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駄文の傑作を目指して

こんにちは。キャストの井藤秀哉と申します。
話によるとこのレポート、私で4人目みたいなんですが、前例の3人がこれまた想いのこもった文章で。この公演にかける思いの丈は、カンパニー一同(伸ばし棒と1って見分けつかない)、彼らの右に倣うかそれ以上のものでございます。私は後者。

さて、アツい文章が続くのも良いですが、それは公演で軽やかに表すのも一つの良さ。駄文を書いて言葉を散らすことに長けた私は、ちょっとカッコつけて「人間観察よりは面白い」くらいの文章を書けたらなと臨んでみます。
ネタバレは禁止と強く念を押されておりますので、言うべきか否か様子見した結果、発言の真意の判らないことが多々あるかと思います。悪しからず。

私がこの「わが星」という劇を初めて見た感想は「消費だな」と。その真相は是非、私どもの公演を見に来て確かめていただきたいわけですが、「消費」だと思ったわけです。今思えばより的確な表現があるし、これは誤りを含んでいると反省していますが、あえて初見の感想を述べるのは、普段の生活で我々は「消費」に気づかない、と頭に浮かんだからです。我々は何かを消費することで生きている。個人単位では、お金、精神、名声、論理、物質、関係、エネルギー…社会にまで枠を広げれば、燃料、知識、倫理…。こじつければ五万とあるのでしょうが、問題はそこにはなく、何かを消費しなければ成り立たない生活を我々は当然のように、受け入れている。いや、気づいてない。そんな気がします。

無論私とて、「ああ、呼吸さん、空気を消費しないで」とも、「肺さん、もうちょっと酸素を味わって」などとは感じません。そこに嘆きたいわけではなく、むしろ、気づかない消費を経て、私たちはいつかの自分を回顧するんじゃないでしょうか。親子が遊ぶ様子を微笑ましく思うのも、マンションにあたる陽光と影にどこかノスタルジックな気分に浸るのも、何かを消費して得たその経験を、さらに消費しているのです。(文章が下手くそでごめんなさい)
消費の連続なわけですね。

あ、説教くさくなりそうなので、持論はこの辺で。すでに説教くさいかもしれません。念のため謝っておきます。すみません。
何が言いたいかだけいうと、私たちの生活は循環と捉えられますが、それは「消費と生産」の連続だと思います。この消費という言葉が良い意味で使われたことが、私の記憶に乏しいのです。あらゆるものを消費と言い出してはキリがないじゃないかとのご指摘はごもっともです。こんな哲学チックな文章を書きたがる割に言葉がうまくない私は、どうにもうまく処理できなくて、「消費」という言葉を元に思考に走ってしまいます。でも、この「わが星」を観て、少しでも壮大な「消費」の先にあるノスタルジーを体感していただけたら、私にとってこの作品の一つのゴールを迎えられます。

どうでしたでしょうか?私も消費したかったので、試しに言葉を消費してみました。この文に深い意味はないです。ある日の一時の気の迷い程度に過ぎません。
間違いなくこれは稽古場レポートではなく、雑誌のコラムとかで書くことでしたね。
どうかこの文章を見て、皆様が演劇を見る前後で気を悪くされませんように。皆様のご来場を心よりお待ちしております。

井藤秀哉

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