見出し画像

格差の中で人はどう生きるのか……沖縄取材で感じたこと。

先週の金・土に、沖縄に行ってきました。
現在、無料塾の取り組みを網羅する書籍を制作中で、その取材です。
沖縄では行政主導の無料塾がそこかしこにあり、その様子はときどきメディアでも紹介されています。今回は、その県の担当者さんと、委託先の無料塾運営者さん、また、沖縄の子どもの貧困について詳しい社会学者さんに取材をしてきました。1泊2日の弾丸ツアーです。

ひとつひとつの取材で得たものについては今後書籍にしていくので、ここでは詳しく書きませんが……。

取材の中で案内して頂いた街では、沖縄で貧困が生まれる背景をすごく考えさせられました。
嘉手納基地のすぐそばにある、コザという街を歩いたのですが、そこにあったのは、こんな商店街。

廃墟のようになったシャッター商店街でした。アーケードの中を見てまわったら、店の入り口のドアが開いていて、人が住んでいる様子はありました。2枚目の写真のように道に無造作に並べられた椅子に、ときどき地域の方が集まっていることもあるそうです。

ここは、日本が敗戦国となり米軍の支配下に置かれたときに、大変賑わった街だったそうです。このあたりには、かつて白人街・黒人街と分けられて米兵の居住地があり、彼らの落としていくお金で日本の人々は生きていたわけです。普通に日本の中にこうした人種差別が持ち込まれていたことにもハッとさせられましたが、米兵からしたら日本人は、さらにその階層の下という感覚だったそうです。
この商店街はその後、沖縄の返還に伴って一気に廃れていくことになります。
そのときに富を得た人の中には、一生生きられるだけのお金を手に入れた人もいたそうですが、その後どうするかという保障は何もなく、次の代、その次の代にまたがって国の都合に翻弄されることになります。

この近くには、当時できた売春街もありました。
平屋の小さな建物がびっしりと並ぶ売春街には、まだ人がいて、さらにお昼からいくつか開いているお店もありました。
この売春街も米兵で賑わった場所で、働いていたのは現地の女性たち。
白人、黒人、さらにその下にいる日本人、という差別構造のある中で、なんとか富を得るためにここで働いていた女性たちがいて、おそらくまだそれが規模は小さくなったにしても続いている、そして今ではかつてのようにその仕事に就いたとしても大きな富は得られないだろう……という現場を目の当たりにして、そこで生まれ育った子どもたちのことを考えると胸が痛くなりました。


沖縄で貧困や格差が生まれる背景には、こういうこともあるわけですが、これは沖縄だけに限った話ではなく、原発のある街でも同じでしょう。
国の都合や、資本主義の都合によって、もたらされる不条理な格差というのは確実にあります。

その中で光が見えていたのは、県が貧困や格差問題をなんとかしようとあの手この手で動いていること、そして子どもたちの多くが「社会に出たら沖縄に貢献したい」と思っているということです。
取材中には「学力をつけて本土の大学へ行き、戻ってきても、ロクに稼げる仕事がない」という言葉を聞きました。
その一方で、「本土へ行って返ってこなかったら、学習支援をする意味はあるのですか?」という問いに対して「沖縄の子たちは、戻ってくるんです」「たとえ県外で働くことになっても、そこで沖縄に貢献しようと頑張ってくれるんです」といった言葉が、どの取材先でも返ってきたのです。

郷土愛が強い、というのが沖縄県民の特徴だと思いますが、この郷土愛というのは、ただ「土地」に結びつくものだけでなく、そこに暮らしている「人」、その「人」が作り出す「社会の空気」というものに強く結びついているのではないかなと思いました。
自分たちの力ではなんともならないような、何か巨大な力に翻弄されてきた地域だからこそ、「貧困は自己責任」と切り捨てることはしないし、置かれた立場で意見が違ったとしても「助け合って生きる」ことを選択できる。
そこは、大きく変わりゆく社会の中で、私たち日本人みんなが学ばなければいけない姿勢なのではないかなと思ったのでした。

沖縄、とても勉強になりました。
2日間だけではとても足りない……また機会があれば足を運びたいと思います。

note上にてご支援いただきましたら、運営する無料塾の活動資金として使わせて頂きます。 私個人への応援につきましては、各メディア様、お仕事ご依頼をお待ちしております!(kopedollあっとgmail.com)←あっとを@に変えて下さい。