Episode Gianni&Ines

 平日だがイネスが家にいる。別にジャンニが体調不良なわけではない。
 今週末は学校でテストがあるらしく、それに向けた勉強をするために帰って来ているのである。
 成績が悪いわけではないのに、他の生徒より勉強を始めたのが遅かったのがコンプレックスのようで、テストがあるというと欠席してまで勉強をするのだ。

 帰って来るにあたってはここぞとばかりにジャンニのことを利用しているので、知り合いに会う訳にはいかない。外出をしなくて済むようにカウンセリング予約は入れず、必要な買い物は昨日までに全て済ませ、仕事を持って帰って一歩も外に出ない体勢を整えている。そういうことをしながらも、サボりに全面協力しているのは保護者としてどうなのかという複雑な思いはある。

 机がダイニングテーブルしかないため、そこでイネスは勉強している。今のジャンニの仕事はなるべく自分の存在を消すことだ。ということで、ポットに入れたコーヒーとクッキー1箱と共に、永久に寝室にこもっている。
 持って帰ったカウンセリング資料に目を通していると、次の予約は金曜日の10時16分とあり、15分であっても十分中途半端なのに、何故そこに1分プラスされているのか本当に疑問で気になって仕方ない。職場に行って確かめたい気持ちでいっぱいなのだがもう諦めるしかないだろう。金曜日に少し早めに出勤して確認しようと思う。

 やらなければならない仕事が大体終わると、カーテンのない出窓の外が真っ暗になっていた。枕元に置いた腕時計を見るともう10時だ。寝た方が良いんじゃないかと居間を覗くと、教科書とノートを開いたまま眠ってしまっているイネスがいた。
 柔らかそうな薔薇色の頬と微かに開いた唇を見ていると、それだけで癒されふっと口元が緩む。ベッドルームに連れて行くためにそっと抱き上げ、だいぶ重くなったなとびっくりした。最初にここに来た時の流れでシングルベッドに未だ一緒に寝ているが、そろそろ新しいベッドを購入しなければならないだろう。その内、部屋数が多い家に引っ越さなくてはならないかもしれない。

 この子とこうして一緒にいて具体的な未来を描けることが、なんとも不思議だ。
 近々死ぬわけでもないがおそらく長生きもしないだろう。けれど、この子がまた1人きりになるかと思うと死んでも死にきれない気がする。イネスが新しい家族を作るまでは何とか見届けられないだろうか。

 ジャンニは今、人生で初めて、命が惜しいと思っている。


 差し込む朝日に目を覚まされたイネスは、天井を見つめながら、まだ回り切っていない頭で考えた。
 あれ、ここどこだっけ。
学校の部屋じゃない。けれど良く見知っている天井だ。
 目の端にちらっとサンドバッグが映る。
 そうか、テスト勉強で帰って来てたんだ。
思った瞬間、飛び起きた。
 ジャンニがいない。
 いつもなら先に起きていても隣で何かしながら待っているはずのジャンニがいない。
 慌てて寝室から居間に出ると、ダイニングテーブルでうつ伏せて眠っている。ホッとすると同時に腹が立ち、叩き起こしながら怒鳴ってしまった。
「こんなところで寝て!風邪でもひいたらどうするのよ!」
 そんなに怒ることでもないのは自分でも良くわかっている。ベッドに1人寝かせてくれていたことも優しさだと理解できる。けれどもいるはずの所にいないと、どうしても不安でたまらなくなってしまうのだ。

 イネスはジャンニの具合が悪くなっていくとどうなるか、何回も見て本人より良く知っている。 
 最初は、いつもと同じ距離を歩いているのに途中で休んだり、水を飲むのが息苦しそうになる。次に食事が入らなくなり、水の一口でも戻すようになる。最後にはうまく呼吸ができなくなって起きられなくなり、イネスの知らない母国語でうわ言を言ったりしだす。
 それがもう、今までこんなに具合が悪そうな人を見たことがないというくらい苦しそうで見ていられず、半分でも良いから私が変わってあげたいと、いつもいつも思うのだ。

 だからそうならないように、イネスはものすごく注意してジャンニを見る。一番良くわかるのは食事だから、何をどう食べて行っているかを観察する。すると大体の体調がわかり、極みの過剰使用にも、微熱があるくらいで気づくことができる。
 何もなければハズキ隊長からも連絡はないのだが、薬の効果が切れる週末が一番心配で、本当は毎週家にいたいくらいだ。だが学校行事などもあってそうもいかないので、1日に何度も診察結果を聞いてしまう。

 机でうたた寝をしていただけにしてはひどく怒られたジャンニは案の定、何が起こったか分からないような顔でこちらを見ていた。だが、不意に吹き出すように笑い出す。
「怒ってるの?泣いてるの?」
そう聞いてから、頭を撫でて言った。
「ごめん。イネスは心配が怒りになるからなあ」


 イネスが養子になることを、ジャンニは実は3回断っている。
1回目は、イネスが目指している中学校の母体である、修道院からの申し出だった。家族がいなくなった後、女子修道院預かりである期間がしばらくあった。体調も良くなかったし、スラム街の中という立地は女の子には危険だと思ったからだ。
 だがイネスは1日に何度もジャンニの様子を確かめに来る。それは逆に危険ではないかという話になり、もうあなたと一緒に暮らしてはどうですか、それなら養子にしてはどうですかという話になったのだ。けれど自分の状況も状況であり、程なくまた1人にしてしまうはずなので丁重にお断りした。
 2回目は、イネス自身がサラッと話して来た。将来は医療に関する仕事に就きたい。そのために修道院の学校に行きたい。入学条件が聖職者の子どもであることなので、あなたの子どもになればちょうどいいんじゃないかと。
 親が聖職者でありさえすればいいのなら知り合いにいくらでもいた。中には里親として複数人を養子にしている者もいるから、その人に頼もうと答えた。イネスは何となく納得していない様子で曖昧な返答をした。
 3回目も2回目と同じ理由を言い、やっぱり知らない人は嫌だ、なんであなたではいけないのかと聞いてきた。なので、自分の状況を説明し、だから責任が持てないと、本当に大人に話すように伝えた。その時は納得したようで、しばらくその話はしなかった。

 だが4回目があった。
その時はもはや自分の荷物をまとめて持って来ており、テコでも帰らない決心が見て取れた。だがジャンニには、なぜこの子がここまで自分にこだわるのかがわからず、ただ子どもっぽいわがままだと思った。
「いい加減にしないか。どうして分からない。私は君を守ることができないし、責任を持つことができない。すぐに荷物を持って修道院に帰りなさい」
強い口調で厳しめに言ったその言葉に、しかしイネスは怯まなかった。
背負っていた荷物を乱暴に床に置き小さい体いっぱいに胸を張り、ジャンニに言った。
「あなたこそどうして分からないの。子どもだからって馬鹿にしないで。私は全部できるのよ。自分もあなたも守れるし、自分が選んだことに責任を持てる」
 反論の言葉が見つからなかった。
しかもイネスがギュッと握っている拳は僅かに震えているのだ。
 これはもう、完敗だ。
 自分とこの9歳の少女との、相手に向かい合う覚悟の違いを思い知った。
 そして次の日に修道院に伝え、ジャンニは初めて家族というものを持つことになった。


 あの時私はまだ子どもだったけど、子どもなりに自分の全部をかけてたわ、と11歳になったイネスは思う。
 イネスだって、断られる度に、ちゃんとたくさん考えて来たのだ。
 聖職者の子女であればいいのなら確かにジャンニの言う通りだなとも思ったし、何ならこの修道院のシスターでも良いのだとも思った。けれどどうしても気が進まなくて何でだろうと考えた時、自分の中のモヤっとした気持ちの正体に気づいた。

 私は、それを、ジャンニを捨てることのように思っているのだ。

 そんな気がなくたって、今まで持っていたものが全部なくなることもある。だったら私は、今持っているものくらいは捨てないように頑張らなくてはいけない。

「終わったー…!」
テスト範囲の全てを、これ以上することはないというくらいまで仕上げたイネスは伸びをした。テキストとノートを閉じて重ね脇に寄せると机に顎を置く。
 それだけでもトロトロと眠気が襲い、寝てしまいそうだ。
昨日もこれで失敗しているので、意を決して寝室に向かった。

 寝室ではベッドヘッドの電気だけをつけたジャンニが布団で本を読んでいた。ドアにイネスの姿を見つけると窓側に寄り、入る場所を作りながら聞いてくる。
「お疲れ様。勉強できた?」
「…んー。多分、大丈夫…」
背中を向ける形でそこに寝転がると布団をかけられる。ジャンニがいつもカウンセリングルームで使っている、アロマオイルの香りがふわっと漂った。
 この香りがすると、イネスはいつも急激に眠くなってしまう。

 パチンと電気が切られ、部屋が徐々に暗くなる。
 あの時の私、本当に良くやったわ
そんなイネスの思いを温かく溶かしながら。


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