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「べつにフェミニストじゃないんだけどさ、」と言いたくて

性別にかかわるなにか考えを言うときに、「べつにフェミニストじゃないんだけどさ、」と前置きしたことが、何度かある。

それは本心からの言葉で、わたしは自分のことをちっともフェミニストだとは思ってなかったし、フェミニズムにも興味がなかった。どちらかというと、名誉男性的な要素が強いと思っていた。

20代半ばには、男性社会と言われるいくつかの業界で働いていたけれど、なんの不便も感じなかった。セクハラらしいことをされても、それがセクハラだと気づかないくらいちっとも気にならない。しかも、性別を人物の構成要素以上に認識できないという感覚が強く、男女性差というものに非常にうとかった。そんな居所のうえにで「世の中はどうやら弱肉強食らしいぞ」なんてことにも冷ややかに納得していたものだから、むしろフェミニストとは真逆だろう、くらいに思っていたのだ。

だから先の言葉「べつにフェミニストじゃないんだけどさ」と言う時はつまり、「べつに女性の権利について深く考えたこともなければ、なにか意思を持ってるわけでもないんだけどさ」だった。ただ「一人の人間として、目の前のこのズレや差には違和感があるんだけど」という思いで、たまたまそれが性別にかかわる話題だっただけだくらいに考えていた。

そんな浅慮なもんだから、ここから先の話は人によっては「え、今さら?」というレベルのまぬけさかもしれない……

 

ここ数年、フェミニズムの話題が一気に増えた。一昨年からの世界的な#metoo、今年に入ってから相次ぐ広告の炎上、上野千鶴子さんの東大祝辞、医学部入試における女性差別問題、なくならない政治家の差別発言、韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』、伊藤詩織さんの事件、痴漢に安全ピン問題、#KuToo、夫婦別姓……あげればキリがない。

それらについてコメントするとき、わたしはやっぱり「べつにフェミニストじゃないんだけどさ、」と言っていた。

すると「え、フェミニストじゃなかったの!?」と驚かれることが増えた。「「フェミニストじゃないんだけど」ってわざわざ言うの、逃げでしょ?」とも言われた。

これにはわたしがものすごく驚いた。

わたしは、男性とか女性とかどちらにも分類できない性とか関係なく、一人の人間としてなんならひとつの生き物として「それってなんかバランス悪くない」「筋が通ってないんじゃない?」と言っているつもりだった。女性だから、と意識したことはほぼなく、女性の権利を守ろう・主張しようというつもりもいっさいなかった。男女が逆でもおなじ発言をしたと思う。

ただ一人の存在として「それちゃんと“平等”に判断してますか?」という当たり前のことしか言っていない気でいたけど、そうか、それがフェミニストに見えるのか。だとしたらどれだけ女性にとって“平等”じゃないんだろう、今の世の中は。

 

ちょっと混乱したわたしは、まったくフェミニズムには興味のなさそうな母に(母から女性の権利や性別についての不満なんて一度も聞いたことがない)、「最近こんなことが話題になってるんだよ〜」と、ネットで散見されるフェミニズム論のいくつかの話題を振ってみた。#metoo、東大祝辞、医学部入試……。テレビと地方新聞だけでネットを見ない母は、どの話題もあまり知らなかった。けれども、まったくの真顔で言った。

「そんなの何十年も前からたくさんの女性が言ってるや〜ん」

そして、本棚に並んだ本のなかから一冊を出した。「これ面白いよ、読む?」。

ふだん「今回のディズニーの映画は綺麗だったよ!」と言うのと同じくらいのテンションで、一冊の本をくれた。「カバー写真がやなぎみわさんなの!素敵よね」。


そうか。フェミニズムとは、女性にとって『あたりまえ』の感覚のひとつなんだ(もちろん人による)。あたりまえのように過ごす価値観のなかに、あたりまえのようにあって、あたりまえのように抗ってきたから、あらためて「フェミニズム/フェミニスト」という言葉が話題になると、深く考えたことがなかったからしっくりと落ちてこなくて混乱してしまったのかもしれない。
もしかしたら、いまいちピンとこないという男性にもそんな感覚の人がいるかも……。

 

それからわたしは、性別にかかわる発言をするときに「べつにフェミニストじゃないんだけどさ、」と前置きするのをやめた。どうやら、今の世の中で“平等な権利”について考えることそのものが、フェミニズムにあてはまってしまうことが山ほどあるから。それくらい、性差によって穿ける下駄の高さが違うようだ。

そして今月発売の『文藝』は特集「韓国・フェミニズム・日本」を組み、出版界では超異例となる重版にまでなっている。

男性の購入者も多いと聞くし、これからますますフェミニズムについてさまざまな議論が繰り返されるだろう。

……ここで想像をめぐらせてみると、フェミニズム論調が強くなりすぎると、窮屈さを感じる男性も多くいると思う。(ちなみに、フェミニズムにたいして『男性に対する性差別の撤廃を目指す思想や運動』をマキュリズム、それを推進する人をマキュリストと言うらしい。)
また、男女の二元論に組みさない、どちらでもある性・どちらでもない性の人たちもいる。その方たちは今のところLGBTQ+と言われるのだろう(かなり細かい概念があるので当てはまらない人たちも多い)。
そんな男性やLGBTQ+の人たちのことに配慮したうえでフェミニズム論を口にしよう、というのが本質ではない。ただ『みんなが同じ権利を持てるか』を忘れないようにいられたら、と、わたしは思っている。

「女性が」「男性が」という主語を耳にすると、より男女差のイメージが強くなったり、発言者にその気がなくても該当しない人は排除されたような気持ちになってしまうかもしれない。けれど、そもそも言いたかったことは「わたしの権利を認めろ・守れ」の前に「みんなに同じ権利を」だったのだと、信じたい。「自分の方を優遇しろ」という話だったら、フェミニズムがこんなに話題になってないはずだ。

「ただ同じ、権利がほしい」
これはLGBTQ+の「同性婚を認めよう」という主張も同じだ。
 

もしこれから、男女の性差による権利の違いが小さくなっていって……

性別というカテゴリーではなく、そこに存在する人間同士で「これは平等かな?」という論議がおこるようになれば……

そのとき初めてちゃんと「べつにフェミニストじゃないんだけどさ、」と言えるような気がする。

「フェミニストじゃなくて、マスキュリストでもなくて、ただ一人の人間として目の前のこのズレや差について違和感があるんだけどさ、どう思う?」と言える気がする。そして、そうなりたい。

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