雪見だいふくで許して

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「今朝、雪が降ったね」と、トーストの乗った皿を食卓に並べながら、妻は言った。

初雪がアスファルトに落ちてはジワリと解けて、黒い水たまりになる映像が頭に浮かぶ。

熱いトーストの上でどんどん溶けるバターが黄色く光る脂の層を作ったとき、僕の頭の中の水たまりも凍って光り、まだ車のタイヤを履き替えていないことを思い出した。

「駅行くならクリーニングに出したシャツ、自分で取ってきてね」

妻の声は冷たかった。

妻は僕が車のタイヤを替えていないことも、いつもバターを塗りすぎることも知っている。

「だから言ったのに」を言いたげな妻の空気を感じなくて済むように、僕は素早く短い返事をした。

冬である。

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妻は僕のことを暇だと思っている傾向にある。

確かに、上司にくっついて監査業務を行う毎日は割に余裕がある。

26歳のときに会計士試験に合格し、27歳になる年にある会計士事務所に就職した。

小さな事務所だったし、人手が足りているようには見えなかったので最初は身構えたが、蓋を開けてみれば決算期などでもない限りほぼ定時に帰れるし、まだ一人で企業を担当するわけでもないので責任の面でもあまり重いものは感じない。

想像より仕事はハードではなかったが、一般的な水準と比べて暇というわけではない。

少なくとも、7時に閉まるクリーニング屋さんに間に合うようワイシャツを引き取りに行くというミッションが立ち上がった今では、どう考えても定時に上がらなければその遂行は不可能なのだから、妻の今朝の一言により今日は急に忙しくなった。正確には気が急いた。

もし今日、クリーニング屋に寄れないまますごすご家に帰れば、妻はいかにも残念なものを見るような目でおかえりと言って、特に何も聞かず、言い訳の機会すら与えられない生き地獄に僕を突き落とすのだろう。

言い訳ができないのはキツイ。

日々監査業務のようなことをしていると分かるのだ。みんな、当たり前に言い訳をする。

一般的に厳しいものだと言われる社会の中にあって、数多の荒波を潜り抜けて来たであろう歴戦の経理部長が真面目な顔で僕らに話す内容は、よく聞けば洗練された言い訳だったりする。もちろんそれは許される。言い訳という言い方はいかにも良くないが、世の中に落ち度やミスやうっかりが無い人間なんていないのだ。企業法人もまた然りなのだ。

人の仕事とは結局のところ人が人であるが故のトラブル処理の連鎖に過ぎないのだから、誰もが言い訳をして、取り繕いながら、またそれを許し合いながら、グルグル回るものなのだ。

だから、世の中の経済が回らない原因は他者を許せない社会の不寛容にこそあり、他者にパーフェクトを求める姿勢にこそ硬直を産む因果がある。

言い訳を否定するということは、すなわち人間を、ひいては僕たちの社会を否定することと同じなのだ。

僕は、ところどころ黒く凍り付いたコンクリートを慎重に踏みしめながら、こんなことを考える。俯きながら歩いたりすれば、人は自然と思索的にもなるのだろう。

とにかく僕は、革靴の音に冬のリズムを存分に感じながら、駅までの道を半ば欝々と、半ば朗々と突き進んだ。

今本当に厳しいのは社会ではなく我が家である。少なくとも今は、家から出て仕事に行けるのがこんなにありがたい。言い訳の機会も与えられない不寛容な家庭では僕の心が硬直し、家庭での居心地が極端に悪くなるのだ。

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第一、この件に関しては僕の方でも問い詰めたいところがある。

なぜ7時に閉まるようなクリーニング屋さんにワイシャツを預けるのか。

9時や10時までやってるクリーニング屋なんていくらでもある。何ならたった今通り過ぎたスーパーの中にも9時までのクリーニング屋はある。なぜわざわざ、朝早くからやってる代わりに7時に閉まってしまうような、ばあさんとじいさんが二人でやっと切り盛りしてるような店を選ぶのか。

家から近いからか、妻のパート先の行きがけにある店だからか。

いや、分かってる。妻は店を変えられないのだ。慣れ親しんだ場所でなければ落ち着いてワイシャツも預けられない。慣れ親しんだ人でなければ弱みを見せられない。

僕のワイシャツは弱みか。襟が黄ばんだ夫のシャツはそんなに人に見せたくないものなのか。

襟元が黄ばむ想像をすると、やけに襟が首筋に食い込んでいるような感じがする。

少し太ったのかもしれない。

そうするとまた、「だから言ったのに」と僕を問い詰めるような妻の態度が頭に浮かぶ。寝る前に甘いものなんか食べない方が良いよ。ちょっとは歩いた方が良いよ。

うるさいうるさい。今歩いてるわ。

仕事でもね、けっこう歩くんだよ。デスクワークばかりじゃないんだよ。

改札に向かう下り階段を歩きながら、帰りのことを考えた。帰りはここを上るのか。その上あのクリーニング屋に寄らなければならないのか。出社する気楽さに比べ、帰宅する気重さが計り知れない。

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今二人で住んでいる家だって、当たり前のようにそのクリーニング屋が想定に入っていたことに驚いた。できるだけ駅から近い方がとか、コンビニはローソンからもセーコマからも近い方が良いとか、そういう割と自然な立地選定の項目の一つに、そのクリーニング屋さんに徒歩で行けるかどうかが妻の中にはあった。

同棲を始めるにあたって初めて目の当たりにした文化的なギャップである。

僕はそもそもクリーニング屋というもの自体、あまり使ったことはなかった。対して妻は学生時代からよくそこを利用していたらしい。聞けば、春にはコートなんかをまとめてクリーニングに出すし、毛布なんかも自分では洗えないと言う。あと自分では洗えない服がいくつかあるのだそうだ。

ほお女の子はコートや毛布を毎年クリーニングに出すものなのか。だからどことなく部屋も良いにおいがするのかと感動したものだったが、一緒に暮らすようになるとそういった当たり前の水準の違いが窮屈に思うこともあった。

とは言え、僕もこれからは毎日スーツで会社に通うことになるのだから、まったくクリーニング屋の世話にならないなんてことはないだろう。当時はまったく文句がなかった。

妻がそのクリーニング屋を使いたいと言うのなら、クリーニング屋にこだわりがない僕はその意向に従うことにまったく抵抗はないし、妻がいることで僕の衣類寝具の清潔さのレベルが上がるなら、文句なんてあるはずがない。

女性と一緒に暮らすというのは良いものだなとすら思った。

しかし妻のそのこだわりを、こうした形で夫に押し付けるとなれば話は別だ。

彼女は僕のだいたいの帰宅時間を知っているのだから、7時に閉まるクリーニング屋にワイシャツを取りに行けというミッションが負担になることは知っているだろう。

これはイジワルだ。僕を困らせようとしている。

でも僕は屈しない。僕は妻がクリーニング屋を変えられないという臨機応変さに欠けたこだわりにも寛容さを示すことができるのだということを証明しよう。

君は最近ピリピリしすぎだ、家の空気が重くなる。場合によっては、はっきりと、そんなことを言っても良い。

とは言え、時間のことを差し置いてもあのクリーニング屋に行くのは気が重い。

あの夫婦は妻の顔はもちろん、僕の顔だって覚えているのだから。

ベテランの夫婦で、ベテランのクリーニング屋なのだから、もしかしたら僕が閉店時間ギリギリに、差し迫った様子でワイシャツを受け取りに来る姿から、僕らの夫婦生活に生じた些細なシワや黄ばみの気配を嗅ぎ取るかもしれない。

妻はそれを期待しているような気がする。

そういう風に言葉にならない弱音を吐いて、人に気を遣わせるのがうまい女だ。

言葉よりも態度で、口よりも目でモノを言う妻は、いつも僕に言い訳を許さず、ただ呼吸の度にその場の空気を固めていく。そういうコミュニケーションの方法に、僕は妻の幼さを感じる。黙ってふてくされていれば誰かが意を汲んでくれると思っている。

そういう、猫みたいなところが好きだったんだけど。

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地下鉄に乗れば、男性はともかく女性の装いの変化には気付く。

男性はせいぜい薄手のマフラーをしている人がちらほらいる程度だが、女性はみんな見事に冬もののコートを着ていて、よっぽど寒がりな人はマフラーまでしっかりして、寒気を寄せ付けるつもりがまったくなさそうだ。

多くの人の膝の上にはお行儀よく手袋が置かれている。装着したままの人もいる。通勤時に音楽を聴く人や本を読む人は手袋を脱ぐのだろう。脱がないのは、降りる駅が近いか、隙間時間に何かをする習慣がない人だろう。

普段車を使って直接会社に行くと気づかない装いの男女差のようなものを見た。冬に対する準備の違いを見た。そういうものに集中すると、男と、女が、同じ家で暮らすのは無理がある、と思った。

女の人たちはみんな、春にはコートをクリーニングに出して、雪が降ればすぐに着られるようにしておくものなのだろうか。毎年新しいコートを欲しがるくせに、春にはきちんとクリーニングに出すのはおかしくないか。

もしかして、妻が唯一洗濯を頼めるあのクリーニング屋さんも、季節の変わり目は忙しくなるのだろうか。7時までしかやってなくて、じいさんとばあさんの二人だけでせっせと働いているあの店も、季節の変わり目には、とりわけ春には、何着も何着もコートを洗うのだろうか。

冬には何を洗うんだろう。果たして夏の服はクリーニングに出すのだろうか。もし冬に洗うものがないのなら、僕のワイシャツやスーツを洗ってもらうのは、けっこう良いことなのかもしれない。

地下鉄が止まり、また進みを繰り返し、僕の身体が我が家から離れていくに従って、妻への鬱憤が薄らいでいくようだった。いつもは家を出たら考えることのない妻のことを考えれば考えるほど、こころの面で突き放すのが難しくなり、ああなんとか、なんとか今日の夜には、機嫌を直してもらえたらと思う。

初雪が凍らせたコンクリートが、日が昇るに従って湿っていくように、やがて乾いて何事もなかったかのようになってしまうように、僕のぶつくさをこねる思考回路や、妻の態度に不満を感じるこころは、家から、妻から遠ざかるに従って、干上がって、何事もなくなってしまう。

いや、今回は、妻の幼さに向き合わなくてはならないと僕は思った。夫婦生活は長い。まだ始まったばかりだ。これから先、同じ問題で何度も家庭がせせこましくなるのはごめんだ。なあなあにせず、ケンカをするのならしっかりケンカして、お互いに理解を深めるべきだ。だから僕は謝る必要はない。だいたい、何を謝れば良いのかも分からない。何が不満なんだあいつは。

だいたい、妻のあの何か言いたげな、不満な様子をしておいて、面と向かって何も言わない癖はずっと前からあるのだ。こっちは君が思っているほど暇じゃない。出社すれば、ゆっくり考えてる暇なんてないんだ。君のことを考えられるのは、せいぜいこの、通勤の時間だけなのだ。

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思いだすともなく思いだすのは、3年くらい前の冬のことだ。

この休日はちょっと小樽にでも行って、温泉に行こうなんて約束をした日。

約束は朝の9時だった。

札幌駅の北口で待ち合わせをした。

僕が車で迎えに行くから、西側の入り口のところで待ってて。ほら、目の前にコンビニがある、あそこで。

その日、僕は寝坊したが時間には遅れなかった。時間通りに北口に車をつけると、彼女は特に旅行に期待することは何もないという顔で、いやむしろ不機嫌そうな顔をして車に乗り込んだ。嫌な予感がした。

「けっこう、待った?」

「待ってないよ」

「朝ご飯は?」

「食べてない」

「どうする? コンビニとか」

「そうだね」

言葉数が少なく、車内の空気が少しずつ押し固められていく。コンビニに立ち寄って、僕が車中で食べられる品物を物色している間に、妻(当時は結婚してなかったから恵は、か)は、さっさとお茶とサンドイッチを買って外で待ってる。

僕は慌てて品物を選んでレジへ向かった。車にはカギがかかっていた。ここからセンサーは届くだろうかと思いながら、ボタンでキーを開錠すると、ライトが二度パッパと光って安心した。恵はそれを見たと思ったが、僕が店を出るまで入口でボーっと待っていた。

「ごめん、鍵開けたの分からなかった?」

「んー」

「早く行こうぜ」と、少々明るく振る舞って、僕は恵を促した。

恵が不機嫌な理由は後々に分かった。

コンビニから出て三十分は経っていただろう。しぶしぶという感じで口を開いた。

「やっぱさ、屋根に雪積もってたら危なくない?」

やっぱさ、というところに、含みを感じた。ずっとずっと気にしてたんだという意味だ。僕はすぐに自分の中に反発心が芽生えるのが分かった。

「屋根? ああ、朝時間なくてさ、意外に雪降っててビビったわ」

「いやだからさ、昨日の夜中雪降るみたいだねって話したよね?」

「でも今日の日中は晴れるって予報だっただろ? 当たるよね天気予報。雪降ったと思えないくらい今晴れてるもんな」

「屋根の除雪もできないくらいギリギリに起きたの?」

「ギリギリって言っても、約束の時間には全然間に合ったじゃんか、何ピリピリしてんだよ。せっかくの旅行なのに」

「ピリピリなんかしてないけど」

「してるじゃん」

「とりあえず屋根の雪落とそうよ。危ないよ」

「なに危ないって」

「雪が落ちたら危ないでしょ?」

「どういうこと?」

「屋根の雪落ちたら危ないじゃん」

何が危ないというんだ。かっこ悪い、気に入らないって素直に言えば良いのに。

「あーもう分かったよ。自分たちの車だけ屋根に雪乗ってて恥ずかしいって話だろ?」

「それもあるけど、普通に危ないじゃん。フロントガラスに雪が流れてきたら前見えなくなるし、後ろの車に雪が飛んでいくかもしれない」

後ろの車のことまで考えていなかった僕は、内心恵のこの言葉にドキリとしたけど、車から降りる動作に紛れて聞こえなかったことにして、とにかく雑に、屋根に積もった雪を降ろした。

途中で気付いたのは、積雪の底の方が少し凍っているし、陽気で滑りやすくなっていることだった。

7/9

昼休み、僕はいつもの通り、笹倉さんと一緒に昼食を取った。いつもはだいたいカレー屋である。そして今日もカレー屋である。

僕は出所する道々考えた不寛容社会と景気の関係、そして妻の謎の不機嫌が家庭に不寛容な空気を作っていることについて笹倉さんに話してみた。何となくこの発想が気に入っていたのだった。妻への鬱憤も、同じく既婚者の笹倉さんになら分かってもらえると思った。

ところが笹倉さんは特になにも感じた風はなく、ただ僕が吐き出した理屈を咀嚼して、こう言った。

「ま、景気とか経済のことを言うのであればどうしても波ってのがあるから、不寛容社会の揺り戻しで訪れるのは極度な寛容社会かもね。一部ではもう訪れてる変化だと思う。ほら、自由に生きるとか、自分らしく生きるとか。しがらみとか古い慣習から抜け出して生きる、みたいな」

僕は何となく分の悪さを感じてこう言った。

「寛容社会、良いじゃないですか。好きですよ、僕はそういうの。社会はちょっとギスギスしすぎなとこありますからね。監視し合ってるというか。相手にこうあるべきだって押し付けすぎるというか。そういうのから脱却しようっていう気概を持つ人の存在は社会の希望だと思います」

「うんまあね。良いんだけどね。インフレもデフレも行き過ぎたら誰かこっか困るって話でさ、極度な寛容社会にならずバランスが取れていれば、社会としてはとても良いよね。というか、バランスを取るようにできてるよね」

これは、僕の主張がやんわり否定されたってことなのかな? 

僕は経済や社会の話をしたかったのではなく、妻が不寛容だという話をしたかっただけなのだけど、何となく話しが逸らされてしまった気がして、少々食い下がった。

「そうですよね。でもやっぱりまだゆとりが足りないと思うんですよね僕としては。ほら、離婚率も高いって言うし、不寛容社会の弊害が家庭にまで入り込んでる証拠ですよ」

ゆっくりと水を飲んでから、笹倉さんは言った。

「言い方を変えるとね」

「はい」

「ここで横山君が言ってる寛容とか不寛容っていうのは、どれだけ他人に期待するかってことだと思うんだよね」

「期待ですか」

「そう。もちろん行き過ぎちゃいけないっていうのが前提でね、人が人に期待する社会が良いのか、期待しない社会が良いのかと比べると、どちらが正しいかなんて分からないでしょ。バランスの問題、みたいな話になるでしょ」

「そうですね」

「極度な寛容社会が怖いのは、だから、究極的には人が人にまったく期待しない社会だと思うんだ。もしそんな社会になったらさ、おれたちみたいな仕事はあっという間に機械にとって代わられると思う」

「それは、そうかもしれませんけど……」

だから、僕がしたかったのは家庭の話なのだ。社会の話でも、経済の話でもなく、ましてや会計士事務所の仕事の話でもなく、家庭を冷たくする妻の態度についてなのだ。

「もし、そういうね、人が人に期待しない社会になったとしてね、そんなとき、家の中に横山君のこと期待して見てくれる奥さんがいるって、すごくありがたいことだと思うんだよおれは」

「あー」

ちくしょう。

笹倉さんはどことなくずるい人なのだ。こんな風に言われたら牙を引っ込めるしかないじゃないか。仕事では先輩だから僕よりずっと冷静に先のことを考えられるのは当たり前だと思ってたけど、結婚歴は同じの笹倉さんにこう言われると、なんだかすごく、この人はすごいなと思ってしまう。

「あの、もしかして、僕今叱られてます?」

「はは、いやいや、そういうとこ横山君って今の若者っぽいよね」

「歳なら笹倉さんもそんな変わんないじゃないですか」

「んーどうだろ、4学年違うと中高とかぶんないしね。まあ、そんなことは良いんだけど、強いて言えばおれは今バランスを取ってるよね」

「そうですか」

「叱られてると感じるなら、自分に非があるって気がしてる証拠じゃない?」

僕は悔しくて押し黙った。我ながら子供らしいと思う。

妻に怒られそうなことや、妻が不機嫌になることなんて、分かってるのだ。ああこれもやってないあれもやってない。怒るだろうな、気に入らないだろうなって、本当は、いちいち分かる。

「謝りなよ。帰ったら」

「謝るって、何に謝れば良いんでしょう」

「それは、知らないなあ」

8/9

結果から言えば、職場を出たのは6時過ぎ、二十何分かというところだった。余裕を持ってというわけにはいかないが、クリーニング屋にはギリギリ間に合う時間だった。

クリーニング屋に付いたとき、7時10分前というところだったが、店はもう閉まっていた。

僕の気持ちは複雑だった。僕の方でも少し、あのクリーニング屋に行きたいと考えていたから。

同時に、閉まっていて良かったとも思った。

あの夫婦に、僕たち夫婦の間に寄ったシワなど見られたくないのだ。

嘘だと思われたくないから、僕はクリーニング屋の写真を撮った。証拠を見せなければ信用されないと考えてしまう夫婦関係を鬱陶しく感じた。

それにしても帰りにくくなった。ワイシャツをバシッと持って帰って、今朝は悪かった、と謝る予定だった。何に謝れば良いか分からないけど、とにかく謝りたいという意志は伝えるつもりになっていた。

花でも買っていこうか。いや改まりすぎか。

ケーキを買って行ったら喜ぶかもしれない。でも何だか、いかにも機嫌を取ろうとしているようで気が進まなかった。

仕方がないから、帰り際スーパーに寄って、適当にお菓子やアイスを買って帰った。子どもが選んだみたいなラインナップのカゴをレジに出すとき、また妻の、「お菓子食べ過ぎじゃない?」の声が聞こえてきた。

実際にはちゃんとこう言われたことはないのだ。彼女はたいてい、そう言いたげな顔をするだけ。

9/9

帰宅すると、妻は僕の手元を見たが、持っているのがワイシャツじゃないことを確認しても、思った通り何も言わない。

「おかえり、早かったね」

「おう、ただいま」

僕は買って来たものを冷凍庫やお菓子が入っている棚やらにしまいながら妻に謝るタイミングを見計らったが、果たしてこの世に、妻に謝る適切なタイミングなんて存在するのだろうか。

晩御飯を食べている間も、謝るタイミングなんてなかった。妻の今日の受付がすべて終了している感が尋常じゃなかった。

まだ容疑は分からないが、罪滅ぼしの気持ちで風呂を洗った。その間は居間にいなくても済むという気持ちもあった。

湯が溜まれば、妻に先に入ってもらった。もちろん罪滅ぼしのつもりだが、僕はまだなんの罪を滅ぼしているのかが分かっていない。しばらく一人でテレビを見ていると、なんだか無性にどうでも良い気持ちになってくる。

買って来た雪見だいふくを冷凍庫から冷蔵庫に移した。今日は雪見だいふくなのだ。初雪の日に相応しいと思った。このささやかな幸せだけで今は満足だという気持ちだった。

妻が風呂から出るまであと数分というところだろう。僕も10分程度しか風呂には入らない。風呂から出て、髪を乾かす前にはブツを外に出しておく。これで完璧な溶け具合になっている計算だ。

風呂から出て髪を乾かし終わると、意外なことに、妻から話しかけてきた。

その手には僕が大事に育て上げた雪見だいふくが、人質のように収まっている。

「一個ずつ食べようよ」

「恵の分、あるよ? ハーゲンダッツだぞ」

「んーでもこれ二個は多いんじゃない?」

結局、夜にあんまり食うなと言っているのだ。

「分かったよ」

僕はしぶしぶ我が子のように目をかけた雪見だいふくを片方、皿に乗せて妻に差し出す。これも罪滅ぼしである。

妻は、小さなフォークで雪見だいふくの表面をつつく。もっちりとした感触はもう十分に伝わっているはずだ。破れ目からほんの少しだけ中のバニラアイスが滴るが、半分に割った餅でそれを絡めるようにしてから口に運ぶ。

ちなみに僕は箸で割らずに食べる派である。

「うわ、なにこれ、絶妙なんだけど」

素直に評価されると胸がすく思いだ。

「そうだろ。完璧に計算したからな、冷蔵庫に移してから、さらに少しだけ常温に晒す二段階解凍で絶妙なもちもち感の雪見だいふくになるんだよ」

妻は黙る。黙って僕の顔を見て、ここ最近ではなかなか見られない目元の柔らかさになる。僕は妻のその顔が好きだ、と思う。

そのあと、あ、やばい、言われる、と思う。

「この準備の良さを他に活かせないものかな」

言いたそうな顔じゃなくて、そう言われた。言われるだろうなって思ったんだよな。ほんとほんと、今言われると思ってた。

僕の口からどんな子供らしい言い訳が飛び出すか分からず、せっかく良い溶け具合になっている雪見だいふくの餅部分を、もったいつけるようにつつく。

舌までもちもちととけているようで、口を開く勇気が出ない。でも、謝るなら今しかないじゃないか。

「ごめん」ととりあえず言ってはみたものの、やたらともごもごしてしまう。

「ん、なにがかな?」

「あの、何年前かさ、小樽行った日、車の雪降ろさないまま迎え行ってごめん」

「ええ? いつの話」僕の妻が笑う。

「3年前の、冬だっけ?」

「4年前だよ」

「覚えてんじゃん、え、4年? 4年かあ」

「そりゃ覚えてるよ。こちらこそ、覚えてると思ってなかったよ」

「ほんとはずっとごめんって思ってた。あの日は完全に恵が正しかったけど認められんかった。今日はなんか、そのことばっかり考えてた」

「うんうん。そっかあ。覚えててくれて嬉しい。考えてくれて嬉しい。根に持ってるの私だけだと思ってたし」

もう半分の雪見だいふくを口に運ぶ。

「あの日、私なんてめっちゃ早起きしたのにこいつは寝起きかよって思ったらイライラしちゃって。けっこう待った? じゃないよ。待ってたよ。前日の夜からだよ」

責めるような口調だったけれど、雪見だいふくが美味しそうである。

僕は柔らかい妻の顔を見た。

彼女がこんなに長く喋ったのは久しぶりな気がした。

「ごめんほんとごめん。あと今までずっと、そういうことばっかりでごめん」

「そういうことって?」

「早くやっておけば良いこととか。……タイヤの交換も」

「ギリギリ過ぎるんだよね、何でも」

「うん、ごめん」

「それより、謝ることあるんじゃないの?」

「え? あ、もしかして、ワイシャツのこと、ですか?」

妻は、ふふーんとわざとらしく鼻を膨らませて笑った。そして深々と頭を下げて、「ごめんなさい」と言った。

「今日、定休日でした。さっきお風呂入りながら気づいた。今日定休日だったわあそこ」

「マジで? なんだ! 行ったんだよ? でも開いてなかったから」

僕は証拠の写真を見せようとしたが、携帯はダイニングの充電スポットだった。

「うん、時間的に寄って来たかなと思ってたんだけど、持ってないからさ、忘れてんだろうなどうせとか思ってたんだよね。にしても笑えるよね。土日と木曜に休むの。休み過ぎだよね」

「しょうがないよ。もうけっこうお歳だし。でも笑えはしないかな。やべえ間に合わなかったって焦ったんだから」

「へへ、ごめん!まあワイシャツは明日にでも取って来るよ」

「いや大丈夫、今回は自分で取ってくるから」

「忙しくない?」

「忙しくないよ」

「じゃあ、今回はお任せするね?」

「任せとけ。僕のだし」

「そうだよねえ」

意味深に微笑みながら僕の顔を見る妻は、手元の皿を持って席を立つ。

これが笹倉さんの言う妻の期待の目ってやつかなと思ったが、でろっでろになった雪見だいふくを見て、ああ、これだと気づく。

ざまあみろの目なのだった。

ぼくは妻が皿を洗っているほんの一瞬の隙に携帯を取りに立ち、帰りに撮ったクリーニング屋の写真を消去する。

たぶん。

こういうことは、早めにしておいた方が良いのだ。

雪見だいふくで許して(完)

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