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【小説】焦げたトーストは元に戻らない


名無しの権兵衛


 あの人と結婚していれば、何か違ったのだろうか。来し方を振り返るとそれは果てしなくて、麻子はため息をついた。コーヒーを入れたマグを手に、テレビ前に腰を下ろす。マグにデザインされていたはずのクマが擦れて消えて、今は腰から下しか残っていない。
 お前は誰だ、名無しの権兵衛。

 夢中で生きてきた、はずだった。高校を卒業してしばらく働いて、母のすすめる人と結婚して、子どもを二人産んで、必死で育て上げた。決して楽ではなかったが、楽ではないということはつまり充実していたということでもある。ここ最近、あの頃に戻りたいという未練がましい想いを抱いては眠れなくなり、寝床で睡眠薬を飲んで、なんとか自分を眠らせる毎日だった。
 これは寂しいという気持ちなのだろうか。娘はまだ実家ぐらしをしているとはいえ、身の回りのことは自分で出来る。
「役割がなくなった」
「必要とされなくなった」
「人生の終わりが見えてきた」
 どんな言い方をしても腑に落ちない。日が落ちるときのあの、夏が終わるときのあの、光の中で汗を流した時間を恋しく思う気持ちによく似ているが、しかし人生の夏はもう二度と巡っては来ない。この虚しさを抱えて、自分はどう生きればいいのだろう。誰かに尋ねたいがそんなこと、どうやって聞けばいいのか分からない。聞ける相手もいない。ずっと頼りにしてきた、太陽のような母はすでに亡くなった。夫は無口でつまらない。丸一日会話を交わさない日だってあるのに、今更なんの話をすれば良いのだろう。麻子は受け身で、波風を立てずに生きているのが好きだった。

 テレビの雑音は滞りなく流れ続ける。それは麻子に世界を見せようとしているのか、はたまた、麻子の世界の狭さを嘲笑っているのだろうか。

――あの人だったら。
 あの人と結婚していたら、もしかして人生は違ったかしら。学生時代、「お互い三十になっても相手がいなければ結婚しよう」と言い合った、あの人。勇くん。彼は麻子の恋人でもなんでもなかった。でもだからこそ誓い合えた、”もしものときの結婚”。彼は夫と違い、大声で笑う人だった。豪快で、底抜けに明るくて、目立つ人。私をよく笑わせてくれた。彼の側にいれば楽しかった。「お前さあ」とお前呼ばわりされるのも嫌いじゃなかった。あの人だったら、いまのこの暗い気持ちを吹き飛ばしてくれただろうか。

 窓の外は曇天だった。降り出すわけでもなく、どこかへ流れていくでもなく、ただじっとりと、ずっとそこに居座り続ける雲。今日もきっと出かけはしないのだろう。誰かに背中を押されなくては、何か用事がなければ、きっと今日も自分は動かない。
 夫が、ガラガラと玄関扉を開ける音がする。散歩にでも行くのだろう。誘ってくれればいいのに、と思わないではないが、しかし誘われたら誘われたで、どうせ話すこともないのに面倒くさい、と思う。
 テレビの画面が切り替わり、ハンディクリーナーのテレフォンショッピングが流れだした。限りなく興味のわかないその音声だが、消してしまうと気分が塞ぐので消すに消せない。幾度目かのため息とともにコーヒーを飲み干し、シンクに溜まった食器を洗おうと麻子は腰を上げた。何をしたわけでもないのに腰が痛い。


フレンチトースト


 毎日同じ繰り返し。これが人生というものだったろうか。
 写真共有アプリに写る、孫の写真をスクロールする。月に一度、月末に写真をアップしているのは息子の妻、つまり嫁である。毎月律儀に同じ日に更新されるので、スケージュールにでも入れているのだろう。なんと機械的なことかと思わないではないが、しかし麻子は麻子で、それを給料日かのように首を長くして待っている。もっとも、自分の給料を得ていたのはとうの昔のことであるが。
――それにしても今の嫁は昔の嫁と違う。
 嫁、だなんて言い方が憚られるほどに自立している。息子と二人で子育てをしながら都会で働いており、夫の家に嫁いで姑とともに暮らし、肩身の狭い思いをし続けた過去の自分と、とうてい同じ立場とは思えない。しかし、だからといって自分と同じ苦しみを味わえば良いのに、とも思わない。あのクソババアの真似事をするなんて御免だ。死んだ母も悲しむだろう。そして何より麻子には、人に意地悪をするような胆力もなかった。

”かんなちゃん、かわいい♡”
 アプリの写真にコメントをつける。子どもたちが大きくなったいま、孫の成長だけが心の拠り所だった。すぐに既読のマークがつき、嫁から親指を立てた手のマークが送られてくる。時代は変わった。孫は祖父母のものではなく、父母のもの。つまり息子と嫁のもの。麻子が孫に会えるかどうかは、二人の気持ち次第なのだ。およそ三十年前、我がもの顔で我が子を抱いて立ち去った亡き姑の顔が脳裏をかすめる。時代は変わった。今はただ、息子世代に出来るだけ気持ちよく孫を見せてもらわなくてはならない。
”いつも写真をありがとうね”
 そう打ち込んでいたとき、玄関のドアがガラガラと鳴った。夫が帰ってきたらしい。時計を見るともう一時だった。珍しく長い散歩だったな、と思っていると、これまた珍しく、帰ってきた夫が麻子の隣に座った。
「コーヒーでも入れましょうか」
 うん、だか、あぁ、だかはっきりしない返事を待つまでもなく、麻子は腰を上げる。どうせ夫が飲むのはコーヒーだし、どうせ夫は大したことは言わない。インスタントコーヒーをマグへ雑に放り込んでいると、背後に気配がしてぎょっとした。
「それは、コーヒー豆?」
 一瞬、何を言い出したのかわからなかった。えぇ? と言いながら夫の視線をたどって、ようやく理解する。
「なん言いよん、コーヒー豆やない、インスタントよ」
 粉末の入った瓶の蓋を爪でコツコツする。嫌味のつもりかしらと思い、すみませんねインスタントで、と言い添えると、
「いやそうじゃなくて」
と夫が大きめの声を出した。なによ大きな声でと眉をしかめながら、麻子はコーヒーに湯を注ぐ。さっき使った自分のマグと同様、このマグのクマの模様も半分消えかかっている。
「ぼく、料理を教えてもらいたいなと思って。麻子さんに」
 はぁ? なに急に。心の声が顔だけではなく口にも出る。いまさら料理なんてできんやろ。
 何日ぶりかに、夫の顔を見る。すっかり白くなった髪の毛。深い皺。茶色い瞳に、まぶたが下がってきている。あなた、そんな人だっけ。自分からなにかをやりたいだとか、言い出す人だっけ。若い頃はそうだったかしら。もう四十年も一緒にいるのに、結局あなたのことは分からない。若い頃は分かり合っていたはずで、互いにそう思い込んでいたはずだけど、それも今となっては分からない。
「でも出来んと困るんよ。ぼく、調理場で働くことにしたから」
 あなたが? 調理場? 開いた口が塞がらない。なんでまたぁ? と素っ頓狂な声を上げる麻子に夫は、なんとなく、と笑って鼻の横を掻いた。

 聞けば、道後にあるホテルの調理場らしい。定年してからずっと趣味を探してきたものの、これといって面白そうなものがなく、つい先週シルバー人材に登録して仕事を探すことにしたのだという。
「まずはぼくも、麻子さんにコーヒーを淹れるかな」
 そう言って台所に立つ夫の、手元が怪しい。どのスプーンを使おう、このスプーンとこのスプーンじゃ倍くらい量がちがわん? といちいち麻子を振り返る。そんなん適当でええけん、と面倒くさがりながらも一から十まで麻子が口出ししたはずのコーヒーは、それでもなぜか薄かった。マグについた、顔のない二匹のクマが机に並ぶ。
「珍しいね」
「そうかな」
「そうよ。べつに調理場で働くことにならんでも、私にコーヒーの一つくらい、淹れてくれても良かったのに」
 感謝より、不満がまっ先に口をつく。小さく我慢してきた不満たちが、あと五千はある。感謝はその五千を言い終わってからでないと言いたくなかった。素直になる方法なんて、とっくに忘れた。認めたくないが、きっとそれはお互い様なのだろう。
「それは大変、失礼いたしました」
 夫の強い口調にカチンとくる。ほらまたそうやって、納得もしてないのに謝ったふりだけして終わらせて。私の言ってること、間違ってる? 間違ってないと思うけど?
「だいたい、なんでまた調理場なんて選んだんよ。フロントとか清掃とか、もっと出来そうな仕事かてあったやん」
「ない。なかった。調理場しかなかったの」
 ほらまた、始まった。一度へそを曲げるとこの人は口をつぐむのだ。調理場しかなかったなんて、そんなことあるはずがない。
 互いに口をつぐみ静かになったリビングに、娘の香菜が入ってきた。
「お父さん仕事決まったん」
 うん、と夫が応じる。娘には素直に会話に応じるのだから皮肉なものだ。夫婦の契りとはいったい何なのだろう。
「香菜はお父さんが仕事探しよるん、知ってたん」
「うん。ちょっとでもお金入れなあかん、って言うてな。なぁ、お父さん」
夫に向けたはずのその言葉が、麻子に鋭く突き刺さる。娘の背中から感じるプレッシャー。先日の、香菜の言葉が脳裏をよぎった。

「お母さんはさ、私らにはお父さんに感謝しろって言うくせに、自分は全然感謝しとらん。旦那さんが銀行員の誰それさんの家は毎年海外旅行をしてるだとか、そんな話ばっかり。お父さんに感謝しとるとかいいながら、お父さんの稼ぎに文句つけてんのと一緒じゃ」
 父親に似て大事な話はめったにしない娘が、珍しく口を開いたと思ったらそんなことを言い出した。
「なんね」
 あんたかって、本当は東京の大学に行きたかったけど我慢した、って言うたやないの。おんなじことやないん。そんな母の言葉を、娘は吐き捨てるように否定した。あれは違う。お母さんがお金がないお金がないって私にずっと言うけん、やから我慢したって言うたんや。
「なにが違うん」
「なにがって……」
 香菜が言葉に詰まる。和真は東京の大学に行かせたやろ。しかも私立。それだけ言うとやおら立ち上がり、二階の自分の部屋に籠もってしまった。でも、和真の授業料は半額免除やったんよ。娘の背中に追いすがるように掛けたその一言が、娘の耳に届いたかどうかは分からない。届いたところできっと意味がないことくらい、麻子にもわかっていた。

 地元の大学を卒業し、地元で就職し、就職先を転々とした末に仕事を辞め、実家に戻ってきた娘。今さら、大学受験のころの恨み言を聞かされるとは思わなかった。そんなことを言われても、今さらどうしようもない。当時お金に不安があったのは事実だし、とはいえ下の子の私立進学がなんとかなったのも事実だ。第一子として弟に気を遣ってくれたのには感謝しているが、だからといって、それを切り札にずっと実家に居座るつもりなのだろうか。女の子なのに、結婚もせずに? そのことを夫に愚痴ると、「結婚するもしないも香菜の自由やから」と諌められた。大人になれば当然結婚をするものと思って生き、当然のこととして結婚した麻子にとって、結婚しない自由というものはどうしてもピンとこない。口には出さないが、娘が幸せになるのに結婚は不可欠ではないかと今でも思っている。

 けっきょく香菜は、私に文句をつけたいのだ。文句をつけるために、実家に戻ったのだ。なんて子どもっぽいのだろう。頼りになる長女だったのに、あの子はいったどこへ行ってしまったのか。
 麻子の視線が娘を追う。その背中は怒っているようで、しかし母になにかを訴えかけてもいた。

「今からフレンチトースト作るから、お父さん見とき」
 香菜が台所に立ち、シャカシャカと卵を溶き始めた。その後ろで、夫がメモ帳片手に熱心に娘の手元を見つめいてる。
「お父さん、料理の手伝いなんかしたことないのに」
 麻子が鼻白むと、「手伝われたら手伝われたで、邪魔やとか言うくせに」と香菜から言葉が飛んできた。ほら、やっぱり。この子は私に文句をつけたいだけ。
「はいはい。すべてお母さんが悪いんよね」
 散歩にでも出よう、と麻子は席を立った。空になった二つのマグをシンクに入れる。顔のないクマが、恨めしげにこちらを向いていた。
 卵はこうやって、白身を切るように混ぜるんよ。フレンチトースト教室を続ける二人の背中にくぐもった声で「行ってきます」と声を掛け、返事を待たずに家を出た。


六つ切り食パン


 あれから、ちょくちょく夫は娘に料理を教えてもらっているらしい。夫の会社員時代の話や、娘の興味のあることについて二人で話しながら台所に立っているのを見かけては、麻子は居心地の悪いような、所在ない気持ちになって散歩に出ることが多くなっていた。

 その日もぼんやり河原を歩いていると、嫁からテレビ電話がかかってきた。夫に台所を占領されて困る、と、思わず愚痴のようなものが口から滑り出る。
「あらぁ。もしかしてお義母さん、台所仕事は母親のものだと思ちゃってたりしません? 他の人が出来ちゃったら自分の存在価値がなくなるような、そんな気持ちになるんじゃないですかぁ」
 可愛い孫の笑顔の後ろから発せられる、嫁の言葉は辛辣だ。ついつい愚痴をこぼしたりすると、オブラートを忘れた豪速球が返ってくる。
「和くん、お料理もお皿洗いも上手だけど、実家に帰ったら全くしないじゃないですかぁ。なんでなのって聞いたら、実家では男は台所に立つものじゃないって考えだから〜って、言ってましたぁ」
 そうなのだ。男は仕事、女は家事育児。そう教わってきたし、そう信じてきた。それが私の世代の考え方だし、それはそれで否定されるものではないはず。夫だって、それでいいと思ってやってきた……はずだったのに。急に料理をしたいだなんて言い出して、どういうつもりなのか。それは私の仕事のはずではなかったのか。
「千晶さんは、気にならないの?」
「気になるって、なにがですか」
「台所を他の人に使われていても」
 えぇ〜気になんないですよぉ台所はみんなのもんだしぃ、なんて能天気なことを言うこの子には、女としてのプライドはないのだろう。しかし、きっとその考えも古いのだろうから、と麻子は絶対に口には出さない。どうせ、女としてのプライドってなんですかぁ〜、とかなんとか言われて終わりだ。
「和くんも簡単なものしか作らないけどぉ、人に料理を作ってもらうのって良いですよぉ」
「お父さんに何かを作ってもらうなんて、こないだコーヒーを淹れて貰ったのが初めてやねぇ」
 えぇ〜っ、そんなことってありますぅ?! と嫁が面白そうにゲラゲラ笑う。笑うとこなのか、そこは。さすがですお義母さま、じゃないのか。ないよね。
「ご飯、一緒に作るのも楽しいですしねぇ。ほら、みんなでお鍋の準備、とか、みんなで飯盒炊爨、とか。たとえ失敗したとしても、一緒だったら笑えるし」
「笑える? 笑えんよ。どうせなら美味しいもん食べたいやん」
「そうですかぁ? 静かに美味しいもの食べてるより、変な味ー! とか言いながらワイワイ食べるほうが良いじゃないですかぁ。どうせ腹の中入っちゃえば一緒なんだし〜」
 この嫁の作る料理はいったいどんな味をしているのだろう。息子は日々、焦げた不味いものを食わされているんじゃないだろうか。とそこまで考えて、死んだ姑のようなことを考えている自分に気づいてげんなりした。だいじょうぶ、私はまだ口に出してはいない。
 麻子が「そうねぇ」と曖昧な言葉を発しているうちに、孫がグズグズと泣き出して、嫁がすみませんではまたぁ、と一方的に通話を切る。可愛い泣き顔も見たかったのに……と寂しい気持ちになりながら、スマホをポケットにしまった。自分は、あの姑のようにはならない。嫁を尊重する良い姑になりたい。そう思っている。

 いつもの癖で、自然と足がスーパーに向いていた。あおやま食品店、と書かれた看板は錆で縁取られていて、地方の個人スーパーの経営の厳しさを物語っている。牛乳、卵、グラノーラ。夫の好きなカマンベールチーズ。見慣れない若い青年が気だるそうに待つレジへ向かう途中で、ふと足が止まった。そういえばあの人、フレンチトーストはうまくできるようになったのかしら。娘に料理を教わっているのは時折見かけるようになったものの、自分で作っている姿はついぞ見かけたことがない。
”一緒に作るのも楽しいですしね”
 嫁の言葉を思い出しながら、夫の不手際にイライラする自分を予期しながら、麻子はカゴに六つ切りの食パンを放り込んだ。
「楽しくないと思うけどねぇ」
 見慣れない青年は、麻子がレジに来ると貼り付けたような爽やかで丁寧な笑顔でレジ打ちをする。ありがとう、と気持ちよく会計を終え、荷物を袋に入れたところでまた青年を振り返ると、再び彼は気だるそうな無表情に戻っていた。振り返らなければよかった、と麻子はため息をついた。



新人君


 パンはそれから、まるニ日放置されていた。牛乳がもう残り少なくなっている。めんどくさいめんどくさいと思っていたら何事もめんどくさい。なぜ自分は、あえてめんどうくさいことをやろうとしているのか。フレンチトーストなんて、夫と作らずに自分一人で作ったほうが何倍も早い。そして美味しい。
 うん、そうだ。なんだか急に、フレンチトーストが食べたくなってきた。さっき朝ごはん食べたところだけど、気にしない。早めの昼ごはんということにしよう。
 冷蔵庫から卵と牛乳を取り出す。そうだ、と、目についたバニラエッセンスもついでに一緒に出した。一、二滴垂らしたら美味しそう。
 バットに卵を割り入れたところで、リビングに夫が入ってきた。相変わらず無口にテレビの前に座る、かと思いきや、キッチンのカウンターから台所を覗き込み、「フレンチ?」と麻子に尋ねた。
「そう、フレンチ。修さんも食べる?」
「ううん。ぼくは見てる」
 見てるって何を、と問う麻子の言葉には応えず、リビングを出て戻ってきた夫の手にはメモ帳が握られていた。夫に似つかわない、和柄のメモ帳。四十年あまりの付き合いだから分かるのだが、あれは夫が自分で買ったものではない。かといって今さら、誰からもらったのと尋ねるようなこともない。
「なんよメモなんかとって新人研修みたいに」
と麻子が笑うと、みたいにじゃない、ぼくはこれから新人です、と夫が背筋を伸ばした。
 そして新人よろしく、夫は生真面目に卵と砂糖と…と材料を指差し確認し始めた。生真面目で、不器用な人。そのせいで仕事が上手く行かなかったことも一度や二度ではない。退職してせいせいしたなんて言っていたはずなのに、また仕事をするだなんていったいどういう風の吹き回しだろう。
「あれ、バターがない」
「そんなんは、その時その時で出せばええんよ」
 まったく、と言いながら麻子が冷蔵庫に手を伸ばす。不意に嫁の声が蘇った。
『台所仕事は母親のものだと思ってるんじゃないですか』
 そうだろうか。私は手伝って欲しいと思ってきた。子どもが、夫が手伝ってくれていたらどれほど楽だっただろう。そっちが手伝う気配を見せてこなかったから、だから今まで、私が一人で頑張ってきたんじゃないの。
 麻子は手を止め、じゃあ新人君、と夫に視線を送る。
「バターを取り出してください」
 えっ? と夫が戸惑い、ためらった。
「いいの?」
 いいのとはどういう意味だ。それじゃあまるで私が、夫に台所を触らせたくないみたいじゃない。
「いいのってなによ。もちろん。どうぞ?」
 夫が何かを察したように、慌てて冷蔵庫のドアを開ける。が、ドアポケットに差し込まれたバターには全く気が付かない。そこよそこ、と面倒くさそうに麻子が指して、ようやく夫はバターを見つけた。
 ほら、こういうことなのよ。
 麻子は心の中で、電話越しの嫁に反論した。こうやって余計に時間がかかるから、自分で全部やったほうが早いの。
「すみません、ぼく、新人なもので。麻子さんは凄いなあ。なんでも手際よく作って」
 そらそうよ、と麻子は何でもないふうに答えたが、いつもは自分を褒めたりしない夫からの、意外な褒め言葉に動揺していた。
「それに、あの瓶はなに?」
「これ? ああ、これはバニラエッセンス。ちょっと入れたら美味しいかと思って」
 へえ。すごいなあ。と夫が繰り返す。そんなこと、ぼくには到底思いつかん。
「ほしたら、修さんも何か入れたいもん考えてみんけん」
 思わず口をついて出た言葉に自分で驚いた。絶対時間がかかる。そんなこと聞いたら最後、ぜったいに時間がかかる。けど、まあいいか。どうせ私の人生、もう急ぐことなんてないんだし。
 それは新人には難しいです、とかなんとかうだうだする夫を見ながら、自分なら何を入れるだろうと考えた。
「マヨネーズは普通よね。生クリームなんかがあれば美味しいんやろうけど…。あっ、アイスは? 香菜の食べかけのバニラアイスあったやろ」
 考え込んだ夫は、麻子の話を聞いていない。うーんと目を瞑り、唸って腕組みをしている。
 長い。腕組みをしたまま眠ってしまったのだろうかこの人はと顔を覗き込むと、急に目を開き「しょうゆ」とやけに大きな声でのたまった。
「じつは、ぼくにはフレンチトーストは甘すぎるん。だから僕は醤油をかけたい」
 これには麻子も笑ってしまった。フレンチトーストに醤油を入れたがる人なんて、いったいどこの世界にいるというのだ。さすが昭和の男、台所仕事をいっさいしてこなかっただけある。じつにセンスがない。却下しようかと思ったがぐっとこらえた。バニラエッセンスとの格の違いを見せてやろう。
「じゃあ新人君、ここにもう一個卵を溶いてくださいまし。卵液を半分にわけて、こっちはバニラエッセンス、そっちがお醤油入れるのにいたします」
 麻子が慇懃無礼なふりをする。はい分かりました先生、と夫が敬礼のポーズで応じた。面倒くさい。面倒くさいが、夫とここまで会話したのはいつぶりだっただろう。もう思い出せないほどだ。
 卵液にパンを浸している間に、麻子がコーヒーを淹れる。夫はその光景が見えているはずなのに、手伝うとも言わずボーッとしていた。それが当然な毎日を、何十年と過ごしてきたのだ。今さらちょっと料理をするようになったからといって期待してはいけない。なんて自分を窘めて、剥げたクマのマグを二つ並べた。
「仕事はいつから始まるん」
「らいしゅう」
「……なんでまた、仕事なんか始めようと思たんね」
「なんでかなあ。なんでやろ」
 この人はいつも、自分の胸の内を明かさない。いやもしかすると、何も考えていないだけかもしれない。麻子がこうしてボールを投げても、結局何も深まらないまま会話は終わる。これまでの数十年、ずっとそうだった。
 アルコールに潰されて、入院することになったときも。酒を飲んで気が大きくなったところで、この人は喋らなかった。いや、口数は増えるのだが、大切なことは話さないので結局話したうちに入らない、という方が正確だろう。当時、なにか仕事で嫌なことがあったのだろうと察しはついたが、夫はそれ以上のことは何も言わなかった。
「仕事、嫌いやなかったん」
「嫌いやね」
「そしたら、なんで」
 食い気味で尋ねる麻子に、夫はいつもより少し大きめの声で言った。
「料理とは、どのくらい大変なんやろうと、思いました」
「なんよ、それ。嫌味ですか」
 嫌味とちゃう、と慌てて夫が否定する。マグを握りながら、顔のないクマの顔の部分を無意識にこすっている。クマの顔が剥げているのは、この人のこの癖のせいだったのだ。
「香菜に言われたんよ。お父さんは、お母さんがしてきてくれたことが分かってないって。いくら感謝してるといっても、やろうともしてないんやからわかるわけがないって」
「香菜がそんなこと言ったん」
 意外だった。てっきり、香菜の敵は自分なのだと思っていた。なんでも母親のせいにすることで、母親に甘えることで、香菜は自分を保っている。そう思っていたのだが、どうやら香菜には香菜の考えがあったらしい。
『ほらな。結局、お母さんは私の意見ちゃんと聞きよらんのよ』
 香菜の口癖が脳裏に反響した。
 聞いていないわけじゃない。私はただ、あなたの幼さも、弱さも見てきたから、だから私はいつまでもあなたのお母さんであろうとして……。
 麻子は無意識に頭を振る。
「それで僕、ハッとした。香菜のこと、いつまでも子ども扱いしてきたけど、もうそろそろ一人の人間として、お話を聞いてみてもいいんじゃないかと、思いました」
 夫は珍しく、麻子の思いを読んだかのように饒舌に語る。
「聞いてないことはないけど……」
「香菜は香菜なりに、僕らのことを長い間見てきてそう言うんやから、いっぺんくらい、アドバイスを聞いてみようと思いまして」
「なんや、私が香菜の話を聞いてないみたいな言い方やね」
 そんなことは言うてない、と夫は不機嫌な、大きめの声を出す。被害妄想だと言いたいのだろう。でも、と麻子は思う。実際、香菜もあなたも、私が香菜の話を聞いてないと思ってるやないの。
 気まずい沈黙が流れた。
 楽しい雰囲気で話し始めても、いつも結局さいごはこうしてギスギスしてしまう。それならいっそ話さないほうが良いじゃないかと、それは互いに感じていたことだったのかもしれない。気づけば麻子も、マグのクマの顔の部分を撫でつけていた。
「香菜はな、目標があるんやって」
「目標って、なんの目標」
 こんなとき、話題になるのは決まって子どものことだ。自分たちの問題を直視せずに、ひとの問題ばかりを熟考したがるのは人間の常なのだろう。
「貯金。今アルバイトしよるやろ。百五十万貯めたら家を出るんやって」
「家を出るって……どこ行きよん」
 思わず身を乗り出す麻子に、夫はサァ? と首を傾げた。やりたいことがあるんじゃない? と呑気にコーヒーをすすっている。そんな……と絶句する麻子は、男に騙されているんじゃないか、あるいはマルチ商法、いや変な宗教かも……と、ありとあらゆる懸念材料を脳裏に羅列した。
「麻子さんも、三十も近い娘が実家にずっと居るのかって心配してたし、良いことなんやないの」
「そんな、出ていけば良いってことやないわね。誰か良い人でも見つけて、結婚して、そんで出ていくなら良いけど」
「せやから、結婚してもしなくても良いわい。香菜の人生なんやから」
 ピシャリと夫に牽制されたので、麻子は次ぐ言葉がなかった。そんな、良いように言うて。子どものこと、今の時代に合ったような耳障りの良いこと言うて。修さんは本当に子どもを心配しとらんのよ。本当に子どものことを心配しとったら、結婚してほしいと願うのは当たり前なの。親と同じくらい、いやそれ以上に心から香菜のことを心配してくれる人、人生の伴侶を見つけてほしいと願うのは、母親として当たり前なの。でもそんな、時代遅れな麻子の思いは言葉にするのが憚られる。
 ピピピ、とタイマーが鳴り、反射的に麻子がボタンを押した。パンが十分卵液に浸かったころだろう。腰を上げかけた麻子を制するかのように、夫が「それに」と言葉を継いだ。
「それにな、これは言わんどこうかとも思ったんやけど」
 もったいをつけてなかなか話そうとしない。なによ、と沈んだ声で返す麻子は、耳をふさいでしまいたい気持ちだった。こういう話は昔から苦手だ。私はもっと、どうでもいい話だけをしていたい。
「香菜はな、僕らのことを見てきて、結婚に良いイメージがないんやって。だから……結婚したくないらしい」
 頭を鈍器で殴られたよう、とはこういうことを言うのだろう。しばらく言葉の意味が理解できなかった。
「私らのせいってことなん」
「仮面夫婦やって、言うてたわ」
 仮面夫婦。かすかに、覚えのあるその単語。あれは香菜が高校生のころだっただろうか。


 何度目かの断酒のために入院している夫の面会を終えた、帰り道のことだった。和真は部活で遅くなるといって来ず、香菜と二人で冷える一月の夕暮れ時を歩いていた。夕暮れ時といっても、あたりはもう闇い。
「お父さん、元気なかったな」
「そらそうよ。あんだけ止める止める言うて止められんかったんやけん。反省してもらわんと」
 ため息まじりに返事をしながら、真冬の空を見上げる。
 アルコール中毒の夫。暴力的になったりはしないものの、酩酊状態でぐだぐだと毎日、ろれつの回らない舌で管を巻く。トイレに籠る。歩けなくてよろめく、ぶつかる、転ける、うずくまる。それを冷めた目で見つめる、思春期の子どもたち。
 銀行員の田中さんの旦那さんは、きっと家で泥酔したりしないだろう。役所勤めの村上さんなんて、子どもの勉強を見てくれていると言っていた。どうしてうちの夫だけ、こうなんだろう。あなたがそんなふうでさえなければ、と叫びだしそうになりながらも叫べず、たださめざめと泣くだけの日々。
 見上げた真冬の空は無情なほどに闇くて、そして広い。現実のすべてを放り出して、ただひたすらこの冷えた夜空だけを見つめていたいような気がした。
 静かに、香菜と麻子は家へと歩く。
「……お母さん、今回は相当呆れとったやろ。もうどうでもええわって顔しとった」
「そやね。もう疲れたわ」
「次もやっちゃったらさ、どうするん。離婚するん」
 香菜の聞き方は至極さりげない。
「離婚したいけどねえ。お母さんだけやったら子ども二人も養っていけんからねえ。このまま仮面夫婦を続けるしかないわ」
 それは半分冗談のような、軽い一言だった。麻子に離婚するつもりなんて毛頭ない。ただでさえ、誰かに頼って生きていたい人生なのだ。離婚だなんてとんでもない。ただ、肝心のその頼りたい、頼れるべきポジションの人間が思いのほか酒浸りで頼りない、ということに麻子は大いに失望、いや、大いに不安になっており、その不満を噴出させているだけなのである。
「夫婦なんて所詮他人、ってやつね」
 大人びた、何でもお見通しかのような言い草をするのは、香菜の昔からの癖だった。
 道すがら、自動販売機で飲み物を買った。どうしようと悩む麻子に、「ココアにせんけん。お母さんは甘ったるいのが好きやろ」と香菜がボタンを押したのだった。

 香菜はあの時の言葉を、引きずっているのだろうか。適当に麻子が発した「仮面夫婦」を、香菜は真に受けたのだろうか。時折、子どもはとんでもなく些細なことを覚えていてぎょっとする。
「なんよ、私らのせいなん? そんなん、彼氏が出来ん言い訳ちがうん。あの子は気い強いし、素直になれへんし、なかなか、誰かと付き合うなんてことが出来ひんのやろ」
 いくら両親が仮面夫婦であろうとも、自分こそはそうはならないと思って誰かと結婚する。普通そんなものだろう。麻子自身、両親の喧嘩は嫌というほど見てきたし、だからこそ自分は仲睦まじい夫婦関係を築きたいと思ってきた。だからといって結果が伴ったわけではないけれど。

 フレンチトーストを仕上げなくては、と麻子は席を立つ。つられて夫も席を立った。流れるような仕草で、メモ帳を取り出し胸の前にスタンバイさせている。そして新人君のポーズを取りながら、夫は自分のことを振り返った。
「僕だって、お見合いがなければ生涯孤独やったかもしれん」
「そうやね。修さんは何考えてるかわからん。すぐ黙り込みよるし。香菜は修さんによう似とる」
 バターをひいて熱したフライパンにパンを乗せると、じゅうという音が二人の間に立ち上った。遅れて、甘い匂い。バニラエッセンスの香りも混ざっている。うん、これは成功だ。出来上がりの味を脳内で再現して満足している麻子に、突如夫がうしろから「すみませんでした」と声を発した。振り返ると、腰を折って頭を下げている。
「なに、どしたんね、新人君。もしかして、お醤油よりバニラエッセンスのほうが美味しいことに気づいてしまいましたか?」
 ふざける麻子とは裏腹に、顔をあげた夫の顔は真剣だった。
「お酒飲みすぎたこと。すみませんでした。ご迷惑をおかけしました」
 それは、二人の間でタブーになっていたことだった。狭い台所で、じゅうじゅうとパンの焼ける音だけが響く。麻子はなんと言って良いやらわからなかった。
「なんね急に」
 怒るべきか、悲しむべきか。咄嗟に自分の感情を探して、そのどちらでもないことに気づく。
――今さら、謝られたところで。
 麻子は菜箸を置いて、宙を見つめた。
 香菜はたしかに、僕に似よる。やけん、僕が変われば香菜にもなにか伝わるんやないかと、思いました。香菜に、仮面やない夫婦を見せようと思たら、僕が、夫婦いうもんに真剣にならいかんと、思いました。
 そのようなことを、夫はとぎれとぎれに話した。ふと見やると、夫はメモ帳に視線を落としている。妻に伝えるべき言葉をカンニングしているのだった。
「それと……」
 ぐいと顔をあげた夫と、視線がかち合う。ありがとう。僕は麻子さんに、たくさん助けられてきました。そういい終えると夫は、ふうと息をついて椅子に座り込んだ。

 相変わらず一方的なんだから。取り残された麻子は、やはりただただ複雑な面持ちで「どういたしまして」とだけ言った。こういう時、貞淑な妻なら、「こちらこそ、今までお仕事ありがとうございました」とかなんとか言うのだろうが、突然の一方的な告白にそんな気持ちにはなれなかった。
 それでも夫にそんなことを言われたのは初めてで、心の器のどこか片隅が少しだけ、満たされたように潤ったような気がしなくもない。夫は気恥ずかしそうに椅子に座っている。懐かしい。確か、結婚の申し込みをしてきたときもこんなふうに手紙を読んで、項垂れていたっけ。
「気づくんが遅いわ、新人君」
 得意げに腕を組む麻子の後ろで、じゅう、とひときわ大きな音が上がった。焦げ臭い。しまった、と慌てて菜箸でひっくり返したフレンチトーストは、それは真っ黒に焦げてしまっていた。
「先生も。気づくんが遅かったみたいですね」
 麻子の様子を見て、なぜか息を吹き返したように生き生きしだす、新人君こと夫。僕のお醤油フレンチは自分で焼こうかな。焦がされちゃうかもしれんし。などと軽口を叩く始末。
「修さんが変なこと言い出すからやないの」
 口を尖らせる麻子に、夫は「弘法も筆の誤りってやつですね」と嬉しそうにフライパンの取っ手を握った。

 結果的に、麻子のメイプルシロップ入りフレンチトーストは焦げ、夫考案の醤油入りフレンチトーストは綺麗に仕上がった。ばかりか、醤油入りのフレンチトーストは悪くない味であった。
「そっか。卵焼きにもお醤油入れるもんね……」
 不味くなるわけがなかった。麻子は一人納得しながら、いや、でもこれは修さんのビギナーズラックに違いない、と心のなかで負け惜しみを述べた。
顔のない二体のクマが、シンクから二人を眺めていた。


渡部くん


 夫は真面目に仕事に通い出した。料理についてド素人であるうえに口数が少ないために心配していたが、どうやら職場に面倒見の良い同世代の先輩がいるらしく、その人があれこれ世話を焼いてくれているとのことだった。
 夫は逐一、「今日は皿洗いをした」だの「だし巻きを切らせてもらえた」だの「ついに盛り付けを任された」だのと麻子に報告する。あれ以来夫は、努めて麻子とコミュニケーションを取ろうとしているようだった。
「今度な、渡部さんの家でバーベキューしませんかって。誘われました」
「渡部さんってだれよ」
「やけん、お世話になっとる先輩」
 珍しいこともあるもんだと麻子は感心した。夫は人付き合いがうまい方ではない。会社員時代も、退職までの数十年で同僚と遊びに行ったのはほんの数回程度である。その夫に、しかもまだ付き合いの浅いうちからこうして声をかけるなんて、よほど気さくな人か、あるいはマルチや宗教の勧誘かどちらかだろう。後者だったら面倒くさいな、と思いつつも麻子はバーベキューを了承した。夫がお世話になっている人だから、一度くらい挨拶はしておいたほうが良いだろう。

 そして迎えた週末。
 出迎えてくれた”渡部さん”を見た麻子は、驚きで何度も目を瞬いた。
「あれ? もしかして」
 麻子が声をかける前から、渡部さんのほうも「あれ」という顔をしていた。
「渡部さんて、もしかして渡部勇さん、よね?」
「あれ、近藤さん?」
 うそ、久しぶり、何年ぶり? と話が進む二人の横で、それぞれの伴侶が静かに動向を見守っている。近藤は麻子の旧姓だった。
 知り合いだったの? と渡部に声をかける人懐っこい笑顔の女性が、渡部の奥さんらしい。
――渡部くんにぴったりだ。
 麻子は誰が知っているわけでもないのに、つい先日「お互い三十歳で相手がいなかったら結婚しよう」と言い合った渡部に思いを馳せていたことを恥ずかしく思った。こんなに素敵な人と結婚していたなんて。
 「高校の同級生で」と奥さんに説明する渡部くんは、きっとあの約束なんて覚えていないだろう。こんなに幸せそうな夫婦なのだ。ただでさえ快活で人脈の多い渡部くんが、あんな約束、未練たらしく覚えているわけがない。
胸中のざわつきを悟られないよう、麻子はできるだけ爽やかに奥さんに挨拶をした。手土産を渡すと、「わあ、これ私大好きなんです」と彼女は嬉しそうに笑った。

「越智くん、真面目でよう頑張っててね。もうお皿の盛りつけまでできるようになったんよ」
「いえいえ、渡部さんの教え方がうまいからです」
 いかにも先輩と後輩といった風情の会話が繰り広げられる。家の外の夫は努めて流暢に話すので、家であれほど無口だなんて誰も思わないだろう。
「もう越智くん、渡部さんなんてやめてよ、僕ら同い年やないの」と気さくに笑う渡部くんは昔のままだった。面倒見の良い渡部くんが調理場のリーダーを任されているんも納得やわ、と麻子は一人合点する。

 通された家は古いながらにすっきり手入れがされていて、風通しが良い。縁側から降りた庭先に、バーベキューの用意がなされていた。「わざわざこんなに、ありがとうございます」と麻子が恐縮すると、いいのいいのと渡部の妻が鷹揚に笑った。
「この人、毎週末バーベキューしないと死んでしまう人なんです。だから慣れてるし、むしろ付き合わせちゃってごめんなさいね」
 それはつまり、毎週末家に呼ぶ友人がいるということだ。賑やかで良いなあ、と麻子は呑気に羨ましく思う。思わず、「良いですねえ」と心の声が漏れてしまった。
「良くないですよ。たまにはゆっくり過ごしたいのに、もうずっと、何に取り憑かれてんだか狂ったようにバーベキューやってるんです。支度するのも片付けるのも私だっていうのに」
「だから結子、それはごめんって」
 聞いていた渡部くんは気まずそうに笑って、夫と火起こしに取りかかった。麻子と結子は台所に引っ込み、食材の準備をする。
「確かにそれは大変ですねえ。だけどそんなに家に呼ぶ人がいるなんて、いくつになっても渡部くんは顔が広いねえ」
 麻子が思ったとおりを口にすると、いやいや、と声のトーンを落として結子が否定した。
「顔が広いだけでね、すごく親しい人なんかはいないんです。広く浅い付き合い、っていうの? あんなの、どれだけやっても消耗戦みたいな感じですよ」
 結子の言葉は麻子にとって、わかるようでわからなかった。賑やかなのは良いこと。羨ましいですと言うと、結子はひどく苦い顔をした。
「越智さんの旦那さんのほうがよっぽど羨ましいですよ。あんなに真面目そうで、優しそうで。浮気なんかしないんでしょう」
 ええ、そりゃ、そんなのはもちろん、と笑いかけたところで、はたと結子の顔を見やる。
――まさか? 
――そうですよ
 言葉にせずとも、アイコンタクトで会話は成立した。渡部くんは浮気をする人なのだ。麻子は驚いてなんと言ってよいやらわからず、ええ、だとか、いやそんな、だとか意味のない言葉を発するしか出来なかった。
「今はずいぶん落ち着いたんですけど。そういう“遊び“を我慢しだしてから、毎週バーベキューをするようになったんです。病的なんですよ」
 結子の諦めたような、それでいて我が子を語るような言い草に、麻子は少しどぎまぎした。どうしてそんなプライベートなことを、初対面の私に言うのだろう。
 思いを見透かしたかのように、結子が悪戯な顔で囁く。
「高校時代の友達の近藤さんについては、夫から聞いてます。『三十になったら結婚しよう』と約束しあっていたと、ちょくちょく話してました」
 途端、麻子の顔から火が出る。バレていた、という焦り。そしてそれ以上に、渡部が約束を覚えていたことが麻子を動揺させた。
「そ、そんなこと言ってたかね。覚えてないけど……若気の至りやねえ」
 なんとか笑ってごまかそうとするも、結子は聞いていなかった。
「良かったと思いますよ。うちの旦那じゃなく修さんで。私もあんなに真面目そうな、優しい一途な人を選べば良かった。昔はあの社交的なところが良かったんですけどね」
 縁側と台所を往復しながら話し込む麻子と結子の視線に気がついたのか、渡部くんがチラチラこちらを伺っている。
麻子は、「真面目で優しそう」と評された夫のほうをまじまじと見ていた。そうか。傍から見るとそう見えるんだな。口数が少なく、交友関係もごく限られていて、酒の力を借りてようやく少しだけ素直に言葉を発することができるような、気の小さな夫。まさか渡部くんの奥さんに羨ましがられるとは思いもよらなかった。
「別れようとは思わんかったんですか」
「思いましたよ、何度も。でもその度にね、親に止められてしまって。泣いて止められるんですよ。そこまでして離婚するのは気が引けてしまってね」
 うんうん、気持ちは分かりますよと麻子は相槌をうつ。親にそう言われたら、麻子も間違いなく離婚をためらっただろう。とてもよく分かる。親とはそれくらい、影響力の大きな存在である。と、思うその一方で、今の子たちは――香菜や和真は――自分が感じるように親からの言葉を受け止めるだろうかというと、多分そんなことはないのだと思う。これも時代の流れというものだろうか。
「そうしてるうちに、なんだかんだ可哀想に思えて、許してしまったのよね」
 結子は達観しているように見えた。
 おーい、と渡部が二人を呼ぶ。おんな二人は目配せをして、今のは内緒ね、と頷きあって台所をあとにした。


 あの日、バーベキューをしながら話した渡部くんは昔のまま、人懐っこくて話のうまい人だった。「近藤さんにだけは何でも相談できたんだよなあ、俺」と笑顔で言われたとき、麻子の胸の奥はじんわり熱くなり、あの頃の感覚を思い出しそうになった。とはいえ事前にあんな話を聞いていたせいで、その快活な姿はどうしても「落ち着きのない寂しがりな人」のように見えてしまい、いやもっと言うと「不潔な不倫男」に見えてしまって、麻子の胸の高鳴りは一瞬で冷えてしまったのだった。

――私だったら、絶対に許せないな
 結子の諦めたような達観したような口ぶりを思い出し、麻子は素直にすごいと思った。私だったら絶対に、死ぬまでグチグチ嫌味を言うだろう。いやもしかすると、結子も家では言っているのかもしれない。傍から見たら順風満帆な家庭でも、何かしらの事情を抱えてるものなのだと、渡部夫婦を見て思い知った。これまで私が羨ましがってきた家庭たちも、実はそれぞれに問題を抱えて成り立っていたのかもしれない、そう思うと麻子はホッと安心したくなるような、それでいて世界が一段と暗くなるような虚しさに襲われた。
 問題のない家庭はないだなんて、なんて辛い世の中なのだろう。麻子は時おり、強気な母に護られ、悩むことなく母の言うことだけを聞いていればよかった、幼き頃のあのぬくぬくとした日々に戻りたいと願うことがある。何も思い悩むことのない、全てが理想的な家庭がきっとどこかにあるはずと、そう思い込んでいたかった。
 結局、麻子は渡部を理想化していたに過ぎなかったのだ。


うさぎのマグカップ


 現実は夢を夢のままに凍結することなく、刻一刻とその色を変える。
 バーベキューの季節も終わり、羽織物なしでは外に出られないくらいの寒さになるころ、渡部から直々に、麻子さんも一緒に働きませんかという提案があった。
「麻子さんも調理スタッフにならんかってね、渡部さんが言いよるわ」
 四十年前の約束の件など知らぬ仕事帰りの夫が、嬉々として麻子に告げた。まさか、この人は私と一緒に働きたいのだろうか。長らく専業主婦で、仕事などかれこれ長い間していない麻子は、当然のように申し出を断った。
「人手が少ないらしい。渡部さん、調理場のリーダーやから困っとるんやて」
「私なんか、足手まといになるだけやけん」
「渡部さんは麻子さんのこと、即戦力や言うてた。バーベキューのときも、周りがよう見えてて、良い奥さんもらいましたねって……言われたんですよ」
 喜んでいるのか誂っているのか、はたまた麻子の反応を見ているのか、夫の胸中は測れない。
 ただ麻子は渡部の言葉が嬉しくて、反射的に頬を上気させた。こんなふうに人から褒められるなんて、何年ぶりだろう。ここ最近は香菜のこともあって、母として妻として落ち込むことのほうが多い。それを”良い奥さん”だなんて、やっぱり渡部くんは侮れない。
 そんな、相変わらずの優男っぷりについつい絆されそうになるものの、だからといって夫と渡部くんと同じ職場で働く気が起きるわけではなかった。むしろ「良い奥さん」だと思われているのだとすれば、一緒に働いて失望されるより、良いイメージのままでいたい。そんな過剰な自意識すら存在した。
「修さんかて、私と一緒に働きたくなかろ」
 コーヒーを入れたマグを手にしながら、夫は文鳥のように目を瞑っていた。そういえば、いつの間にやら夫はコーヒーを自分で淹れるようになっている。
 また返事はなしか、と思っていたら、文鳥のまま夫は「いや、麻子さんの働いてるとこ、僕は見てみたいよ」と言った。
「まあ考えてみてくださいな」
 疲れていたのか、そのまま文鳥は眠ってしまった。

 香菜が、「一緒に買い物に行こう」と麻子を誘ったのはその週末のことだった。香菜がこんなふうに麻子を誘うときはたいてい何か言いたいことがあるときなので、麻子は、今度は何を言われるのだろうと多少なりともげんなりしながら娘を車に乗せた。
 大事な話、というのは今も昔も苦手だ。人生に転換点なんてなくて良い。平穏で楽しいだけの毎日が続いていくのが良い。
 車を出して五分ほどが過ぎ、麻子の好きなユーミンの歌が一曲終わったころで、案の定、香菜が話を切り出した。
「香菜な、来年家出るわ」
「えっ……もうお金たまったん?」
 麻子の返事に一瞬首をかしげた後、ああお父さんに聞いたんね、と香菜はすぐに納得した。
「うん、溜まった」
「どうするんよ、そのお金」
 変な男に騙されてやしないか、変な宗教にハマってはいないか、博打のような話に乗っかったりしていないか。麻子の不安は尽きない。そして、例えそうなったところで、成人済みの娘を止める手段はきっともう自分にはない、という事実が更に麻子を不安にさせた。
「恋人に貢いでくるわ」
 香菜が口の端に笑みを浮かべる。ふざけている時の香菜の顔だが、それでも麻子の胸は一気にざわつく。うそ、だれ? 恋人って、と動揺する母を楽しそうに眺めながら、香菜は麻子に問うた。
「なにそれ、喜んでんの? 失望してんの? どっちの顔?」
「どっちって、心配しとる顔よ」
「これが、ちゃんとした家柄の公務員の男とかやったら、お母さん、喜ぶんやろ」
 そうよ、の顔で「さあ」と麻子は応える。
「パチンコが好きでアルバイトを転々としてるような男やったら、お母さん怒るんやろ」
 そうよ、の顔で「さあ」と麻子。
 ふう、と香菜はため息を一つついて、「安心し。男じゃないから」と言った。
「恐竜に貢いでくるわ」
「きょうりゅう?」
 いきなり出てくる単語に頭が追いつかず、麻子は目を白黒させる。ちょうどショッピングモールの駐車場についたので、車を停めてエンジンを切った。急に静かになった車内は、気温も一気に下がったような気がする。
「福井大のな、恐竜研究室で恐竜の研究してくるけん」
「してくるって……そんなん、入りたい言うて入れんの、研究室って」
 とぼけた母の顔を見ながら、そんなわけないやんと香菜が笑う。
「こないだ試験受けてきてん。ほら、友だちんち泊まるって言うた日。あの日、ほんまは福井行っとったんよ」
 うそぉ、と言いながら、麻子はやっぱりそうだったかと内心思った。母親の勘は当たる。嘘のような気はしていたけれど、気づかないふりをしていただけだった。
「なんで隠しとったん」
「それはまあ、受かるかどうかわからんかったし」
「じゃあもう、合格しとるいうこと?」
「そやね」
 すべてが事後報告。長女の香菜は親に相談するということを知らなかった。些細なことで動揺し思い悩む麻子に、子どもなりに負担をかけまいと思ってきたのだろう。あるいは、説得する価値もないと思われているだけかもしれない。申し訳ない気持ちと、罪悪感と、苛立ちとが、胸の中で複雑に絡み合った。
「東京の大学やなくて良かったん」
 あんなに恨みがましく私に、行きたかったのにって言ってたやない。声にならない麻子の声が、湿った車内に煙のように充満する。
「むかしは、漠然と考古学がやりたいと思とったんよ。でも実家で、自分の昔の写真とか見返してな、やっぱり香菜は恐竜が一番好きなんやって、再確認したんよ」
 もちろん、東京は生活費が高すぎるっていうのもあるんやけど、と香菜が言い添える。
「……そう」
 なんと言って良いやらわからず、ごそごそと麻子は車を降りた。少なくとも婚期は遅れそうだ、という考えが真っ先に頭をよぎった自分が恨めしい。いくら娘に結婚してほしいからといって、娘の合格を喜ばない親にはなりたくない。呼吸を整えて、車を降りた香菜に「合格おめでとう」と声を掛けた。
「お母さん、寂しくなるわ」
 それは事実だった。娘が遠くに行ってしまったら、本当に育児が終わったのだと思い知るだろう。それが骨身に染みる寂しさだろうことは、想像なんてしなくても分かることだった。
”私を許さないで 憎んでも 覚えてて”
 ユーミンは男女の恋を歌ったのかもしれないが、それは母子関係にもあてはまることなのだろう。本当に私のもとから旅立って母親のことなど忘れてしまうくらいなら、ずっと憎まれ口を叩いていてほしい。そんな身勝手な親のエゴが顔を出すほどに、麻子にとって子離れは辛いものだった。
「お母さんも、なんか新しいことやりよ。やることないから寂しくなるんよ」
「そんな急に、なんかって言われてもね」
 ずっと、家事育児を生きがいにしてきたのだ。それ以外に何かを見つけろと言われても難しい。育児ほど充実したライフワークなんか、そうそうないだろう。
 香菜が静かに、息を吐くように滑らかに母に問うた。
「香菜が結婚でもしてな、子どもでも産んだら、お母さんはまたそれが生きがいになるんやろ」
 それはそう。考える余地なく、麻子は首を縦に振る。
 息子夫婦の子どもも可愛い孫には違いないが、娘が産んだ孫となるとまたそれは大層可愛いに違いない。
 皆そうしてきたものだ。私の母も、姑も。孫を可愛がるのが老後の一番の楽しみで、それは悪いことではないはずだ。
「お母さんの期待してることは分かっとる。昔から分かっとるんよ。遠慮して東京の大学行くの諦めたんも、お母さんの思とることが分かってたからそうしたんやけん」
 ぐさっと胸に、何かが刺さる。第一子ということもあってか、香菜は昔から親の期待に応える子どもだった。優等生で、自慢の娘だった。
「けどそうやって期待どおりにしとったら、あれは自分の選択やなかった、自分の人生やなかった、てな、後悔することに気づいたんよ」
 ようやっと、と自嘲気味に笑う香菜の声はかすかに震えている。
「やから、香菜は結婚したないし、結婚せんことに決めたけん。ついでに、お母さんに孫を抱かせてやれんで申し訳ないと思うこともな……やめることにした」
 香菜がズズっと鼻をすすった。前を向いて話す彼女が今どんな顔をしているのか、横からは髪に隠れてしまってよく見えない。
「香菜は……自分の人生を後悔しとるん」
「ところどころ。けど、終わったことをいつまでも後悔したって仕方なかろ。やけん、これからは期待に応える人生やなくて、自分の選んだ人生を作っていかないけんと思たわけ」
「それで、恐竜にいきついたん」
 そう、という香菜の返事を聞いて、麻子は黙り込んだ。
期待に応えさせしまったことは申し訳ない。のびのび育ててあげたいと思っていたはずなのに、いつの間にか窮屈な思いをさせてしまっていたなんて、どう償ってあげれば良いのか分からない。そんな気持ちがある一方で、しかし期待に応える人生ってそんなに悪いものだろうか、と自分の人生を振り返ってみて思う自分もいた。親の期待に沿えることは誇らしく、自分に自信を持てる基盤でもあったような気がする麻子としては、「後悔してる」という香菜の感覚が分かるような分からないような、なんとも言えない気分であった。
 親の期待に沿うたのは麻子自身で、麻子は自分の選択で親の期待に沿うたのだ。香菜は、そうではなかったということだろうか。
「香菜は、昔っから敏感な子やったけど」
 麻子はゆっくり、考えながら言葉を紡ぐ。真面目な話は嫌いだ。特にこんな、自分の行いを反省しなくてはならないような真面目な話は。しかし麻子は分かっていた。この機を逃したら、今後ずっと、いやもしかすると一生、香菜とこうして腹を割って話すことはないかもしれない。だから麻子は、一生懸命考えた。
「香菜の人生は香菜の人生やけん。お母さんの期待なんて放っといてええんよ」
 いつもなら、ハイハイ私が悪いんですねと拗ねる麻子も、今日ばかりは良いお母さんであろうとしていた。香菜の鼻水の音が大きくなる。
「あんね、お母さんに孫を抱かせてあげたいって気持ちはね、本物やったけん。でも、ごめん」
 娘にそう言われて、麻子の鼻の奥もツンと痛くなる。私とは違うのだ。麻子は痛感した。親の期待に沿うことに何の疑問も持たなかった私と違い、香菜は大いに葛藤してきた。絞り出すような娘の一言を聞いて、麻子は喉の奥にこみ上げてくるものを抑えることが出来なかった。

 二人しておいおい泣きながらショッピングモールを歩いていたので、行き交う人にはたいそう不審な目で見られた。どちらともなく入ったオムライス屋さんで、注文した料理が出てくるまで二人は鼻をすすりながら無言だった。
 私が期待していると、香菜は気にしてしまう。私が寂しそうにしていると、香菜が気にしてしまう。麻子は悩みながらも、ある決断をした。
「そしたら、ていうわけでもないんやけど。お母さん、仕事始めてみよかと思うけん」
 驚く香菜に、先日の渡部くんからのスカウトの件を説明する。へえ良いやん、と嬉しそうにする香菜を見て、少なくとも子育てにおいてはこれが正解なのだろう、と麻子は思った。子どもがいなくても大丈夫な母親。そう思わせないと、香菜は後ろ髪を引かれてしまう。香菜が思う存分恐竜に集中できるように。私も新しいことを始めてみよう。
 怖いけれど。

 オムライスを食べ終えて、再びショッピングモールをぶらついていると雑貨屋が目に止まった。吸い寄せられるように麻子がその店に入っていき、香菜がその後に続く。
「見て、これ」
 吸い寄せられた麻子の手元には、ペアのマグカップが置かれていた。うさぎの絵が描かれている。
「これ、かわいない?」
 うさぎはウインクをし、顔の周りには大量のハートが飛び交っている。相変わらずのぶりっ子趣味やな、と香菜が笑った。「何がいかんのよ。今のやつはもうボロボロやし、新しいの買おかなぁ」と言いながら、麻子はあることを思い出した。
「そうよ。あのクマのマグも、大昔にお父さんと買うたとき、そうとう可愛かったんよ。ほっぺが赤くて、こないして顔の周りにハートがいっぱい飛んでてね。それをお父さんがえらい恥ずかしがって、あれでコーヒー飲むたんびに、顔のところを擦りよって。やけん、あんな顔のとこだけ剥げてしもたんよ。そうそう。いま思い出したわ」
「ほなまた、このうさぎも顔のところが剥げるんやない」
 そやろか? そやろ、と二人が笑う。
「その頃にはもう、よぼよぼのお婆ちゃんかもしらんよ」
 マグを購入しながら麻子は、どうやって夫に仕事を始めると伝えようかと考えていた。
『新人です。どうぞよろしくお願いいたします』
 そう言えば夫は、気まずそうに笑うだろうか。それとも、誇らしげに私を「新人君」と呼ぶのだろうか。
 ショッピングモールを出るともう夕方で、冷たい風に撫でられた麻子の頬はピンクに上気していた。

(了)


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!