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子どもはパチンコ台じゃないんです。

えらいてんちょうさんの「しょぼい起業で生きていく」という本のなかに、phaさんとの対談があって、その中の一部分、”子どもはパチンコ台じゃない”という章に衝撃を受けたので、そのことを今日はすこし書いてみます。

pha「みんな子どもに期待しすぎるというか、自分の夢とかを詰め込みすぎるのはよくないと思いますけどね。別の人間だし。」
えらてん「とくにお金投入するとね。お金を入れて成果が出てこないっていうの、本当にパチンコ台だから。子どもパチンコ台にしちゃよくないよね。」

自分が当たり前のように思っていたこと、つまり子どものためを思い、あれを買い、これを与え、環境を整え、こうしたほうが良いんじゃないか、こうしないといけないんじゃないか、こんな教育を、こんな躾をしなきゃいけないって思っていたことはすべて親のエゴなのかもしれない。

今まで根底から信じてきたものがすこしずつ崩れたような、そんな気がしました。

でも、考えてみればその通りで、誰かのため、というのは、本当にその人間のためになっているのかと言えば、そうでもない。

結局最後にお尻を拭くのは本人なわけで、どの親も、子どもの人生に最後まで責任は取れないんですよね。

責任を取れるのは、自分で選んだことのみ。

競走馬やパチンコ台のように、あの馬強そうだから、あのパチンコ台出そうだから、といってお金を投入する、というようなシステムだったら、存在自体を選んだわけだから、馬主は馬を調教して育てる権利が、パチンコ台から出てくる利益を受け取る権利がある。

でも、子供は親を選んで生まれてきたわけではないし、親も子供を選べるわけではない。あくまで、phaさんやえらてんさんが言うように、ガチャ的な要素が非常に強い。

自分たちの選択に関わっていないところで存在が開始されているのであれば、そこに主従関係などなくて、子どもは子どもの生きたいように生きてもらうべきなんじゃないかと思います。

では、子を思う親の愛情は、どのように表現されるべきなのでしょうか。

結局のところ、子どもが生きたいように生きることを保証しながら、命を守っていくことではないかと思います。

いくら生きたいように生きて欲しいからといって、死ぬように生きることを許容することはできない。それは親の責任の放棄だ。かと言って、がちがちに守りながら生きることは、生きたいように生きることにはならない。

自分にも子どもが産まれて、子どもの命を守るためなら、自分が死んでもいいと思えるようになりました。

子どもの人生に責任は取れないけれど、子どもが自分の人生に責任をとれるように生きさせてあげること。

親の最終目標に向けて、自分は親、がんばっていきたいと思います。


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