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痛ましい事件について、わたしたちはどう発言したらいいのか

たくさんの人が傷ついた。
川崎登戸殺傷事件。速報を見て、なんてことが起こったんだと愕然とした。

SNSには戸惑いの声が溢れていた。

事件を嘆く声、自殺した犯人を責める声、それに対して誰かが怒り、またそれに別の人が怒っていた。不安と怒りが「犯人死亡」ということでやり場をなくして飛び交い、どんどん大きくなっているように見えた。

それについて私は思わず、以下のツイートをした。

不安だった。
負の感情は連鎖して大きくなる。その『マイナスの集合体』のようなものが怖かった。
いろんなところで呟かれ続ける発言たちの暗さ、重さ、苦しさはどこまで膨れ上がるんだろう……その気持ちは、震災直後にSNSを見たときにも似ていた。

そして、とくに不安が強くなったのは、この記事が出たあとだ。

『「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』という主旨とタイトルでYahoo!トップに掲載され、書いた「#藤田孝典」さんの名前がツイッターのトレンド入りをした。

この記事については、賛成意見にも反対意見にも「ああ、わかる……」と思うものもあれば、「ちょっとズレているのでは」と思うものもあった。主張の内容以前に「そもそもそんな乱暴な言い方をしなくても」と読んでいて黒い気持ちが湧き起こるものもある。

なかには「遺族がこれを読んだら傷つくのでは!?」と言う人もいる。しかし、その人はおそらく遺族ではない。遺族の方の気持ちを慮ることはできても、代弁することはできない。遺族の方によっても考え方は違うだろう。正解はわからないままだ。

ただ、遺族でなくても、だれもがこの事件の被害者だ。ニュースを見た人、聞いた人……たくさんの人が傷ついた。そのすべてがこの事件の被害者だ。

きっと、

優しい人や共感能力の高い人ほど、不安になるだろう……。過去に突然防ぎようのない辛い経験をした人は、苦しくなるだろう……。傷ついてしまったら、自力で回復なんてできなくて、ニュースを見るたびにつらい思いを大きくするのだろう。

わたしたちには悲しみと不安を和らげるためのケアが必要だ。そんな状態だということもあって、傷ついた気持ちに後押しされ、ネットで不安や悲しみや罵りの発言をしてしまう。しかし、誰が何を言っていいのか、言わない方がいいのか……。その判断は難しいけれど、ただ、苦しい心のケアの方法として、強いマイナスの気持ちをSNSで発信することは逆効果だと思う。

自信がないことも口にしたら本当のような気がしてくる。「嫌だ」「苦しい」「最低」……言葉にして出してしまうと、その感覚がいつの間にか強くなって膨らんでくることがある。

それだけではない。誰かの酷い言葉を耳(目)にしたら、それは棘になってジクジクと刺し続けてくる。

もしかしたらこのツイートだって、誰かの不安を大きくさせる要素があるかもしれない。そうだとしたら申し訳ない。

ただ、深く傷ついてそこから抜け出せなくなってしまった繊細な人たちにこそ、顔の見えないネットの海に言葉の石を投げるのでなく、誰か姿の見える相手に向かってボールを投げてほしい。たとえ返ってこなくても、受け取ってもらえたならその姿を確認できる。それだけでも安心できるから。
 

 

たぶんこれからこの事件のニュースによって、もっと複雑な不安や怒りが増えていくと思う。

すでに被害生徒たちの通う学校が会見を開いた。この会見にも賛否両論ある。また、今後は犯人についての情報が明らかになり、連日ニュースやワイドショーでいろんな分析が放送されるだろう。被害者や加害者の知人が取材され、加害者遺族(今回の場合この表現でいいんだろうか……)への取材やバッシングが加熱するかもしれない(私個人は、基本的には、被害者の直接の関係者以外が加害者遺族を強く批判することには反対だ。ただ、現状だと背景がわからさすぎるので一概には言えないけれど……)。

そんな時に、ネットでの怒りの発信の仕方に気をつけること。そして誰かと直接(電話でもいい)時間と思いを共有すること。
それが、自分自身をマイナスの感情から守るひとつの方法だと思う。とくにネットは怒りが増幅し、一人歩きしやすい場所だから。

ネットに投稿する前に、少しだけこんなことを気にしてみてほしい。
「その言葉遣いが悪意を増幅させる手助けにならないか読み返してみる」「最後の投稿ボタンを押していいか問いかけてみる」「顔を合わせられる誰かとの、思いを共有できる場所を思い浮かべる」「そして、そこで過ごす時間をとる」

そうすることできっと、周りや見知らぬ誰かだけでなく、自分自身の心も救うことがあるはず。苦しいけれど。暗い感情に飲み込まれてしまわないように。

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