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結果的に幸せになれただけの話

こんにちは、ももかたまちゅり(@momokatamachuri)です。

世の中には、いろんなことで苦しんでる人がいる。
"苦しい"とまではいかなくとも、寂しかったり つらかったり 悲しかったり、孤独を感じて 時間に浸ってる人がいる。
自分の、そうした、負の感情に向き合おうが向き合わなかろうが、幸せになれるかどうかなんてわからない。
向き合ったからこそ手に入れられる幸せもあれば、諦めたからこそ手に入れられる幸せもあるから。
結果的に満足できれば、人生なんて、どんな風に過ごしたっていいんだよ。
自由なんだ。
今回は、そんな話。

私には愛する人がいる。
最初はすごく頼りなくて、何かあっても、自分だけでなんとかしなくちゃいけなかった。
でも、ずっと一緒にいるうちに、お互いのことを語り合い 知っていくうちに、どんどん心強くなった。
「この人がいれば、他のことはどうでもいいや」と思えた。
これは、なげやりな意味合いじゃない。
当然のように、何に対しても 向き合っていくつもりだけれど、"何か嫌なことが起きても 立ち上がれる"というような意味。

私は親に虐待されていた。
特に思い出すのは、母が「殺して」と叫ぶ姿と、父が顔を真っ赤にして首を絞めてきたときのこと。
「私は今死ぬんだな」と、冷静に思ったこと。

昔から、どんなに静かな部屋だったとしても「うるさい!」とひとりで叫ぶことが、よくあった。
今でもたまにある。
罵詈雑言が脳内に溢れ始めて、すごくうるさくなるんだ。
言葉の渦に飲み込まれそうになる。
うるさい、黙れ、消えろ……そんな言葉をつぶやいて、耳を押さえる。
いわゆるPTSDってやつなのかな。

ほとんど症状はおさまってるんだけど、ストレスが極限までたまると、思い出したかのように溢れ出てくる。
自分の予想では「これより つらくはないでしょ?」と、体が訴えているのだと思う。

脳内に流れる言葉たちが塊になって、真っ黒になって襲ってくる。
動悸がして、呼吸が浅くなる。
苦しくなって、横になっても 楽にはならない。

そんなときは、文章を書くか 自分を殴るかする。

そんなんでもね、私、幸せなんですよ。
幸せだと胸を張って言えるんですよ。
自分で自分を殴るような、歪んだ性格だったとしても、ね。
そりゃ、殴らないにこしたことはないんだけれど、仕方ないことだしね。
殴るのもほとんど、しなくなった。
現に、5年はしないで済んだな。

昔は、笑いながら自分の首を絞めていた。
首を絞めたせいで、頭に血がたまってさ、力をゆるめると 目眩がするんだよ。
それが妙に楽しくて、何度も繰り返した。
今はべつに、楽しくないだろうな。

私は、外では 面白くて サバサバした人だった。
「サバサバしてないよ、ぐちゃぐちゃだよ」と、よくひとりごちていた。
誰にも届かない声量で。

自己犠牲の優しさを振り撒いて、メンヘラによくモテた。男とか女とか関係なしに。
自分ばっか救ってもらおうとする人たちばかりで、嫌気がさして、たくさん捨てた。
もう、顔も名前も覚えてない。
けっこういたはずなんだけど、1人か2人……ようやく思い出せるくらい。
やっと思い出せた人たちだって、数秒後にはまた忘れてる。

優しさも愛も無限じゃない。
返してもらえなきゃ、そのうち壊れてしまう。

親だってそうだ。
良い親にとっては 子供の笑顔が、お返しなんだろう。
毒親にとっては 子供が従順なことが、お返しなんだろう。

子供からしたら、良い親はたくさんのモノやコトを与えてくれるし
毒親は……最初は、食事やお金をくれる。
でもそのうち 搾取されていることに気づいて、愛は壊れるよ。

逆に、返してもらえてさえいれば、どんなに酷いことをされても 希望を抱いてしまうものなのかもしれない。

だからあのとき、誰も返してくれなくて よかった。
中途半端に返してもらわなくて、よかった。
そのおかげで、吹っ切れたんだ。
「誰も返してくれないなら、ひとりで生きてやる」と。

そうしてたらね、ひとりじゃなくなったんだ。

あのとき 私がばら撒いた 優しさとか愛とかのカケラを、今、恋人が必死に拾い集めてくれているのかもしれない。
必死だけど、とても楽しそうに 幸せそうに、集めてくれているのかもしれない。

人を小バカにしたように笑う私のことを、恋人は無垢に笑うんだ。
「まちゅりは笑うとき、左側の口だけ上げるんだよ」と言って、奇跡を発見したかのような口調で笑うんだ。

サポートに興味をもっていただき、ありがとうございます。いつか 私の文書が、あなたの手元に残る形になって あなたをそっと支えられればと思います。