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もみさんぽ 銭形砂絵 香川県観音寺市

2024/1/14

てくてくもみさんぽです
銭形砂絵(香川県観音寺市有明町)
琴弾山頂の象ヶ鼻岩にお座りしている
柴犬もみじ(雌5歳)です

休日の午後、観音寺市のシンボルである銭形砂絵を訪れる人々が増えています。地元の方々も県外からのお客さんに案内するほど、人気のスポットです。訪れる人たちは砂絵を背景に写真を撮ったり、昔のドラマやナスカの地上絵を連想したりしています。一方、ここへ来る道中には注意が必要で、車で登ることはできますが下りは一方通行でカーブが急です。最近は天空の鳥居のシャトルバスの停留所があるので、徒歩で登る人も増えています。ただし山頂には売店はなく、記念品も販売されていません。そのため、砂絵を見て写真を撮るだけでなく、近くの琴弾八幡宮にも訪れると良いでしょう。観光客で賑わう銭形砂絵は、休日に訪れる価値があります。

銭形のいわれ
寛永十年(一六三三年)時の将軍家光公から
讃岐巡遣使を派遣するとの知らせを受けて
丸亀藩主生駒高俊公が領内巡視の際このことを
聞いた地元の古老たちがなにか領主歓迎のためにと
有明浜に銭形の砂絵を一夜のうちに作りあげたと伝えられています
この山頂から眺めると円く見えますが
実際には東西一ニニメートル南北九〇メートルの植円形となっています
以来砂上の一大芸術として長く保存されています
この銭形を見た人は健康で長生きできて
金に不自由しなくなるといわれています
観音寺市

観音寺市 説明板
銭形砂絵(寛永通寶)

名勝琴弾公園
琴弾山とその西側有明浜一帯が公園区域で、
園内平地部の砂浜は白砂青松の松原が発達し、
松原の中程には 東西122m、南北90m、周囲345mの砂絵銭形(寛永通寶)が描かれています。
  明治30年   県立公園として開設
  昭和11年 名勝指定 面積約38.7ha
  昭和31年   国立公園に編入指定
観音寺市教育委員会

観音寺市教育委員会 説明板
銭形砂絵 説明板
歌碑
遠山雪 (とうやまのゆき)
ひうちなだ波路の末の雲はれて
いよの高根に雪ふれるみゆ
堀野林治
詩碑
白帆露(はくはんろ)の如く滄溟(そうめい)に入る
水いよいよ碧(みどり)に松いよいよ青し
通宝千年客拾うなく沙浜歴々銭形を見る
琴弾山上にて銭形を望む
藍川 吟納
史跡 弓張月

「弓 張 月」 い わ れ
 江戸時代の読本作家、滝沢馬琴の書いた「椿説弓張月」のなかに源為朝の妻白縫が観音寺、琴弾の宮で夫の仇討ちをしたという話があります。
 為朝が京の戦いで敗れたとき、鎮西太宰府の舘(やかた)を守っていた白縫は召し使い八人とともに讃岐観音寺、琴弾の宮に落ち、神仏に夫の無事を祈っていました。
 一方京では、敗れ傷ついた為朝は家来の武藤太の家に身をひそめました。その時武藤太は「為朝を捕えた者には過分のほうびをとらす」という敵方のおふれに目がくらんで密告したため為朝は捕われて八丈島に流されました。
 主君を敵方に売った武藤太は“痴(し)れ者”として非難され居たたまらなくなって手下二人と西国に落ちました。
 流れついたのが讃岐の国室本の港(観音寺市室本町)でした。港にあがった武藤太は武運に縁の深い琴弾の宮の近いのを知って参拝しました。祈る言葉は悪人らしく、為朝密告の恩賞の少なかったうらみごとだったのです。白縫は拝殿に祈る男の言葉からその男が夫の仇と知ったのです。
「これこそ神の導き」と白縫は、ある月の夜酒宴と美女の琴で武藤太を誘い出し、みごと夫の仇を討ったのです。
いまも観音寺市琴弾八幡宮の境内には、この仇討ちを伝える史跡が保存され観光客が絶えません。

史跡 弓張月 伝記板 

柴犬もみじ🐕
観音寺市街をお散歩しています

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