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はじめて「旅」を知ったのは、20ヶ国を旅したあとだった

「旅」というには不思議な瞬間だった。

その頃、私は車で生活をしていた。働きすぎた反動なのかとつぜん仕事をやめ、家を解約し、車を買って北へ向かった。これから暑くなるだろうという6月。だったら涼しいところへ行こうと、東京から新潟へ、そして船で北海道へ渡ったのだ。

車生活を選んだ理由は、ヒマだったから。自由な時間があるなら行きたいところに行こう、家が動けば便利じゃん。という単純な理由だった。『ハウルの動く城』じゃーん!みたいな軽い気持ちで、なんの現実感もなく車中泊の日々がはじまった。
どこかただよう浮遊感と、夢見たいなぼーっとした感じ。そのままわたしは、北海道を一ヶ月半かけてまわり、南へ、南へと、ゆっくりと降りていった。

『運転は一日5時間まで』
『高速は使わず下道のみ』

それだけのルールを自分に課して、新しい町へ寄ってはその土地のものを食べ、銭湯に入り、車で寝る。田舎の銭湯では、おばあちゃんたちが「みかんいるか?」「うちの庭でとれた野菜だ」と、たくさんおすそわけをくれる。そんなふうにすこしだけ地元の人と出会いながら、時には知らない人のお宅に泊めていただきながら、毎日を過ごしていた。

 

ある時。

もう場所は覚えていない、どこか東北の小さな町のそばにある山中だった。午後の明るい時間、車どおりのほぼない寂しい山の道路に、車を泊めて休憩をしていた。
車を降りて少し歩けば、小ぶりの町並みが見下ろせるような場所。わたしはふと思い立って、ハサミを手にとって外に出た。

とくに深いことを考えていたわけではない。ただ「うざったいな」という気持ちで、ちかくの林にわけいった。小さな頃から使っている、握り手がくすんだ赤色の、お気に入りの大人用のハサミ。その時の自分の服装が、黒のTシャツに日焼けしたズボンにサンダルという、やけにラフな格好だったのを覚えている。

草を踏み分けて進み、町も見えず、人の気配もなく、かろうじて目の端に車のおしりが見えるくらい奥まで林を歩いて、立ち止まった。

そして、髪を切った。

すでに短いショートボブだったので、切るたびに髪の毛は、風に吹かれて散らばっていった。土に、葉の上に、木の幹に、その向こうのどこかに。

髪の毛はタンパク質だから腐るのに時間がかかるし、町まで飛んで行ったら迷惑かなぁ、なんて思った。思ったけど、わたしはザクザクと鏡も見ずに髪の毛を切った。髪の毛は風にからめとられてどんどん散り散りに飛んでいく。

その時、「……旅だ」、と思った。

 

すでにそれまでに、20ヶ国以上に足を踏み入れたことはあった。アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパ、北欧、アメリカ大陸、南米……いろいろな場所に行って、いろいろな人に会って、知らない土地のものを食べ、空気を吸った。それでもなぜか「旅をしている」という実感はなく、テレビやネットや教科書で見たことのある風景が目の前にあって、圧倒されたり、ぼんやり見つめたりしていた。ちょっと気が向けば世界のどこからでも家族や友達と連絡がとれて、どこにいても慣れた誰かが近くにいるような気がした。なんとなく繋がっている感覚。そんな、ふわふわと現実感のない日々を過ごしていた。

それなのに、なんとなく腑に落ちていなかった『旅』が、はじめてしっくりときた。誰もいない、林のなかで土の匂いに囲まれ、柔らかい土をサンダルごしに足の裏で感じて、風が葉を揺らす音を聞きながら。独りきりで、髪を切るという生活のいとなみをしてみて、はじめて「旅」という言葉が降りてきた。

わたしが旅をしているのか、髪の毛が旅をしに行くのかはわからない。けれども、誰もいない場所で、『わたし』という存在からどこか知らないところにとんでいく『わたしの一部』を見て、「旅だ」と思ったのだ。

そうか、一人になったからかもしれない……。一人になって誰かと繋がりが途切れたから、そう感じたのかもしれない。

そうしてみるまでわからなかった自分はちょっとまぬけで笑えたけれど、「旅」という実感は、なんだかとてもありがたかった。

 

それから、親に電話をした。

車生活をしていることは親に内緒だったので(今でも言っていない)、こちらから連絡をするのは極力さけていた。下手に口をすべらせて「アンタどこにいるの!?」なんて詰められても困る。
でもその時は高知の実家にいる母に電話をして、とくにとりとめのない「げんき?そっちは晴れ?」みたいな会話をした。

東北のどこかの山中から、あっけらかんと空の広い高知へ。

電波にのった声だけで家族と繋がりながら、もはや「旅」のことは忘れていた。世界は近かった。通信機器さえあれば誰とでも繋がれるし、時間とお金とやる気さえあればどこにでもいける(だから世界中に出かけてきたのだ)。

そういえば、旅を仕事にする人に言われたことがある。

「旅って、どこに行くかじゃない。誰と出会うかだよ」

ほんとうに、そうだ。
どこにいても、世界は近い。誰かといると、世界はすぐそこだ。でも、独りきりならそこは、切り離されたどこか。林のなかでわたしは独り、風と、木と、土と、地球という大きな存在のことしか感じてなかった。誰かと出会うことが旅なら、誰とも出会わないことも旅だ。「誰か」という存在を意識して初めて、わたしは「旅」を意識した。

 

いまや、仕事でさまざまな場所にいく日々だ。どこの国に行っても、それは「旅」というよりも「移動」で、なにか特別な、夢みたいな感情はない。世界は近くて、広いけど触れる場所にある。

ただ時々、あの林のなかを思い出す。

日本の東北のどこか小さな町の近くの小さな山のなか。そこに「旅」があったことを。

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