感がある。

これが「とんでもなく素晴らしい」事なのか、というと決してそうではない。
「人ができない事をやっている」
「人と違う事をやる」
「人がやっていない事をやる」
これだけでは「素晴らしいこと・凄い事」にはならないのだ。
それをやるだけなら実は簡単なのである。
やっていない事をやればいいだけの事なのだから。

ではこれらが「とんでもなく素晴らしい」と評されるものとそうでないものの境目は何なのか。
これも答えは簡単。
見るもの聞くものが心を揺さぶられたか、感動したか、出会えて良かったと思えたか、であると私は思う。

「Yuzuru Hanyu ICE STORY」が素晴らしいのは「新しいから」でもなく「誰もやっていないから」でもない。
羽生結弦という一人のスケーターが、全力で創造し、表現し、それに心揺さぶられ「もっと見たい」と思う人達が大勢いるから「素晴らしい」のだ。
何より私自身がそう感じている。
こんなフィギュアスケート見たことない。こんなアイスショー見たことない。なんで素晴らしいものが生み出されたのだ、と。

逆に言えば、やはり競技時代以上に孤高で孤独で厳しい戦いであると思う。
これはご本人も言っていた事だけれども。
競技であるなばらルールがあってジャッジが判定して点数が出て順位が決まる、というものであったが、当然なら今現在プロとしてのフィールドではルールもジャッジも順位もない。
競技時代のジャッジもまぁまぁ厳しいものではあったが(これについては話がややこしくなるのでここでは語りません)今現在のファン目線の「ジャッジ」(敢えてこういう言い方をさせて貰う)の方が以前より比べものにならないほど厳しかろう。
ファンは自分の好みと感情で「好き・嫌い」を判断しそれと「良い・悪い」を繋げる。
ファンというものは非常に我儘だ。競技のジャッジは決められたルールの中で判定を行うが、ファンにそんなものはない。
自分の好みと感性こそがルール。勝手に期待し、勝手に落ち込む。
少しでも推しが自分の好みと外れ思い通りにならなければ「がっかり」と言う。
それでもう「応援できない。ファンやめる」とあっさり離れられればいいのだがそんな人間ばかりではない。
これは自戒でもあるのだけど、羽生選手に限らず世のあらゆるジャンルの活動者の方々は「ファンの為に活動」しているわけではないのだ。
ほんとうに、たまたま、偶然、けれど出会った時はまるで運命的とも思える巡り合わせなのだ。
「私」が勝手に「推しと推しがやっている事」が好きなのだ。
そしてたまたま偶然物凄い素晴らしい巡り合わせで「今現在の推しの活動」が「私が好きなもの」なだけなのだ。
「推しが私の好きな事をやってくれている」わけでは決してない。
何度も言うけどこれは自戒である。
推しの活動内容や方向性が自分の好みじゃなくなったからと言って、推しに文句を言うのは筋違いなのである。
そして推しの活動を好きにならない自分を責める必要も、またないのである。
我々は所詮赤の他人同士。
活動する者と鑑賞する者、互いの都合が偶然合致しただけの儚い縁なのである。
人の夢と書いて「儚い」とはよく言ったもの。字はよく出来ている。
全ては「いつか終わる夢」なのだ。
けれど、だからこそ、夢を見られという事がとても素晴らしいものだと思う。
何かの、誰かの、ファンになれる、という事はとんでもない幸運なのだ。
それほどまでに自分以外の他人がやっている事をお金と時間をかけて見よう聞こう応援しようと思える事は、とても幸福で幸運な事なのだ。

私はよく「一生ファンでいるよ。嘘だけど」なんて事を言う。
もしくは「ずっと好きだよ。約束できないけど」とかも言う。
何故って今日が好きでも明日も好きとは限らないからだよ!
推し自身が何も変わらなくても、私が変わらないとも限らない。
まぁ実際あんなにお金も時間もかけて応援していたのにすーーーっと離れてしまった元推し達はいっぱいいる。
私は熱しやすいが冷めやすいオタクなので未来の自分の推しへの仁義をあまり信頼できない。

でもね、嘘であったとしても、約束できなかったとしても、ずっとずっと羽生結弦さんのスケートを見守っていきたいと、今この瞬間は願っているよ。

貴方が完全に氷の上から去るその日まで
夢の終わりの日が
フィギュアスケーター羽生結弦の物語がページが閉じられるその日が
共に迎えられますように

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?