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できるだけバレにくいズルをして研究業績を高める方法を考案し,そのズルから学術業界を守る方法を提案せよ

というレポートのお題を授業で出して学生のみなさんに書いてもらいました。そこで,公開を許していただけたものだけをいくつか載せておきます。ちなみに毎回言ってますが書いてくれたのは非心理系の学部生でして,ここでは自身の専門分野について書いてもらってます。あくまで学部生から見た景色ですのでそういう前提でご覧いただければ幸いです。それぞれがどこまで正確に各分野の現状に即して書かれているかは抜きにしても,個人的にとても参考になっています。


多義的な解釈を許す叙述の悪用に対する試論 by tomo

1 はじめに
  本稿では法学を対象学問分野に据えて、反則的に研究業績を高める潜脱手段に対する検討を行う。とりわけ、法学は解釈学という特性上、世の中に潜在する客観的真実を探求する自然科学とは異なり実験がない為、実験プロセスにおける潜脱的行為を観念し得ない。従って、実験ではなく叙述面において自身の研究成果に対する評価を不当に向上させる行為を対象とする。

2 問題の所在
  自然科学とは異なり完璧な解釈・真実がありえない法学においては、論者独自の解釈に対して少なからず反論が存在するのが通常である。むしろ、自説に対する反論に再反論する事で間接的に自説を正当化・強化することにつながる為、本来反論は喜ばしいものであると考えなければならないとも思えるし、唯一無二の解が存在しない法学では活発な言論市場を期待し、より洗練された解釈へと止揚していくことこそが社会秩序の維持・形成を本来的な目標とする法学者としての在り方であると個人的には感じる。今述べた私の考え方に照らすならば、「意図的に反論を許容しない叙述」は議論の発達を阻害する負の側面を有するのみならず、いかなる反論をも寄せ付けないあたかも完璧な理論として崇拝対象ないし評価の高い研究成果として認められ、いわば「ズルをして高い業績実績をあげている」と言う事ができる。

  一つ例を挙げよう。例えば、条文上の「人」という概念をひそかに胚にまで広げて解釈したいと考えている法学界の権威がいるとする。しかし、胚にまで拡張するのでは、胚がある事を知らずに母体に対して傷害を加え、胚を殺めてしまった場合に過失致死罪になる可能性があり、不当に刑が重くなるとの反論があるかもしれない。このような反論を回避するために、「胚」という直接的文言を意図的に避けて「現在母胎内で生育し、将来出生予定の者」のような曖昧で範囲が分かりにくい定義づけをするような場合である。このような曖昧で多義的な言葉をつける事は、反論を寄せ付けずあたかも完璧で非の打ちどころがない定義であるかのように見せつけ、不当に高評価を獲得する結果となってしまう。他にも、憲法13条の幸福追求権侵害の成否を判断する際の有力学説として人格的利益説というものがあるのだが、これは「人間が生存する上で人格的な利益を害された場合に幸福追求権の侵害が認められる」のような叙述がみられるが、果たして「人格的な利益」とは何なのかについての詳細な説明は私が見た限りではあまり詳細が書かれていないことが多い。

  もっとも、これは私の憶測であるが、現状悪用している学者はいないと思われる。しかし、今後このような悪用の仕方が考えられる為、問題の所在として取り上げさせていただいた。

3 解決策
  では、多義的な言回しを多用して読者に反論を許さない叙述をする論者に対していかなる防御策が考えられるだろうか。一つは、漠然不明確である点を指摘することが当然考えられる。しかし、これに対しては「当該学説の汎用性・応用性を高める趣旨で意図的に多義的な言い回しを用いているのだ」との再反論が想定される。そこで、当該学説を事例に適用した場合に、結論がどちらにも転びうるような具体例を挙げ、汎用性の高さ故に恣意的に学説を悪用する輩が出てくる危険性を再々反論することが、有効的なのではないだろうか。即ち、一義的でない言葉を論文中に使用している論者を発見した場合、当該理論・学説を同じ事例に適用した場合に解釈によってはいかようにも結論を変動させ得ることを証明するよう学会全体が監視体制を整備する事で、一義的解釈のみ可能で論旨明快な論文を書くことがある種義務化される様になると思われる。

4 終わりに
  以上の様に、完璧な法解釈は存在せず、どこかに弱点があり、絶対的に正しい理論・解釈は存在しない以上、あたかも汎用性・応用性万全な学説を唱える学者はいないと思われる。だからこそ、多義的な解釈が可能な言葉を使い、さも万全で完璧に見える多義的な学説を唱えるという事はあってはならないと個人的に思うところがあり、その回避手段としては当該学説では恣意的・利己目的で利用される可能性があることを示すことを学会全体で監視体制を整備する事が大切であると考えた。


記述言語学におけるフィールドワークの不正とその抑制 by タカハシ

 言語学会において業績を収め評価されるための道のりはその研究分野によっても大きく左右される。そのすべてについて検討するのは現実的ではないため、ここでは特に20世紀前半まで主流であり、今もなお言語学分野以外にもその応用が期待され続けている「記述言語学」について述べることにする。
 記述言語学において最もわかりやすく業績を収められるのは未知の言語や未解の方言の体系的記述である。それらの語彙体系や文法の記述が出来れば完璧な論文であるし、すでにある程度記述された言語であっても類型論的特徴の分類や分析が出来ればそれだけでも評価に値され、学術誌に掲載される。言語学界全体みても賞の授与等は積極的に行われている。
 特にこの類型論的特徴の記述は非常に繊細な分野である。絶滅危惧言語として認められている方言が密集する沖縄の一部群島地域では隣り合った島同士でさえ違う方言が使われている場合もあり、このような中で研究者たちは一つ一つの方言話者とコンタクトを取り交流をし、データ収集を行う。ここで収集するデータが捉えるのはその言語・方言特有の「特徴」であるが、ひとえに「特徴」といっても様々な形態がある。言語は語彙、文法、音韻、文字など様々な要素によって構成される。そのどれか一部が違い有意差が認められれば、それは新しい言語・方言となる。この点においてデータ収集の手法、あるいはデータそのものに些細な恣意的細工を施して結果を得たとしても、その発覚は非常に難しい。そもそものデータ収集手順が煩雑な手続きが必要で再現性に乏しく、社会的情勢(疫病など)にも調査の可能・不可能が左右されるからだ。言語学はチョムスキーらの手によって「科学」への転換期にあるとはいえ、すべてがその思想に賛同しているわけでもなく、こと類型論においては実験的方法論が明確に確立していない。再現性を重んずる心理学等科学の諸分野においても業績のために横行するデータに関する不正を、研究者の倫理観のみに委ねられている言語学界で行おうとするものがいれば、その成功率はいわずもがなである。
 これを防ぐためには、初期調査のみならず各調査において必ず複数研究者の連名で行うようにする一種の「マルチラボ」形式を採用するのが一案としてある。また「録画」及びその資料化の義務化は特に言語学において不正を許さぬ証拠となるので、非常に有効な手段と考えられる。映像記録は発話・言語現象をすべて逃すことなく捉えられるため、方言話者との癒着がない限り不正は不可能である。実践的には論文査読等にあたってその録画データを添付する、論文掲載と同時に参照できる形でどこかで録画ないし音声データを公開する、などが考えられるが、これらに関しては方言話者のプライバシーにも関わる問題にもなるので、実用化はあまり現実的ではない可能性が高い。
 このように記述言語学、ひいては言語学界全体は科学的な方法論への移行期、または共存を目指している段階である。科学的手法に近い「統語論」の分野においても研究者自身の「内省的直観」によってデータの検証を行う場面が多く、再現性の有無、あるいは重要性に関しては議論が続いている。そのような言語学界では現在、研究者の倫理観による自身への戒めによってその健全さを保つしかない状況である。記述言語学の分野においてもそれは同様であるが、しかしながらここに調査のルールや規則を安易に追加するのも避けなければならない。上に述べたように記述言語学では絶滅が危ぶまれる言語や方言を扱っている。そのため研究者のフットワークの軽さが保証され、さらにいえばその研究の門戸が実際に方言を用いて生活している一般の市民にも開けている方が良い場合も多い。記述されないままの言語・方言の絶滅というのは一つの文化・研究対象の喪失であり、言語学という様々な分野・方向性を持つ学術業界であれど、それを避けることは一貫して重要視されるべきである。


最終レポート by 小松菜

  1. はじめに
    このレポートでは、法学部の私が関わったことのある分野である政治学の学術業界について、その研究方法や研究成果をズルして上げるための方法や、そのズルから守る方法について述べる。まず、政治学の論文では、かつては理想的な政治システムの在り方や各国の政治を比較検証した論文が多く出されてきたが、近年においては、海外では実験政治学が興隆期を迎えている。ある集計によれば、アメリカの主要学術誌に掲載された実験研究は10年ごとにほぼ倍のペースで増加しており(Morton and Williams 2010, p.4)、American Political Science Review 誌の過去100年間に掲載された実験関連論文のうち、半数以上が1990年代以降のものであるという(Druckman et al. 2011, p.4)。今回は、「実験政治学」と呼ばれる分野について、健全な学術業界の姿を検討したい。

2.政治学における実験とは
 モノや生物を研究の対象とする理系の学問に比べて、政治学は人間や人間がつくりだす政治現象を研究の対象とする。自国の中で起こっている政治現象や、自国と他国、もしくは複数国の中で起こっている政治現象などが研究の対象である。日本政治、比較政治、国際政治の研究方法として実験という科学的なアプローチが主流になってきた。
 政治学実験には、第一に現実の文脈、環境、イベント等の中で行われる実験であるフィールド実験がある。実際の政治現象や政治行動を題材に実験 を行う試みは有益ではあるが,実験場面のもっともさから来るリアリティ(mundane realism)と,実験自体のリアリティ(experimental realism)は異なることに注意しなければならない(McDermott, 2002)。例えば、若者の投票率を上げようとして九州大学の学生に向けた投票率アップキャンペーンを開催したとしても、上がった投票率のうちいくつがそのキャンペーンの影響によるものなのかを図ることは困難である。
 第2の政治学実験として、実験室実験がある。これは、自然科学の実験のように、他の刺激・介在要因を遮断するような実験室に被験者を集めて行われることが多い。しかし、そのような人工的な実験室の空間で行った実験結果と実際の社会の中で同様のことが起きるという保証はない。また、このような実験では地域や年齢層が限定的になってしまうという弱点もある。
 政治学実験においては、研究論文のトピックの大半を投票行動に関するものが占める。以下では「投票行動に関する論文」について、話を進めていく。

3.政治学実験でズルをする方法とその解決策
 政治学の業績評価については、本を出版する、外国のすごい大学で研究活動をする、論文を書く、翻訳書を出す、書評を書く、学会で発表する、学会で受賞する、学会に所属するなどの評価方法があるようだ。その中でも、今回は授業でも取り扱った論文や学会で発表する実験結果についてズルをする方法とその回避方法について考える。
 まず、政治学実験において実態調査などの調査の対象を、自分が仮定する結果に沿うように調整することができる。例えば、ターゲット層を偏らせたうえで「1万人中」など老若男女に対して調査をしたように見せることができる。自分が仮想した統計になった途端調査を打ち切るなど、自分が仮想した調査結果になるまで調査を続けることも可能だ。
 実施した調査結果を改ざんすることも可能であるし、望む結果になるように選択的に情報を選択することもできるだろう。実施した調査の時代情勢による影響を論文中に注釈せず、実際の調査結果が正しいように見せかけるのはおかしいだろう。例えば投票行動が、18歳以下に選挙年齢が引き下げられたばかりの年に行ったものであったとすると、引き下げられる前や引き下げられた年から何年もたった後では、投票数がおかしくなるためにそのような条件は明示しておかなければならない。
 このような問題の解決策として、・実態調査の対象(ターゲット層、地域、何月日、調査総数)を何らかの形で実験前に公表することがあげられる。プレレジで、仮説や意見も証言しておくと、仮説を実験結果に即して書き換える事はなくなるだろう。実験結果の改ざんを防ぐために、調査結果を直接機関に送り、原稿完成後のデータと差異がないか査読してもらうことを必須にするとよい。時代や社会情勢による調査結果への影響があれば、いつの時代にその論文を読んでもそのことが分かるように記すことを必須とすることが求められる。
 政治学においては、分析結果を再現するために実験方法や手続き、条件が公開されていることは稀である。そのために、追試を行うことが難しく、実験の不正を社会が見破ることが難しい。研究対象となった当人も、世論調査のような形で研究対象の一員となっていることが多いために、研究結果の改ざんを見破れない。先に説明したフィールド実験においても、実験室実験においても、人や人が作り出した社会を調査の対象とする限り、追試を完璧に行うことは不可能であるために、政治学の実験においては、実験の信頼性を確保するためのシステムが必要である。フィールド実験の際には、無作為抽出を政治学実験において実験の基準とすることを推奨し、そのときの社会情勢を査読者が公正な視点から書き加えることを必須とするのはどうだろうか。政治学においては、思想や価値観が査読時の問題点となることが予想されるため、査読者を複数設置するのが良いだろう。また、査読者や投稿者はお互いに匿名であることが望ましい。プレレジは普及しようとすると、特に上層の人々に嫌厭されるという現状があるが、プレレジをすることが論文評価の大きな項目となる流れを作りたい。

4.健全な政治学研究の在り方
 論文の投稿数や本の出版数、学会での発表数が研究者の評価に繋がるという風習はなくすべきだ。そのような風習があるために、捕食的ジャーナルや捕食的学会が出現し、研究の空洞化を招いている。プレレジや査読、可能な範囲での追試を受けた実験が論文として世に評価されるべきである。また、ある程度の追試を可能とするために、実験方法や手続きを書くことを必須とするべきだ。自身の政治的主張を根拠づけるために、ズルをして理想の結果に近づけた実験結果を捏造することを、心理学や理系分野で行われているシステムを継承してなんとか避けるべきである。そして正当な実験結果であることが保証された論文や本をもって初めて主張の根拠として認められるべきであり、そこから研究者としての評価に繋げていきたい。

【参考文献】
谷口尚子, 2009,政治学における実験研究 ―概要と展望―
河野勝・西條辰義編.2007.『社会科学の実験ア プローチ』勁草書房.


最終レポート by 川瀨

【業界】
教育学

【その業界での業績・評価システムを説明】 
論文投稿により評価がなされる点は認知心理学と変わらない。

しかし、教育学の特徴として、
・主観に基づく研究が受け入れられていた。→追試が可能な研究をしようという意識が持たれたのが遅かった
・実験のやり方が確立されていない。
・再現性の担保が難しいことは共通認識
・教育学にとって再現性が必要であるか否かの議論がなされている。
が挙げられる。

教育現場が個別具体的であるがゆえに、研究実験の方法が確立されていない。因果関係がはっきりとしているシンプルな実験を行おうとすれば、実際の教育現場の状況を反映できていなかったり、実際の教育現場で役に立たなかったりするような実験になってしまう。一方、より実際の状況に近い実験を行おうとすれば、個々の教室の状況が複雑であり、様々な条件付けが必要、また、条件付けできない点も多く出てきてしまう、という現状がある。

また、自身の評価を挙げる際に、革新的な論文を出せば評価が上がることは勿論であるが、数をこなし、多くの論文を投稿することで徐々に評価を挙げていくという方法もある。

【そのシステムを悪用する方法】
教育学において、実験方法が確立していない、という点を利用する。

ある教室で実験を行うとする。

AならばBという命題に対して、このAの部分を大量に用意しておく。つまり、因果関係の因を多く用意しておく。
➀雨ならば生徒の学習意欲は低下
②教師の機嫌が悪ければ生徒の学習意欲は低下
➂教室が汚いと学習意欲は低下
④生徒同士の席をくっつけると学習意欲は低下   等

全ての条件がそろった教室で検証する。(この場合であれば、雨で、教師の機嫌が悪く、教室が汚く、生徒同士の席が近い教室。)

掲げた仮説のうちどれかがヒットすれば結果が出る。すなはち、生徒の学習意欲は低下する。

次に、すべての状況を変えた教室で形だけの対照実験を行う。(晴れで、教師の機嫌がよく、教室はきれいで、生徒同士の席は離れている。)

これも同様に、4つの因子のうち、どれかがヒットすれば結果が出る。すなはち、生徒の学習意欲は変わらない、または向上する。

それぞれの論文に掲げた仮説だけを実験内容に記載する。(天気に関して仮説を立てたのであれば、天気に関してのみ、実験に記載する。他の因子は特に記載しない。)

1つの実験から論文が4つ完成する。4つのうち、因果関係に最も説得力がありそう、人々の興味を引きそう、革新的な論文を投稿しても良いし、ばれないのであれば、各論文を別の雑誌に投稿し、それぞれの雑誌で評価を受けても良い。

このズルのポイントは「教室」という場が個別具体的であり、同じ状況は二度と作り出せない、という点である。つまり、対照実験が完全に対照にならない事が教育学では受け入れられている。すべての条件を記載することは不可能であるし、何が条件となるかも厳密には分からない。ゆえに、数打てば当たる、といったように、1つの実験から複数の論文を作成することが出来る。たてた仮説のうち、どれが真かは分からないが、どれかが真であれば実験の結果は出るようになっている。また、このために事前登録も問題なく行うことが出来る。

【その悪用から守る方法】 
実験風景の録画が最も有効であると思う。デジタル化が進み、あらゆるものが紙媒体から電子媒体へと変化しているのだから、論文にももっと録画、録音、といったような、紙面上では表現できないデータの記載がなされても良いように思う。録画がなされれば、少なくともすべての条件の変化を記録として残すことが出来る。仮に、上記のズルの方法でアクセプトされても実験の際の録画が残っていれば、例えば➀の論文を読んだ者が、「本当に生徒の学習意欲向上の原因は天気であるのか、実際には教室の清潔度ではないのか」と疑問に思い、教室の清潔度という条件をそろえた上で追試を行う事が可能である。

【健全な学術業界の姿とは】
今回の講義を受けて、健全な学術業界について考える際に、大学の在り方が密接に関係していると思った。

以前、友人と大学は何のために行くのか、を話したことがある。勉強したい人も大いにいるであろうが、現状を見ていると「大卒」の肩書が欲しい人が多数なのではないか、という結論に至った。その際に私は、「両親に学費を払って貰っている者が勉強しないとは如何なものか」といったような意見を言った。「勉強する気が無いものが大卒の肩書欲しさに大学に通うような社会は好ましくない、大卒という肩書が重視されるようで良いのか」と。すると友人は、「保護者からして、大卒という肩書によって子供が有利になればそれでよいし、大学も研究には財源がいるのだから双方winwinでよいのでは」と言われたのだ。私は、大学側の財源のことなど全く想定していなかったので目から鱗だったのだが、確かにそうである。文学部に行っても実際にそれを生かす仕事に就く人は少ない。ではなぜ、そのような専門的な学問を学ぶのか、と不思議に思ったことが何度かあった。勿論、専門分野を学ぶ上で身につけた思考のプロセスや問題解決のプロセスが社会の場で役に立つ、という面も大きいであろうが、学費の徴収による、日本の研究費用の確保、というお金のサイクルが大学では成り立っているのだ、とその時、そしてこの講義を通して思ったのだ。

結局のところ、大学が何とかうまい具合に機能すれば、学術業界の問題が解決する兆しが見えるのではないか、と思うのだ。

まず、再現性の問題に関して、大学生がもっと寄与できる事は無いか、と考えた。科学で新規性が、求められることを考えると、職業としての専門家、研究者は結果を出さなければいけないために、追試に時間を費やすことが難しいであろう。勿論、信頼できる既知よりも、信頼できない新しいことが重視されている現状を変える必要性もあるが、人間の新しいものに対する好奇心、興味関心などを考えれば、この現状を今すぐに、大きく変えることは難しいだろうと思う。そこで、特にプレッシャーの無い学部生などが追試を行う事が出来ないか、と考えた。追試を行う事で実験の詳細な注意ポイントも学べるであろうし、論文を読む力もつくのではないか、と思う。特に、専門的な方向へ進みたい学部生にとっては追試を通して、経験としての学習は非常に有効なのではないか、と思う。講義の中で追試を行ったり、サークルのように自主団体で追試を行ってみたりすることが出来るのではないかと考えた。

次に、QRPsに関して、私はこの講義を通して、初めて論文投稿の仕組みを知ったために浅い知識しかないが、ストーリーが美しい論文が評価される、という現状が、学問を行う上で正しいのか、という点が非常に疑問だった。仮説を立て、それが上手くいかなかったとしても、上手くいかなかったこと自体が新たな知識として得られるのではないか、と思った。そのような上手くいかなかった経験を繰り返し、最終的にストーリーが美しい論文が完成するのだろうと思う。ゆえに、上手くいかなかった仮説・実験も含めて、1つの論文、が完成すべきだと思うのだが、研究することが「職業」であり、「評価」が伴う以上、そのような綺麗ごとを言っていられないのが現状なのだろうと思った。しかし、研究者としての名声を得たい、という目的があれば、QRPsを行う事は有効かもしれないが、成果を出した先の充実した研究費がQRPsの目的であるならば、その研究費の確保の仕方を検討すれば解決される部分も出てくるのではないか、と思った。学費を払えない学生が多くいる中で、学費を増やせ、という事を言いたいわけではないが、大学が他国のようにもっと幅広い年代の人に開放され、大学に通う生徒の母数が増えたりするようなことがあったり、合理的なオンライン授業による経費の削減等が実現されれば、財源を増やすことが出来ないかな、と考えた。

また、サイエンスコミュニケーションに関して、ポップに騙されてしまう一般市民が多い、という現状に対しても、大学の教養学部等の設置を通して、生徒がポップに騙されない程度の各分野の専門知識を身に着ければ、自ずと、サイエンスコミュニケ―ションが実現するのではないか、と思った。

近年、大学進学率は上がり、大学に行く人が多くなってきたが、なぜ大学に行くのか、と問われて「肩書」以外の目的を持った人は少ないように思う。かくいう私も、肩書欲しさに大学に入った部分が大いにある。しかし、大学での講義をとおしてもっと市民が学術業界との距離を近づけることが出来れば、講義で挙げられた様々な問題が解決するような気がする。結局のところ、大学生がもっと学問に対して真摯に向き合い、市民全体が能力的にQRPs等を批判できるようになればズルも防ぐことが可能であり、市民への還元も出来、理想なのではないか、と考えた。




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