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出版社が「出版」を終わらせている…のか?

いやーーーー、ここのところのあまりにも各出版社のスタンスに首をかしげたので、おもわずnoteを開きました。

わたしは小さな頃から本が好きで、起きている間は本を読んで、死ぬなら本に埋もれて圧死したいとすら思っていました。ライターとしてたくさんの出版社にお世話になり、尊敬する編集者や記者もたくさんいます。
けれども「出版社」という会社組織が、『出版(業界)』の終わり感を強め、それが出版離れに拍車をかけるのではないかな、と感じました。

と、このnoteを書く最後のきっかけになった『ViVi×自民党』騒動など、個々最近気になった各出版社について振り返りたいと思います。どれも現在進行形の問題なので、数ヶ月して振り返るとぜんぜん違う景色が見えるかもしれませんけれどね……

講談社(ViVi×自民党)
幻冬舎(実売部数公開騒動)
朝日新聞(女性関連広告炎上にモヤモヤ)

 

講談社 (ViVi×自民党)

目下、炎上中のこの騒動です。

これに批判が集まった結果、講談社の回答がこれ。

<講談社のコメント>
このたびの自民党との広告企画につきましては、ViViの読者世代のような若い女性が現代の社会的な関心事について自由な意見を表明する場を提供したいと考えました。政治的な背景や意図はまったくございません。読者の皆様から寄せられておりますご意見は、今後の編集活動に生かしてまいりたいと思います。

「いやいや政治的な背景や意図、あるだろ!」との意見もあるようですが、わたしはとくにそこは気になりませんでした。
もちろん「だとしたら考えが足りなさすぎる!」とは思いますが、政党が広告を出すことはあるので、「出版社としてその程度の認識なんだろうなー、本当に政治的な背景や意図は考えていなくて広告出したつもりなんだろうなー」という担当者の心持ちは想像はできます(真意はわかりません)。ただこの件についてはそんな感情ベースの判断では浅はかすぎるし、言い訳だとしたらそれも浅い。しかも、純広告《広告スペースを貸す》ではなくコラボ《記事広告/一緒になって記事を出す》なので、講談社の主張ととる人もいるでしょう。その時に、これは単なる広告ではなく「講談社側に政治的な背景や意図があるように見えるだろうとまでは思わなかったんかい?」と思慮の浅さが気になります。むしろ政治的意図があるならあってもいいんですが……。

広告だって、いいんですよ。お金もらって政党の広告だしても。でもね、問題は出し方ですよ。これじゃぁ自民党の広告塔になっているようにも見えるでしょう。しかも昨今、お笑い芸人さんが首相とご飯を食べているのを問題視する声が出ているような時期にですよ。内容どころか、世論に対して疎すぎやしませんか……。

しかしなによりわたしが引っかかったのは、講談社の「社会的な関心事について自由な意見を表明する場を提供したいと考えました」の部分です。それって今回のコラボを説明する理由になるのか?と。本当に「自由な意見を表明する場」にしたいなら、ひとつの政党の広告でそれができると思ったの?逆効果だと思わなかったの?と思うのです。
ほかの政党も広告を出しているならわかります。よしんばひとつの政党だけとコラボしていたとしても、「さあこれが自民党のスタンスですが、あなたはどうお考えですか?」など土台をつくって記事を出するならわかります。
けれども、ひとつの主張の総体である“自民党”という一団体の力を借りて場を用意することが、本当に「自由な意見を表明する場」なのでしょうか。しかも政党は民間企業ではなく国を運営する政治団体であり、しかも力を持っている与党なのです。ほかの広告主以上に配慮が必要なクライアントではないでしょうか。

わたしには、この企画を通すにあたって関わった方々が、政治や、政治と国民との関係や、社会について、あまり深く考えていないように思えます。

せめて広告企画の理由として「広告主からコラボ企画を提案されたので、その分の料金をいただいて広告を出しました」とかの方が理解できます。『自由な意見を表明する場』というのがわからんのです。それがどんな場なのか、自由ってどういうものなのか……政治と若者と自由の関係性を考慮したとは、思えないのです。今のところ。(今後いろんな意見や解釈や説明が出てきて見方が変わるかもしれないので、続報を見ていきたいです)

あと、今回ViViがTwitterで上記のように呟いたのも問題のひとつだと思っていて、これもone of themに見えるように拡散すればまだよかったのかなと。
最近、記事や企画は良くてもSNSでの拡散方法に配慮がなさすぎるな、広報配信としては言葉が雑すぎるなと感じることが多いです。メディアやマンガや企業のSNS担当が社会倫理観が薄く、コンテンツの価値を下げている……そう思うことがあります。

SNSにしても今回の騒動にしても、大手マスメディアと言われる大きな影響力を持った人たちが、(全員ではないとはいえ)政治や社会に対する理解が薄く、関わり方が雑で鈍感であること。これが「出版社だいじょうぶ?」との不信感に繋がるのではないでしょうか

ひとつ付け加えますと、今回のViVi×自民党の企画の考え方そのものに反対しているわけではないです。憂慮しているのは、企画への取り組み方と思慮浅さです。若者が政治なり社会について自由に話せる場所を提供することはとーっても大事なことだと思いますので、それは増えるといいな。ただし、繊細なことだし、いろんな立場があることですので、もっと思慮深さが必要だなと思います。

 

幻冬舎 (実売部数公開騒動)

これも現在進行中ですし、問題点が多い騒動なので、いくつか関連記事を貼っておきます。他にも記事はあるでしょうし、まだ続いていますから、リンクはあくまで参考までに。

▼5月17日(経過について)

▼5月23日(幻冬舎社長の謝罪)

『日本国紀』著者の百田尚樹さんに関しては、前々から差別的な発言が各方面で問題視され、いろんな論争がぶつかっています。

ただしこれまでは、ご本人のスタンスだから……という域を出なかったように思います。作家個人の思想やスタンスについて出版社がどういう態度を取るか、作家とどういう関係性をつくるか……出版社の態度次第で、作家の立場は大きく変わるはずです。それがこのたびやっと『出版社としてどうなのよ?』という論が影響した騒動でした。

百田さんの『日本国紀』を批判した津原泰水さんの書籍の実売部数を、幻冬舎社長が勝手に個人SNSで公開しました。その波紋は、数名の作家の「幻冬舎では書きません」という表明にも広がりました。政治的なことや働き方についてはそれぞれスタンスがあるでしょうけれど、出版社への不審や反対が明確に顕在化した出来事だと思います。しかも拍車をかけさせたのは、百田さんでも津原さんでもほかの作家でも読者でもなく、出版社側(正確には社長ですが……)なのです。

民族差別などの差別発言がたびたび問題になる作家を守り、勝手に実売部数を公開して非難を浴びたこと……これについても、大手マスメディアと言われる大きな影響力を持った人たちが、(全員ではないとはいえ)政治や社会に対する理解が薄く、関わり方が雑で鈍感であること。これが「出版社だいじょうぶ?」との不信感に繋がるのではないでしょうか(再度)

 

朝日新聞 (女性関連広告炎上にモヤモヤ

これは炎上ではなく、個人的にふと気になった最近のことです。

今年に入ってから、大手メーカーらの「女性にまつわる広告の炎上」が相次いでいます。そごう・西武、ロフト、グリコ……後を絶ちません。「あかんやろこれ!」と怒る人と「なにがダメなの?」という人の間には、ふかーい溝が横たわっています。

それは出版業界でも同じ。以下は朝日新聞の、「なにがダメなの?」とモヤモヤする男性記者と、「え、まじでわかんないの?がっかり」とモヤモヤする女性記者との連載座談会です。

この記事の取り組み自体は、いいと思うんですよ。

「この炎上を理解できない人が取材をして新聞記事を書いているのか……」というがっかり感は女性としてはありますが、それは世の中の状況の反映ですからそれほど取り立てて責め立てる気にはなりません。どちらかというと「顔出しをして読者の目線に立って世の中にあるジェンダー差を理解しよう」という姿勢の方が今は大事です。そういう積み重ねが、相互理解をうながし、世の中を変えていくんだろうな、こういう企画をやるのいいな、と思った

のですが!!!

なんでこれが『有料記事』なんでしょう。ジェンダー差を理解したいなら、それを世に知ってほしいなら、世の中を変えたいなら、こういう記事こそ無料にしたらどうなんでしょう??? むしろ芸能記事とかは有料でもいいのでは??

……いや、記事が持ち込みや取材ではなく、自主発信の独自記事だから付加価値があるとかいうのはわかります。でも、こういうところに「報道のスタンス」と「お金との関係」を強く感じます。お金をとれるものからはとろう、ほかの媒体も出している記事は無料にしよう、という競争原理があるのも。

ええ、残念ながら、マスメディアは営利企業です。お金を稼がなければいけません。でも、届いたら世の中を良い方向に変えるかもしれない記事は有料で、そうでもない記事は無料って、いくら資本主義とはいえなんだか足を掬われた気がします。(このお金と事業内容のロジックはマスコミに限ったことではありませんが)

マスメディア企業のCSRってなんでしょう?
いまいちど確認したい。企業の社会的責任。
それをおろそかにしたマスコミは、視聴者の期待に答えられず不信感を持たれていくと思います。というか、実際に持たれていると感じます。

大手マスメディアと言われる大きな影響力を持った人たちが、(全員ではないとはいえ)政治や社会に対する理解が薄く、関わり方が雑で鈍感であること。これが「出版社だいじょうぶ?」との不信感に繋がるのではないでしょうか(再々度)

      *

と、3つあげてみましたが、ほかの事例も考えるとキリがありません。

こういった炎上や不信感は、出版社に対してだけに限りません。新聞やメディアの姿勢を問う意見はゴロゴロ溢れています。その意見はいち視聴者の素直な感想の時もあれば、なにか政治的な力が働いた糾弾のこともあるでしょう……いろんな目にさらされているからこそ、メディア側はさまざまな社会や人に気を配る必要があります。
そして気を配るとは、社会を知り、経済を知り、政治を知り、構造的な視点で意思を持って判断しなければできません。一人の人間でおこなうのは不可能なことですから、組織としてその仕組みを組み立てていかなければいけないと思うのです。

出版社という大きな組織にとって難しいことを言っているとは思います。わたしが「出版社だいじょうぶ?」と思うのは、自分が出版社やメディア側の視点なので「もっと自分たちで気をつけようよ。丁寧にやっていこうよ」という気持ちになって高い理想を求めてしまう気持ちがないとは言えません。でも、自分の足場だからこそ、気をつけたい。

現場には、真摯に誠実に働いている人がいることも知っています。「自分が差別的な視点を持っていないといいきれないから」と、あえていろんな人の意見を取り入れようとする編集者さんもいます。「この内容は誰かを傷つけていないだろうか」と、決められたわけではないのに他の立場の人に自分の記事を確認する記者さんもいます。
なにが正解かなんて確実な答えがあるとはいわないけれど、配慮のない判断をしてしまうことで、一人ひとりの気遣いが無になってしまうのもひとつの現状です。それが繰り返されると、最初は繊細に気をくばっていた記者や編集者も、いつしか雑なことに慣れてしまう気がします。

出版社は、影響力があるからこそ、社会を知り、経済を知り、政治を知ってほしい。それを構造的な視点で意思を持って判断できる環境づくりを心がけてほしいです。そうでないと出版社みずから首を締め続け、『出版』を追いつめてしまう。

そして、「出版だいじょうぶ?」は「日本だいじょうぶ?」に繋がってく気がします。こんなに社会性がない発信をうけて成り立っている社会は、きっと、少しずつ『社会について考える力』を失っているのだろうと……
 
 
 

ただ、出版社側だけの問題ではないのです。政治も、市民も、経済も、なにもかも相互関係なのですから。他人事として一方向だけを責めずに、構造を理解していく視点はどの立場でも大切です。
おそらく日本は豊かなふうには見えますしそう言われてもきましたが、もはや豊かな国とはいえません。ゆるやかにじんわりと痛みを隠しながら貧しくなっています。経済的にも、知的にも、礼節的にも、精神的にも。その波に今自分が乗っているのか、乗せられているのか、気づいてもいないのか……

視聴者一人ひとりはもちろん、影響力のあるマスメディアの人間だからこそ、世の中の構造に気を配らないと貧しさは加速していくのだと、危惧しています。

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