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今の私はアセクシュアル

みなさんこんにちは、ご無沙汰してますりんごです。
今週はAceWeekです🤍🩶🖤💜まだクィアコミュニティの中でも認知度が比較的低く、説明してもうまく理解されないことの多いアセクシュアルのことを、たくさんの人に知ってもらい、アセクシュアル当事者たちが自分たちを愛するための1週間です。

noteやポッドキャストでも言ってきましたが、私はアセクシュアルかなとぼんやりと思いながらこの大学生活を過ごしてきました。そんな私が、最近になってようやく自分のアセクシュアリティをはっきり確信できたというか、アセクシュアルというラベルを使って生きていくことを決意できたので、ちょっとその話をしようと思います。



初めて自分はアセクシュアルかもしれないと思ったのは、3年前、大学1年生の頃でした。その頃プラトニックな関係になっていた男性がいて、何度が性的な接触をしたこともあったんだけれど、楽しくなかったわけじゃないけど、なんだかずっと居心地が悪くて、会うたびにこんな感じなのかと思うと憂鬱だった記憶があります。

その頃すでにジェンダー・セクシュアリティに関心があった私は、自分のモヤッとした気持ちの理由を知りたくて、なんとなく聞き覚えのあったアセクシュアルという言葉を改めて調べてみました。意味を知って、これかもしれないなと思いました。だけど、完全に確信はできなかったし、まだ性的な魅力を感じる相手に出会っていないだけかもしれないとも思いました。私は彼にも「私はアセクシュアルかもしれない」と伝えたけれど、「そういうの本当の当事者に失礼だと思う」と言われたことをはっきり覚えています。

たぶん、私がジェンダー・セクシュアリティ研究という専攻科目を専門的に学ぶことを心に決めたのも、このことがあったからでした。自分のことをもっと知りたかったし、多様で複雑な人間の性を知りたかったんです。

それ以来3年近く、私はずっと「アセクシュアルかもしれないけど…でも性欲はあるし、まだ性的に触れ合いたいと思う相手に出会ってないだけかもしれないし」という宙ぶらりんな状態でいました。アセクシュアルのことを調べても、性欲の有無と他者への性的欲求の有無を分けて説明してあることは少ないし、そもそもアセクシュアルの中のグラデーションが本当に大きくて、自分の状態と完全に一致するアセクシュアリティについて説明されていることは稀ですし、何よりアセクシュアルのことを人に話すとほとんど必ず「まだそういう人に出会ってないだけなんじゃない?」と言われます。悪気はないことはよくわかるし、私自身もそう思っていたから責めるつもりは全くないです(滅びやがれ性愛規範)。そんな状態で、私は自分自身をアセクシュアルだとラベリングしていいのか、クィアコミュニティに身をおいていていいのか、ずっとわからいままでした。

そんな中で先月出会ったのが、とある英語圏Vtuberの配信を切り抜いた短い動画です。彼は、「アセクシュアルだとしても、セックスをしたいと思ったらすればいい。別に"アセクシュアル委員会"みたいなところにセックスをする申請を出さなきゃいけないわけでもないし。定義されたセクシュアリティを裏切ってしまうかもなんて思わなくていい。」「自分が心地よいと思うようにセクシュアリティに名前をつければいいんだ。」と言っていました。これを観て、私はとてもびっくりしたし、嬉しかった。ただでさえ認知度の低いアセクシュアルのことを彼が話してくれていることにも驚いたし、彼の言っていることが私の心にすとんと落ちてきて、確かにそうじゃん、なんで今まで気づかなかったんだろう、と。セクシュアリティのラベルはたくさんあるけど、どれも自分がより生きやすくなるために、より自分を理解して自分らしくあるために使われるべきもので、型にはめて1つのあり方を強制するためのものじゃない。ジェンダー研究をやっていれば何度も聞くことなのに、自分のことを考えるとなると忘れてしまうときがあるみたいです。

そんなこんなで、私は昨日AceWeekの初日を迎えました。自分のアセクシュアリティについて趣味アカウントの方で呟くと、同じように感じている人たちからメッセージが届きました。性欲があって、でも他者にその欲求は向かないアセクシュアルの人々。人間は多様だから、同じラベルを使っていても、少しずつ違うあり方でみんな生きているんだなと改めて感じたし、私はやっぱり、アセクシュアルというラベルを使う方が心地良いなと確信できました。自分のアセクシュアリティを自分の言葉で説明するなら、"自分の性的な快楽を他者と分かち合おうとは思わない"アセクシュアルになると思います。この表現がいちばんしっくりくる。私にとって、性的な快楽や楽しみは私一人のもので、他者にをそこに介在させることにはあまり興味がないんです。
とはいえ、これからのことはわからないし、もしかしたら今後、他者とのセックスを楽しめると思う時が来るかもしれないけれど、そもそもセクシュアリティは流動的なもの。今の私はアセクシュアル。そうやって自分のアイデンティティを決定することが、今の私が生きていくためにとても重要なんです。今の私はアセクシュアル。自分のことが少しわかって、嬉しい1日でした。

そして、これはおこめとも話したことなんだけど、私は自分のセクシュアリティのラベルをはっきり確信してそれとともに生きていくと決定してようやく、自分の自分としての人生が始まったような気がしています。アセクシュアルとして、私の人生はこれからもっと楽しくなりそうだし、もっと心地よく生きられる気がしています。3年かかったけれど、自分のことを考えることをやめなくてよかったなと思います。みなさんにも、自分がいちばん心地よいと思えるあり方が見つかりますように。

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