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信じることは愛すること

こんにちは。ももかたまちゅり(@momokatamachuri)です。

"人を信じる"とは、どういうことでしょうか?
世の中には、何の疑いもなく人のことを信じられる人がいます。
逆に、当たり前のように人を疑う人もいます。
あるいは「自分のことを一番信じられない」という人もいるでしょう。
私は、信じること = 愛すること だと思っています。
「裏切られるとわかっていて、それでもなお、あなたを信じます」なんて、ドラマチックな台詞 愛以外のなにものでもないでしょう?
今回は、そういう話。

私は、人を疑うことが当然だと思って生きてきました。
「人を信じる?なにそれ、おいしいの?」といった具合。
なぜそんな性格になったのかはさだかではありませんが、いろんな要素が絡み合っているのは、たしかです。

例えば①
私は幼い頃から母に厳しくしつけられました。
「自分で言ったことすらできないなんて最低だ」「約束を破るのか」と。
よく ひっぱたかれ、怒鳴られました。
母は、母が気づいたときに怒鳴った。
夜、私が眠っていても 叩き起こして ベッドから引きずりおろし 怒りました。
外にいたとしても、周りに人がいても とにかく金切り声をあげて怒鳴りました。
「本当にできているのか?」「大丈夫なのか?」「あんたにできるのか?」母は心配性で、しきりに確認しました。

例えば②
小学生の頃、転校をしました。
クラスの事情なんて知らない私は、いじめを受けていた子と仲良くし始めました。
特別その子と「仲良くなろう」と思ったわけではなく、ただ「なんとなく」でした。
少しして、その子がいじめられていることを知った私は、体を張って守ろうとしました。
蹴られそうになったその子をかばった。
痛かったけど、大したことじゃないと思った。
ある日、その子が親に「いじめられている」ことを告げました。
いじめた相手は、私だったそうです。
その子の親は、私の親に連絡しました。
母はものすごい剣幕で私を呼び、私の言葉に一切耳を傾けることなく「とにかく謝りに行きなさい」と言った。
仕方なく謝りに行くと、その子は親の後ろに隠れて笑っていました。
私は何をやったのか?守ろうとしただけではなかったのか?「遊ぼう」と誘われたから、一緒に遊んだだけではなかったのか?

なんだこの仕打ちは。
悔しくて握りしめた手を今でも忘れない。爪が食い込み、皮がむけた。
謝って家に帰れば、怒濤のように続く親からの罵声。
「二度とこんな失態は犯さない」と強く誓いました。

例えば③
友人と遊ぶ約束をしていて、待ち合わせの時間よりも前に待ち合わせ場所につきました。
複数人で遊ぶ予定だったのに、誰1人来ていないことに疑問を抱きながら 待っていました。
1時間、2時間、3時間……誰も来ませんでした。
日が暮れる頃、1人の友人が息をきらしてやって来た。
「今日の遊びなくなったんだよ。そういえばまちゅりに言ってなかった気がして……ごめんね。」と言われました。
「大丈夫だよ。」と返した私は、むなしいという感情を知りました。

……etc.

1つ1つは小さなことでも、積み重なり 絡み合えば 簡単に人を信じられなくなる。
気づけば、ピエロのように笑顔の仮面をかぶり、息をするように嘘をつき、辻褄合わせが上手くなりました。
その内"嘘のコツ"がわかるようになりました。
本当のなかに、嘘を少し混ぜるのが良い。
混ぜる嘘は、曖昧で 透明で 人や言い方によっては "嘘"と捉えられない言葉を使う。
そして、自分の感情を隠すのに磨きをかけた。
人は 嘘をつくと、人を信じられなくなる。
みんな嘘をついていて、自分と同じような感情をもっているのだと錯覚します。

心にはぽっかりと穴があきました。
どんなに人から好かれようと どんなに優しい言葉をかけられようと 全てその穴から落ちていきました。
有名人の言葉も「それはお前だからできたことだろ」と突き放した。
孤独になっていく。
この世界で、まるで自分だけが 死にながら生きているみたいな気分。
世界から色が消えて 灰色になって、感触も味覚もなくなった。

人を信じるのは、難しいように思えた。
でも、思ったよりも簡単だった。

私は、心の穴を埋めない限り幸せにはなれないと知っていました。
どうやったら幸せになれるんだろう?
答えはすぐにわかった。
愛し 愛されれば 幸せになれる。

でも、どんなに愛されたとしても、穴から愛が落ちるのを痛感していました。
どんなに愛そうとしても、穴から落ちていきました。
どんな形のモノなら、穴から落ちないんだろう?

"愛ってなんだろう?"
答えはたくさんあって、映画やアニメや小説にたくさん触れて、学びました。
私の答えは、信じることでした。
私が好きになるキャラクターは、みんな 信じていました。
愛する人を、友人を、信じていました。
これで穴を埋めるためのピースがわかりました。
私はとにかく、人を信じる努力をしなきゃいけないと思った。

信じるために、何をしよう?
・素直になる(嘘をつかない)
・信じる人を決める
この2つを徹底しました。

素直になるためにしたこと。
勇気を出して、思ったことを吐き出すこと。
「勇気を出さなきゃ、私が言えないこと」を普通に言えている人が、実は周りに何人かいました。

最初に勇気を出したのは「おならが出る」と言うこと。
参考にしたのは、バイト先のおばさんと当時付き合っていた人。
この2人は、コミュ力が高くて たくさんの人が寄ってくるような人でした。
なぜ人が寄ってくるのか、分析しました。
2人とも素直なんですよね。
素直な人は信じられる。信じられると人は安心する。だから人が寄ってくる。
実際におならが出ても出なくてもいいんです。言うことに意味があるから。
出たら笑えばいいし、出なかったら「出ないわ」と言えばいい。
いきなり普通の友達に言うのは、とんでもない勇気が必要だったので、まずはその2人に言うようにしました。
本人たちが言っているんだから、引かれる心配もほぼないわけです。
そうして、真似てみることで 小さな勇気をたくさん出すようにしました。
勇気を出すのに"おなら"を使うなんて、笑っちゃうかもしれないけど 案外言えなくないですか?(笑)

信じる人を決めるためにしたこと。
人の行動を徹底的に観察しました。
言葉と行動が一致しているか?
自分と同じような手法で嘘をついていないか?
今まで約束を破ったことがないか?
私が"信じてもいい"と思える人を探しました。

初めて信じようと思った相手は、中学からの同級生でした。
当時、その人はだいぶ変わった人で、コミュニケーション力はあまりない方でした。
でも、約束を破ったことがありませんでした。
待ち合わせ時間に遅刻してきたこともないし、むしろ いつもかなり早く到着していた。
不器用で、基本的に 嘘をつけない性格。嘘をついても、不器用過ぎてすぐわかる。

最初は、なにか不安に思ったときは「この人は一度も約束を破ったことがないから、信じる」と自分に言い聞かせました。
"最初は"と言っても、けっこう長い期間です。
完全に、手放しで信じられるようになったのは ここ3,4年の話です。
10年程度は、本当の意味では信じてあげられていなかったと思います。
でも、それでよかった。
この人を信じる相手に決めてよかった。
だって付き合って十何年、約束をまだ一度も破られていないのだから。
これで騙されていたのだとしたら「お見事!」としか言いようがない。

そうして"信じる"ということを、学びました。

練習の甲斐あって、今 私は本物と呼べる愛を手にしています。
その相手も、友人と同じように ちょっと不器用な人です。
でも、それがいい。
その丁寧さが、私は好きです。
友人も、恋人も 私を手放しで信じてくれる。
この世界を生きるのには、少し不器用で 生きづらいかもしれないけど、私がそれをカバーできればいいと思う。
私は変に そういうのが得意だから、助け合って生きていければいい。
心から信じてくれる人たちがいる。それだけで、私は救われる。
そして救われた私は、その人たちを信じることができた。

両親は心配性で、私を手放しでは信じてくれなかった。
何度も私のやることに対して確認し、否定し、止めようとした。
「信じてほしい」と言っても「大切だからこそ、心配するのは当たり前」と言われてきました。
でも「それは違う」と、今はハッキリ言える。
心配してくれるのは、たしかにありがたい。
でも、心配しながらも 見守り 信じ 応援することができなければ、それは愛の押し付けになってしまうのではないだろうか?
愛や優しさは、押し付けてしまっては もったいない。
せっかくあげるなら、相手が喜ぶ形にしてから あげたらいいんじゃないかと思う。
きっと、そうして愛はつくられるから。

サポートに興味をもっていただき、ありがとうございます。いつか 私の文書が、あなたの手元に残る形になって あなたをそっと支えられればと思います。