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おしぼり君、頑張る

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地下鉄を降りてすぐに駆けだせば、誰よりもはやく改札を抜けて、地上へ続く長い階段の一歩目を一番に踏むことができる。

それだけで1秒か10秒か、もしくはそれ以上、もっと長く佐奈さんと、本日5月22日金曜日の夜を楽しむことができるかもしれないと考える僕は、揺れて覚束ない足場にしっかりと踏ん張りながら、こころが浮足立つのを抑えられずにいた。

考えるだけでドアの前を死守するでもなく、車内が混みあってくればアナウンスの声に従って「順番に奥の方へ詰める」僕は、きっとよくもわるくも頑張ってこなかったから、ほんの1秒とか10秒とか、もしかしたら60秒とか、そういう単位の幸せを逃し続けた。

それが溜まりに溜まって、特別に不幸でもなく、だけど本物の達成感に溢れた10秒のことを知らない平凡な学生になり、そうやって人生の土台を作ったから、特別に人に期待されるでもない、邪魔にされるでもない平凡な社会人の一人になってしまったのかもしれない。

すぐに降りるからとこころの中で言い訳をしながら、地下鉄のドアの前に意地でも張り付いてみせるように、いつもここぞというところではほんの少し我を張ることを知っていれば、もしかしたら今頃は、60秒どころか10000秒の、いや10000時間の幸せを、佐奈さんと過ごせていたかもしれない。

地下鉄車両のちょうど中央でつり革に掴まり、目の前の若くてキレイっぽいお姉さんの膝に自分の膝がぶつからないよう気を付けながら、僕は今日の帰路、ドアの前に張り付くことには失敗したけれど、佐奈さんとの10000秒をもぎ取ったのだという強い満足感に、始終ふわふわとしていた。


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「いつか殺されちゃうかも」

というのが、佐奈さんの口癖だ。

美味しい食べ物を食べたとき、美味しいお酒を飲んだとき、口に含んだものをゆっくり飲み込んで、こんな風に言う。

もしくは、ついに明日から休みだ、2連休だ、という夜。

遅く始まった夕食、注文してから出てくるまでが遅い店、それでも明日の朝起きる時間のことを考える必要もなく、苛立つ必要もなく、むしろそんなもったいぶった時間の使い方に贅沢さすら感じて、丸48時間とロスタイムみたいなこの夜は自分のものだ、という幸福感に包まれたとき、こんな風に言う。

僕は佐奈さんのこの口癖が嫌いだ。

彼女が感じるささやかな幸せについてくる罪悪感の発表みたいなこの癖が嫌いだ。

自分が感じる最も身近で手軽でちょうど良い幸せに、罪悪感を足さなければつり合いが取れないなんて、なぜこの人は考えなければならないのだろう。なぜ佐奈さんがそんなことを考えなければならないのだろう。

「ごめんね亮くん、向こう、まだもうちょっとかかるって」

「うん、知ってる」

「9時半までには出れるって」

「あー、じゃああと一時間…半くらい、か。どおする?」

10000秒には届かなかったか。5400秒と、「向こう」が僕たちのところにたどり着くまで、たぶんあとプラス1000秒くらい。

「とりあえずお腹空いちゃったし何か入れたいかなあ」

佐奈さんの顔に余裕があるのは、明日から貴重な2連休だからだ。いつもはもっとシンデレラみたいな顔をしている。

「じゃあドーナツでも食って待ってよう」

「んー甘いものよりは」

「じゃあモスかどっか行く?」

一時間半を潰す。たった5000秒ちょっと。短いな、と思う。

「モス」と佐奈さんは両手のこぶしを胸の前で握りしめながら言う。「押忍」とかけてる。

佐奈さんのこういう、ツッコミにくい小ボケが僕は大好きなんだけど、ツッコミにくいのが困る。

「押忍、とかけたの?」

うまいツッコミをひねるヒマもなく、ただ確認するだけの、分かったことに気付いてもらうためだけの、つまらないことを僕は言う。

「お、よく分かったね。さすが!」

でも佐奈さんはいつも分かってもらえただけで満足そうなのだ。

「分かるよ、でも押忍なら手は腰の横じゃない?」

「こまかー。分かったんだから良いじゃん」

「いやそれは…」

「うん、亮くんだからだよね」

僕は佐奈さんに、腹減ってるならあそこのピザでも食べに行こうとは言わない、あの店はカクテルの種類が多いからどうこうとも言わない、寿司食いに行こう今日はおごるよとも言わない。

僕は「向こう」が仕事を終えるまでの一時間半を潰す佐奈さんとの時間を潰す。お腹いっぱいになり過ぎないように、連絡が来たらすぐに立てるように、できるだけ落ち着かない場所、最低限の注文で済む場所を選ぶ。

10000秒あったら違っただろうか。

それでも多分僕は言えない。いままで頑張ってこなかったから。今日は頑張ろう、今日こそ頑張ろうと思っても、急にそこまで頑張れない。5000秒ちょっとをもぎ取っただけで、僕は今日、ずいぶん頑張ったんだ。

4種のチーズがたっぷり乗ったピザを食べて、200種類以上もあるカクテルのメニューを見て、宝石のように並ぶ8貫の寿司を見て、「殺されちゃうかも」と、佐奈さんは、決して言わない。

だってそんなこと、僕に言ったって仕方ないから。


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5000秒とちょっと、多分プラス1000秒かそこら待ってると、佐奈さんの携帯に連絡が来たから、僕らは席を立った。

「”うこっけい”にいるってさ、早く来いって」

「なんだよおれらが待ってたのに」

「疲れたんでしょ、あそこにいるってことは。アピールはげしーなー」

ケラケラしてる佐奈さん。疲れたんでしょ、とか、そういうこと、癒しがいがあるなあ、みたいな顔で言うのはほんとやめてほしい。

「烏滑稽」は上田さんが焼き鳥を食べたくなったらよく行く店だ。そしてこれはあくまで佐奈さんが言うにはだけど、上田さんが焼き鳥を食べたくなるのはとても疲れているときなのだそうだ。

僕らがいたモスバーガーからは少し離れているが、タクシーや地下鉄を使うほどではないので徒歩で移動することになる。

風が吹き付けて、やけに重いドアを半ば肩で押して開ける。

5月下旬の北海道の風はまだまだ冷たいこともあるけど、今日はときおり生暖かい大柄な突風が吹く日だった。さっき、地下鉄の階段を昇るときにもそれは感じた。浮足立ってた僕はいつもより激しいけど暖かい風に乗ってやってくる夏の気配を心地よく感じて、地下鉄の中でかいたじっとりした汗も爽快に乾いていくようで、心地よさ、それからやっぱり背中に残ってる汗のしつこさ、そして性急すぎる僕のおかしさが、階段を上がるに従ってこみ上げて移り変わって、結局、階段を昇り切ったとき僕が漏らしたのは、「きょう夏っぽいな」って一言だけ。息を整えるので大変だったから。

「うわ、今日かぜ強いよねえ」

佐奈さんの髪の毛が流れる。髪の毛、というよりは耳を抑えながら、僕の背中を押して、早く広い道に出ようと言う。

僕が佐奈さんと二人きりでいられる時間が600秒くらい増えたのは嬉しかったけれど、そんな風に何秒増えたって考える僕がかわいそうだと思った。あんまりだと思った。

上田さんは僕らを待たせておいたくせに自分の好きな店にとっとと入って、僕らを平気で呼びつけるような人だ。疲れたと口にしなくても、佐奈さんに疲れてるんでしょって思ってもらえるような人だ。

佐奈さんは僕が地下鉄を降りてすぐ駆け出したことはしらないし、長い階段を駆け上がったこともしらない。息を整えてから、でもその時間ももどかしくて、少し息を詰めるようにして「いまどこ?」の電話をしたのもしらない。

上田さんは好きなお店にぷらっと入るだけで、他でもない佐奈さんに労わってもらえる。あんまりだ。

上田さんはきっと頑張ったんだ。ここぞというときに、今日の残業でも、そして佐奈さんを最初に誘ったときも、少々強引に我を通して、ここは一歩も引かないぞって踏ん張って、10000秒なんてケチな時間の数え方をしなくても済むように、今まで生きてきた。

僕と全然違うな。僕だってきょうは頑張った。残業を断っただけだけど。劣等感と、僕が上田でなくて良かったという気持ちと、僕が上田ならという気持ちで、せっかくの600秒が、せっかくの佐奈さんとの二人の時間が、幸せ以外の、嫉妬とか自己愛とかそういう感情で満たされてしまいそうだった。

大柄な風が耳に入り込んできて、頭痛、そして空洞を感じた。


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たっぷりタレがついた「大袈裟レバー」を口に含み、お酒を少し飲んで、佐奈さんはやっぱり言った。

「はぁ~、おいしー。仕事終わりの焼き鳥幸せすぎる!殺されちゃうかも」

「はいはい、出た出た」

「げんこつから揚げ」と「じまんの燻製卵」2個と中ジョッキを先に注文してた上田さんに待つ席について、ほんの500秒後に僕の大嫌いな口癖が出た。喉がつかえる感じがした。脈拍がトンと飛ぶ感じ。動揺。不整脈。

上田さんは口元で笑いながらビールを飲み干す。

モスのポテトを食べたときは何も言わなかったのに、まるで今日初めての食事みたいな顔でレバーを食べる佐奈さんは嫌いだ。

僕はしってた。殺されちゃうかもって言うのはちょっと脅しなんだ。僕はしらないことになってるのかもしれないけど、わかる。そりゃわかる。

奥さんにバレたら、わたし、殺されるかもしれないよ。

もしかしたらあなた、殺されるかもしれないよ。

忘れないでね、私は嫌なんだからね、幸せになりきれないんだからね、美味しいもの食べても、明日も明後日も休みでも、あなたといる限り、幸せには、って佐奈さんは言ってるんだ。

なのになんであんたは「はいはい、出た出た」なんてつまんないことしか言えないんだ。分かってるようるせえな、何だかんだお前、好きでこうしてるんだろ、楽しんでんだろって顔でビール飲むの、本当にムカつくからやめてほしい。

僕だったら。

僕だったら、やっぱりつまらない返事しかできないのかもしれない。それって脅し? って確認するように聞いたら、よく分かったね、と言って満足そうな顔をしてくれるかもしれない。そんなんで僕も満足して、結局上田と同じように、はいはいって感じで流すのかも。

羨ましいなあ、と僕はこころから思った。二人の間だけで通じる会話みたいな、秘密のやりとりみたいな、そういう特別感で満たされたフィールドで二人きり。秘密の世界にタイムリミットはなく。数々の制限と、約束と、需要と、供給がマッチして、お互いしっくり楽しいんだ。

僕なんかから見ても、やっぱり好きでそうしてるように見えるよ佐奈さん。約束も制限も大事に大事にしてるように見える。不都合も不満も不自由も全部わざわざ選んで寄せ集めてるように見える。たまに。


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「ちょっと家に電話入れるわ」と上田さんが言った。

時計を見て、あたかも今気づいたかのように振る舞っているけれど、上田さんはさっさと電話を終わらせたいと思ってる。佐奈さんといながら奥さんに電話するこの時間を上田さんはアリバイ工作と辺り憚ることなく呼んで、そうやって名づけることでしっかり張り付けられた罪悪感をすべて僕になすりつけるように、電話を僕に押し付ける。

「あ、もしもし、沢井です。お世話になってます。あ、はい、いえ、いえ」

奥さんは僕を気遣ってくれる。いつも旦那のお酒に付き合わせてすみませんというようなことを言う。いつも、のところにこころなしかアクセントがある。不自然ですよ沢井さん、そうですよね、はいでもしょうがないんです。そうですよね、はい、じゃあすみませんけど旦那のことよろしくお願いしますね、あ、代わっていただけますか? ……え? 旦那にですよ? ああ、ええ、はい、そうですよね。それでは、失礼します、えと、代わりますね。

佐奈さんに電話を代わったらどうなるだろう。いつも僕が奥さんと電話するときは息をひそめて、たいていグラスの中身を見つめながら、何かが行き過ぎるのを待ってる。氷が溶けるのを見つめている。上田さんは僕が余計なこと言わないように見張るような顔で、僕の、多分肩口辺りを見る。

言っちゃおうかと何度思ったか。僕はいつも電話のあと帰されて、あとは長谷川さんという女性社員と、ええ、この方は僕と同期で、僕の好きな人なんですけどね、その長谷川さんと二人で夜を楽しむんですよ。僕が上田さんに飲まされることなんてないですよ、僕が上田さんに部屋まで送ってもらったことなんてないですよ、仕事の愚痴を延々聞いてもらったこともないですよ、二年前ならまだしも、今は部署も違うんですから。たまに朝帰ることがあるのは僕が旦那さんにお世話になってるからじゃなくて、旦那さんが僕の好きな女性にお世話になってるからなんですよ。今日も旭川に出張なんて来てないですよ。もちろん、分かってると思うけど。

上田さんに電話を渡すと、今度は僕が息をひそめる番になる。じゃ、そういうことだから……、あ? 分かってるよ、飲ませ過ぎないから、はいはいちゃんと言っとくよ、大丈夫、そんじゃ、日曜の夜には帰るから。


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いつも通り、電話を切った後の会話はひどく空転したものだった。

会話を楽しむための会話。会話があって、お酒があって、それで楽しいんじゃなくて、楽しい酒の席には他愛のない会話と酒が必要だから用意された他愛のない会話と酒。

この共犯関係を円満に保つための、おざなりな会話だ。

それでいて丁寧。過剰に丁寧。ちょっと酔って、一通り会話も尽きて、おしぼりとかストローの袋をキレイに畳んで遊ぶときみたいに、必要以上の慎重さで場が畳まれる。そう、ちょうど畳まれていると感じる。この席で僕は使い終わったおしぼりと丁度同じくらいの地位。もう用済みだけどあとでテーブル拭くときとかに使えるかもしれないから、とかそんな理由で一応キレイに畳んで隅に置いておかれるような地位。そう考えるとちょっとおかしくなる。できればこの自虐は佐奈さんに聞かせたい。佐奈さんが当事者じゃなければ多分けっこう笑ってくれる話だと思う。

ケラケラ笑って、それ最悪じゃん、で、なに、その上司も、相手の女の人も電話のあとはやけに優しいんだ? まさか亮くんそれが嬉しいの? 根っからだね、根っからのおしぼり体質だね。

……なんだよおしぼり体質って。

知ってた? 居酒屋とかで出てくるおしぼりってあれ使い捨てじゃないから、何回も使われるんだよ、外部に洗濯頼んで、また仕入れてだから、色んなとこ巡ってるの。色んなところでぞんざいに扱われるけど、すごく大事に使われてるの。色んな不倫のアリバイ工作に使われるようになったら亮くんも一丁前のおしぼりだよ。

いや一丁前のおしぼり目指さないよ。

素質あるのに?

素質って、佐奈さんはおしぼりの何を知ってるんだよ。

いやーこれでもけっこうな数のおしぼり見てきてるからね。

居酒屋とかででしょ?みんなと大差無いと思うよ。

立派なおしぼり。

だからね佐奈さん、なりたくないの。どっちかと言えば僕は一丁前の人間になりたいの。

どちらかと言えばかい。迷わず人間目指しなさいよ。おっかしーな亮くんは。

僕は満足。


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僕のグラスが空になったら上田さんが呼び出しボタンを押す。

2人からの質問が増える。いつも自分の話ばっかりの上田さんが、僕の話を親身になって聞く。僕は全然悩んでない悩み事を打ち明ける。仕事の話とか、趣味が無くてって話とか、あとは妹が急に歴女になって、とか。でも結婚の話題は選ばない。そろそろ結婚したいんですけど相手がいなくて…とかそんな話はしない。結婚がうまくいってない上司の前でこんな話をするほど空気が読めないヤツじゃないと僕は僕のことを評価してるし、じゃあ私の友達紹介しようか? きっと亮くんなら…とか佐奈さんが言いそうなことを絶対に言わせたくないから、結婚どころか恋愛絡みの話も絶対に選ばない。そういう話題を二人から振られることもない。恋愛の話題は僕らのタブーなのだ。

2対1みたいなこの構図が嫌だ。二人にとってのゲストみたいな扱いをされるこの時間が嫌だ。

ならつまらないという顔をすれば良い。怒れば良い。なんで僕が二人のごちゃごちゃに巻き込まれなきゃいけないんですかってはっきり断れば良い。なんでよりによって僕なんだ、なんでいつも狙いすましたように僕なんだ。2人の罪悪感を僕になすり付けるのは止めてください、二人の罪悪感を僕で拭おうとするのは止めてください。そうやって、おしぼりを二人で一緒に使うみたいなことは止めてください。そんなのでも羨ましいから。

僕は二人だけの罪悪感に少しでも関わっていたいと考えている。不純物みたいな僕がいる間は、二人の罪悪感は純粋じゃなくて、純粋じゃないからこそ罪悪感がちゃんと罪悪感になる。誰にも理解されないとか、誰にも話せないとか、そんなのは許さない。

僕らの付き合いは長いから、質問も尽きるのが早い。僕の悩みはそもそもあまり多くないし、ほとんどがでっちあげだ。聞かれるから答える程度のもので、上田さんだって本気で僕の悩みに興味があるワケじゃないことは明らか。言ってみようか。僕には好きな人がいて、その人は上司と不倫してて、そんなの絶対幸せにならないと思う、その人が辛い思いをするのは僕も辛い、とか。

その人が辛いとかじゃなくてお前はどうなわけ。じゃあお前がその子のこと幸せにしてやるとかそういうことは言えないわけ? それじゃお前その人のこと好きとか言う資格ないんじゃないの。

想像の中の上田さんも、バカみたいにつまらないことを言う。この人はいつもつまらない。気の利いたことの一つも言えないで、どっかの誰かが、どこの誰もが言うようなことばっかり言って、それでいて自分は自分を持ってるとか思ってる。自分の足で立ってると思い込んでる。シンプルに王道を突き進める人は強いと思う。我を疑わず、迷わず我を通せる人は強いと思う。多分上田さんは言うのだろう。俺がお前を幸せにしてやる、俺を信じろ。後先考えないで奥さんのことも考えないでこういうつまらないことを言うのだと思う。それが男らしいとか思ってる。でも結局欲しいものを手に入れるのはこういうタイプの人間。不倫はバレるけど、何だかんだ不倫が許されるのもこんな人間。

汗をかいたグラスをぐるりとおしぼりで拭く。店のマスコットキャラクターがグラスに印刷されている。鶏が酔っぱらって顔を赤くして、バカみたいな顔をしてる。滑稽な烏骨鶏。滑稽なニワトリ、滑稽なチキン。僕が自己紹介してるみたいな店だ。あてつけかよ。これも佐奈さんに話したらけっこう笑ってくれるかもしれない。滑稽な、チキン、おしぼり、汗を拭く。

「こう、溶けていく氷見てるとさあ、なんかジリジリって音、聞こえてくる気するよね?」

佐奈さんは僕によくこんな話をしてくる。なんか、なんて答えて良いんだか分からないこと。

「え、気するっていうか、聞こえるよ。集中したら聞こえる」僕はかなり適当に答える。佐奈さんだって適当に口を動かしてるだけなんだから別に良いんだ。

「うそ、これ本当に聞こえてたの? ジリジリって音出てる?」

そう言って佐奈さんはグラスに顔をぺったりとくっつけて、「あー、ちょっと待って、これ、あージリジリ、ジリジリ、聞こえるかも! 聞こえてるかも! てか気持ちいー、グラス冷たくて。私、もしかしてかなり酔ってる?」

「さあ、酔ってる気してるだけじゃない? そんなに飲んでないしょ」

「え?こっちが気のせいなの? 氷の音は本当で、この心地よさは偽だと言うの?」

「知らないよ、自覚できないなら酔ってるんじゃないの?」

「ちょっと亮くん、そんな意地わるいこと言うのやめようよ。酔いが醒めるよ」

「酔ってんじゃん」

「あー私幸せだあ、ほんと、これ亮くんのおかげ。分かる?」

僕は返事ができなくて、ウーロン茶をズズズと飲んだ。

僕もつまらない。佐奈さんも。


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20分後、僕がいつまでも席を立とうとしないから、上田さんがしびれを切らした。僕のグラスが空になったタイミングで、また呼び出しベルを押したかと思ったら、スタッフに言ったのは「お会計」の一言だった。上田さんは下座にいた佐奈さんに自分の財布を無言で預けると、少し間を置いて、「休み、なにすんだ?」と僕に聞く。

僕が「別に、これと言って予定は」と言い終わるか終わらないかのうちにお会計は済んで、財布が上田さんの手元に戻るときには既に僕に何を尋ねたのかも覚えていないような顔だった。

いつもは空気を読んで、適当な理由を付けてお暇するのが普通なのに、今日はなぜかいつまでも席を立たない僕に、いつもよりテーブルにしがみついて頑張っている僕に、上田さんは明らかに苛立っていた。僕はいつも空気を読んで席を立っているだけで、あくまで明日早いとか、ペットが病気でとか適当な嘘をついて(そもそもペットなんて飼ってない)、席を立っているだけで、二人にアリバイ作りを頼まれている訳でもないし、二人の関係を応援している訳でもない。空気を読んでるのも多分、こんな役割でも佐奈さんに大事にされたいからであって、上田さんが僕をコントロールしている訳じゃないという点は勘違いしてほしくない。こんな風にしか頑張れない僕はちょっと残念だけど、急に別人みたいには頑張れない。

2人が立ち上がったから、僕もしぶしぶ立ち上がり、重いコートを羽織って、掴みどころのないカバンを手に下げ、店を出る。

店を出るとやっぱり感じたのは、ぬるい強風と夏のような香りだった。爽やかさ、そして吐き気を促すような情けなさ。

佐奈さんはまた耳の辺りを抑え、次は胸元に何か抱えているような仕草で、僕らの後についてくる。僕らを風よけにしてるのかもしれない。

「猫だったか……、は、大丈夫なのか?」と強風の隙間を縫うような軽い声で上田さんは言う。

「先週死にました!」と僕は、「かしこまりました!」みたいな明るいトーンで答えた。傷ついた人間を傷つけたことを少しでも引きずって、二人のこれからの夜も少し傷つけば良いと思いながら。

でもこんなことでは上田さんは傷つかない。

見知らぬ飼い猫をこんな理由で殺してしまった僕ばっかりがまた、自分の女々しさを知り、こんな頑張り方しかできないのかと笑いたくなって、後ろにいる佐奈さんを思い出した。

振り向くと、佐奈さんの白い喉が見えた。猫みたいに首を伸ばして、真上を眺めているようで、ドキリとした。謝りたくなった。

「ねえ、すごいよ雲。すごい速い」

高い建物の上を過ぎる雲の流れは速く、僕らが歩く道を流れる風の強さとよく噛みあっていた。

「なんもない方が良いよね」

やっぱり何を答えて良いか分からないようなことを佐奈さんは言うけれど、僕はとりあえずそうだね、と答えてから、聞こえなくてもいいやってくらい低い声で言った。

「あの建物の上を過ぎていってる風と、この、ぼくらにバシバシ当たってる風とでは、多分行けそうな場所も、行きたい場所も全然違う、だろうね」

「分かる。たまにすごく上の、何も頓着しない、あんな…」

佐奈さんの声の続きは風にまみれた。最後まで聞く必要はなかった。

「お前らなにワケわかんないこと言ってんだ。酔いすぎだ。ほら、髪ボサボサになるから早く歩け」

「つまんないよな、マジで。なんかつまんない」

「は? お前まだ飲み足りないのか? 悪いけどおっさんはもう無理だぞ」

「ほんとーにつまらない。つまらないことしか言えないのかよ、あんた。発情しすぎだろ」

上田さんとは目を合わせなかった。僕は300メートル上空に灰色の地平を敷いて、そこにしっかりと立って、緩やかな起伏の続く夜の群青に輝く平原を眺めていた。

遥か下のコンクリートの上で「あ?」と上田さんは一言発した。なんだか、怒り方までつまらなかった。自分が怒ることが、相手にとって深刻な事態であるはずだと言ってるよう。この一言で十分なはずだぞと、言っているようだった。

「は。ははは、つまんないって。上田さん確かに全然分かってないよね。ねえ亮くん。頭固いおやじだ。まあまあ、上田さんも、亮くんペットが死んじゃって苛立ってるんだからここは無礼講ってことで、好きにやんなさいってことで、いいですよね?」

「佐奈さん、今日は俺と行こうよ。明日のことも、明後日のことも、これからのことも、何も頓着しないで。いや、とりあえずこの連休は」

「え? え? なにどうしたの亮くん」

「ごめん、なんでもない。でも今日は、俺と帰って、それから少し酔いを醒まして、ドライブにでも行きませんか」

「どうして?」

「好きだから」

「それは、どうして、いま?」

今しかないと思ったから。僕が頑張れるのは今しかないと思ったから。だけど佐奈さんを困らせている自覚が喉につかえて、言葉にならない。


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上田さんがタクシーを止め、強引に佐奈さんの腕を引き、車に乗り込んだから、僕は歩き、地下鉄に乗り、歩き、家に帰った。柄にもなく少し頑張ってしまったから、僕はもう佐奈さんに、おしぼりとしても当てにされないかもしれない。ちゃんとフラれることもなく、お話しもできなくなるかもしれない。

でも今日、最後まで僕は頑張った。

このあと二人はケンカするかもしれない。僕があまりに可哀想だったから、二人の夜も傷ついたかもしれない。

明日、来週、もしくは10000秒後。上田さんのことをつまらないと思ったら、そのとき、佐奈さんが僕に電話をくれるかもしれない。

もしくは10000時間後、僕はあのとき、なんであんな女好きだったんだろうとか、もしかしたら、思えているかもしれない。

何かが変わるはずだ。

僕は今日頑張ったから。


                      おしぼり君、頑張る(完)

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