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もみさんぽ 義経の鳥居 香川県観音寺市

2024/1/14

てくてくもみさんぽです
琴弾山から(香川県観音寺市八幡町)
観音寺市街を眺める
柴犬もみじ(雌5歳)

琴弾山の山頂にある琴弾八幡宮本殿を目指して石段を登る途中、古びた木の鳥居が大切に保存されている。源義経が源平屋島の合戦の戦勝のしるしとして側近が奉納したとされています。この地を舞台に源平の戦いのドラマが繰り広げられた事はあまり知られていない。そして平家ゆかりの場所が大野原町に平清盛の孫の有盛が隠れ住んだ有木の平家落人伝説もあります。

義経の鳥居
木乃鳥居
古来八幡信仰の篤い源氏方は元暦二年(1185)義経が屋島合戦に勝利し
更に平家追討の成功を祈願して当社に神馬「望月」とこの木乃鳥居を奉納した。
(神恵院蔵「弘化録」)

       源平屋島合戦の由来
 源平屋島合戦は「吾妻鏡」によると寿永四年(一一八五年)二月十九日から三日間の戦いだったとされている。ここ琴弾山がこの合戦で源氏の勝利にゆかりの地であることを知る人は少ない。
 屋島での戦いは源氏が優勢のうちに進められていた。平家水軍の総大将、能登守教経は、起死回生の作戦として伊予大洲城主、田口佐衛門教能が伊予路の源氏勢を平定したあと一千駒をひき連れての到着を待って、屋島沖から手勢を加えて一挙に源氏勢をはさみ討ちにすることを考えていた。
 この作戦は順調に進んだかに見えたが、知将義経は夢の中に見た教経の幻影からこの作戦を見破っていた。
 屋島の源氏勢二百五十騎にとって敵一千騎の援軍では勝ちめのないことを知った義経は、腹心伊勢三郎義盛に命じ、田口勢が屋島に到着する前に説得によって食い止めることをはかった。
 源氏興亡を双肩にした義盛は、手勢十六騎とともに、万一のときは討ち死を覚悟でよろいの下に白装束を着込んで浜辺伝いに西にとんだ。
 義盛が田口勢と出あったのがこの琴弾山だった。二十騎足らずの敵に気をゆるした大将田口佐衛門教能は、義盛の申し入れに応じ、太刀をはずして十王堂の一隅で相対した。義盛の言葉は、屋島の合戦が源氏に勝運がほほえみ平家方の多くは討ち死にするか捕われの身となったこと。そのなかで教能の父阿部民部重能も武運を察して降参したということだった。
 義盛の命がけの熱弁にまどわされた教能は「父捕わる」に心は大きく動揺した。「一門ことごとく打ち破られてはこのうえ戦っても無益なこと、屋島の戦いに間に合わなかったのが武運のつき・・・」と田口一千騎はこの地で源氏の軍門に降った。
 まもなく敗れた平家の残党は屋島から海路、新三位中納言知盛の待つ長門彦島(下関市)に向って落ちて行った。ときに二十一日の夕暮れだったという。
 琴弾八幡宮にいまも残っている「木の鳥居」は、屋島戦勝のしるしとしてその後源氏の側近が義経に代って奉納したとも伝えられる。
                              観音寺市

観音寺市 説明板


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