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遺族取材をやめたかったマスコミのひとりとして。

毎日のように、悲惨な交通事故のニュースが目に入る。

母娘が亡くなってしまった池袋の事故のあの後はどうなっただろう(事故7ヶ月後にして書類送検となるらしいです/2019年11月追記)

そして、園児たちが巻き込まれる大きな事故もあった。
園長先生による記者会見が、さまざまないびつさを持っていた。そもそも園が会見をしなきゃいけなかったこと。事故当日の詳細を質問された園長先生。なぜ、いまここで、この方がそれに答えなければいけないのか? なんのために?
目的のわかりづらい質問に多くの人が疑問を思ったようで、ツイッターでもとても話題になっていた。

そのなかで、ひとつ視界にひっかかったツイートがあった。

都内のマスメディアに所属するというaoi@9m育休中さんのツイート。その文のなかに、わたしも感じたことのあった苦い思いがあった。

「同世代の記者の多くはもう遺族取材やめたいって言ってるしそれが苦痛で何人も辞めたよ。

わたしもそれが苦痛で辞めた一人だ。

数年前、記者としても社会人としても半人前だったわたしは、マスメディアのそれこそ端くれで事件取材にかかわっていた。何人かの記者の先輩について、事件が起きれば24時間、いろんな場所にでかけた。

先輩たちは「世の中の問題を目に見える記事にしたい」「不正や理不尽なことを無くしたい」「誰にも気づかれずに悲惨な思いをしている人を救いたい」と、心底思っているように見えた。だからその後ろを着いていっている私は、マスメディアの取材姿勢に疑問を持つことなく、本気で「こんな理不尽なことが陽の目を見ていないなんて!」と呆然としながらさまざまな現場についていった。

マスメディアが取り上げる事件は、だいたい注目度の高いセンセーショナルなものが多い。つまり、そこにはとても傷ついている人がいて、その人やその周辺をたくさんの人たちがこぞって追いかけることになる。とくに大きな事件・事故が起きたとき、わたしもその中のひとりだった。


ある事件で、若い女性が亡くなった。

事故ではなく殺人で、周囲への聞き込みのほか、加害者が逮捕されてからは裁判所に取材に行くことになる。世間の注目の高かったその肝心な裁判で、先輩は被告人の取材を、わたしは遺族の方を、それぞれ分担して取材担当した。

裁判では(時によるけれど)、起きたことを詳細になぞっていく。多くの記者会見よりも時間をかけて、淡々と、こまかいことまで、みんなの前で質問と説明が繰り返されて明らかにされていく。そして記者はその間、発言することはない。会見やインタビューと違って黙っているので、考える時間がとても多かった。

しかもその裁判で、わたしはちょうど、ご遺族の方の隣の席に座ることになった。多くの記者たちと通路を隔てて、ご遺族の方々が座るエリアにわたしも座った。その距離の近さと、裁判中に考える時間がすごくあったということが重なったんだと思う。裁判の途中、突然、わたしは自分がなぜここにいるのかを見失った。

隣の席で、弁護人や被告人の説明の間も、静かに亡くなった女性の遺影を抱えているご遺族の方の横顔を感じる。事件の詳細が語られていく頃、傍聴席にいた被害者の知人のひとりが取り乱し、一時騒然となった。叫び声。なだめる声。落ち着かない雰囲気。その間もご家族の方は、遺影を抱えたまま微動だにしなかった。

……あれ、なんでこんなことしてるんだろう、と思った。隣にいて全身がひりつくほどの悲しみ。わたしはなぜ、この遺族の方を追わなければならないんだろう。

いや、それは、少しは当時の状況を伺ったりすることはあってもいいのかもしれない(もちろん配慮はとても必要だ)。

でもどこまで? なにを? なんのために?

耳には引き続き弁護士や被告人の声が入ってくる。事件当時のことが語られている間、わたしは、ご遺族の方の顔を不躾に見ることはできなかった。メモを取ることもできなかった。取材そのものが、正しいこととはとうてい感じられなかった。

こんなこと、他人が土足で、いや、靴を脱いでいようがなんだろうが、踏み込むことじゃない。そもそも踏み込む意味がわからない。


その裁判のあとから、わたしはご遺族や加害者の周囲の人たちへの取材に過敏になっていった。そして「先輩たちはどういうつもりで、どんな気持ちで、なんのために取材をしているんだろう」と、とても気になった。

直接聞いてみたことがある。いろんな方がいろんな答えをくれたけれど、わたしはおおむね「それでも伝えなきゃいけないことがある」みたいなことだと受けとった。たしかに先輩記者の方のほとんどは、その事件のきちんとした事実を検証しようとし、さらに向こう側にあるさまざまな差別や社会背景を追っていた。それに、遺族の方にもとても配慮して丁寧に、時間をかけて気遣って接しているように見えた。

そして、必要以上にわたしに取材を強制しなかった。

たとえば最初に「あれの取材を担当しろ」「これを質問しろ」と指示をしたとしても、わたしが「ちょっと納得いかないです」「それって必要あるんですか」「それは失礼ではないですか」と言うと、だいたい「わかった。できる範囲でいい」と返ってきた。わたしはそれを、わたしの気持ちや取材される方々の気持ちを尊重してくれているように感じていた。無茶な指示はあったけれど、無理強いは一度もされなかった。


いろんな先輩がいて、いろんな現場がある。
誠実な記者もいる一方で、おいおいそんなに人をないがしろにするような行動はどうなのよ!という記者やカメラマンもいる。同じ人がそのふたつの間で揺らいでいると感じることもあった。
また、大きなメディアになるほど、現場で顔を付き合わせている記者と、報道に関する権限を持った人が違う。そのためどうしても温度や目的のズレが起こる(事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!ってやつですね)。なかには、もしかしたら記者本人は望んでいなくても、踏み込んだ遺族取材をしないとクビになるような現場も……あるのかもしれない。そうだとしたら、傷ついた誰かの人生に踏み込んでそこに光を当てるなんてことをしている人生でいいんだろうか。せめて「なぜそれを自分はやるのか」と意志を持っていればまだしも(それでも限度はあるけれど)、自分の頭と心を動かさないで、覚悟も責任もない浅慮のまま突っ込むことは、あまりにも誠実ではないんじゃないか。

わたしにはできなかった。それをしてまでやるべきだと思えることが、自分にはなかった。本当に、考えが足りていないまま始めてそのまま続けてしまった仕事だったんだと思う。だから、辞めた。実際には遺族取材について納得できなかったことだけが仕事から離れた理由ではなかったけれど……大きな理由のひとつではあった。


ここまでの内容は数年前のことなので、記憶もちょっと曖昧になってきているし、今とは状況も違うんだろう。ただ、わたしは配慮を捨てなかった現場記者の先輩方を信じたいし、あの園長先生の会見会場でも、不躾な質問や態度に疑問を持っている記者、憤っている記者、悲しんでいる記者がいただろうなと想像する。

ただ、そうやって想像するだけでは遺族取材も、不躾な質問も、ずっと続いていく。

aoi@9m育休中さんが言うように「事件事故が起きたらまず遺族取材の慣習やめませんか。」という、具体的な行動がもっと必要だと思う。どれだけ遺族の方への取材を喜んでいる読者・視聴者がいるんだろう。ゼロにしろとまでは思わないし、事件ごとに状況は異なるだろう。だけど「あえて遺族報道をしない」というスタンスも大事なのではないか。もし報道するのなら“なぜ”“なんのために”報道するのかを視聴者に提示する姿勢があっていいんじゃないだろうか。そしてaoi@9m育休中さんのツイートから引用させてもらうと「他社と比べていかに多くの情報を出したかで競うんじゃなくていかに人道的な報道をしたかで競いませんか。」というふうに、もっとなればいいと思う。

基準は「人道的か」でなくてもいい。わたしとしては「良い未来にするための報道か」が基準になるといいなと思う。

マスコミの拡散力や影響はとても強い。
マスコミで「Aだ」という報道をたくさんすれば、納得がいっていなくてもいつのまにか気持ちが引きずられてしまうこともあると思う。マスコミには、そういう目に見えない“空気”をつくる力がある。だから「良い未来に向かうために」報道する姿勢が必要だ。さまざまな視点、歴史的根拠や、新しい気づき、清濁両面での現場の声……。「これがフェアなんじゃないかな」と情報を誠実にフラットに取り上げようとする心がけ。そうすれば、影響力があるマスコミだからこそ、良い“空気”をつくることもできるんじゃないだろうか。(明るいことばかり言ったり、褒めればいいとか、そういうことじゃないよ!)

マスコミの人も視聴者も「マスメディアは視聴率(あるいはアクセス数)があがるものを報道しているシステムになっている」と考えているかもしれないけれど、実はそうじゃないと思う。発信内容を決めているのは、なんとなくの空気であり、イメージではないだろうか。
視聴者の多くはきっともっと世の中を見ているぞ。「これは価値があるな」ということを、それぞれの場所からそれぞれの視点で判断できる人たちが世の中にはたくさんいる。

さいきん、池上彰さんの新書『わかりやすさの罠』を読んだら、こんな文章があった。

2009年のイラン大統領選の話題でした。「イランについて、一から解説しましょう」と提案を出したのですが、スタッフは乗り気ではありません。「ゴールデンタイムの時間帯に難しい国際ニュースなんてやっても、誰も見ませんよ」というわけです。
私の提案どおり、イランの大統領選を解説することになりました。ところが、これがスタッフの予想に反して、前の週の倍の視聴率を獲得したのです。
この勢いで複雑な国際情勢や政治ニュースをどんどん取り上げていきました。それらがいずれも高い視聴率をとるにつれ、「どうせ難しい国際ニュースなんて見ませんよ」と疑わしげだった制作スタッフの目の色も次第に変わっていったのです。(※長いので一部中略)

そりゃそうだろう。すべてのメディアが、視聴者が求めているものをしっかりわかっているとは思えない。もちろんきちんと検証している番組やスタッフさんもいるだろうし、視聴者側の世代差や環境差もあるだろうけれど、まったくズレてるんじゃないのかなと感じることもある。
結果、本当に視聴率があるものではなく、厳密には視聴率があると『予想されているもの』が報道されている。

だからこそメディアは、慣習になっている報道にそぐわなくても、「良い未来に進むのための報道」「誠実でフェアな報道」「映る人や視聴者や、つまり他人を尊重する報道」をしてほしい(心がけている人もすでにいるのも知っている)。メディアだって民間の営利企業だけれど、未来のための誠実な報道をすれば、マスコミを大事に感じる視聴者はいると思う。とくに良い社会にしたいと意識している人たちは、当事者性と現場目線をもっているがゆえに、そういう報道姿勢には敏感なんじゃないだろうか。

一方で、実際、最近いくつかのメディアの現場にいくと、真面目で気遣いのある人によくお会いする。そんな時には「メディアの人が視聴者の顔を見られないのと同じくらいには、視聴者側もメディアの人の顔が見られないんじゃないかな」なんて寂しさもふとよぎる。

ただ、良い人だからって良い報道をするとは限らない。どこの会社でもそうだと思うけれど、気遣いがすぎるがゆえの忖度が起きたりする。また、日々センセーショナルな事件を追っていると、喜怒哀楽の感覚が麻痺したり、考えるのをやめたりもしてしまう。忙しさに追いたてられて(マスメディアは驚くほど忙しい。眠れない。ずいぶん改善されているだろうけど)、判断力や、気配りがものすごく低下することもあるだろう。
それでも、メディアのなかの人の顔を見て、その人の誠実さを感じると、信じたくなる。きっとこういう方々が真摯な取材と報道を心がければ、少しずつでもいろんな人に届いて、いい社会になっていくんじゃないかな……と。

そのために視聴者ができることは「こういう報道はこういう理由で嫌だ」と発信することと、「この番組はここが良かった」「こういう情報もあったら嬉しい」と伝えること。そうやって互いに「こういうニュースが見たいよ」「こういう報道を心がけた」と言葉にし合い続け、良い方へと進む動力の両輪になれたらいいなと思う。

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