冗談がへたくそ_表紙用

冗談がへたくそ(9999字)

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駅の扉にさわるのが嫌だった。
田舎の古い駅だ。分厚い本のような取手の赤色は赤というより小豆色で、赤になりたがっているのは分かるがなりたがっているだけ、という感じがした。上部が掠れてくすんだ金属が見えている。そこに手をかけるのが嫌だ。今まで何万回と触られた扉に手を沿えるのが嫌だ。
そういうことを言ってしまってから後悔した。
小堺真紀と学校帰りの坂道で出くわしてそのまま一緒に駅に向かった手前、僕が真紀のためにドアを開けたあとだった。真紀は頼んでもいないのにドアを開けてお先にどうぞなんて素振りを彼氏でもない同級生の男子にされておちょくられた気分になったかもしれない。ありがとうと小さい声で言って、今頃目の前を通りぬける自分の姿がスローモーションで僕の網膜に焼き付いてるだろうと言わんばかりの自信ありげな赤い耳たぶをひっさげて古い駅の中に入っていく。
ああ、もうそんなに寒い季節だったっけ、と僕は思う。耳たぶが赤くなるほど、季節は進んでいたんだっけ。
僕は真紀が目の前を通り抜ける間、考えるともなくそんなことを考えながら、触りたくない駅のドアの掠れた部分を押さえている。なんだかそういう不本意を口に出さなきゃ気が済まないような気がした。不公平というか、バランスが悪いというか。僕は気づけば真紀の後を追いながら、「あのドアに触りたくなかった」と言っていた。言ってから、思ったよりずっとかっこわるいって思った。


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真紀は何を言うでもなく、いかにも昔の太い排気筒がついたストーブの近くに寄って、指なしの手袋を脱いでそれをコートのポケットに突っ込んだ。
突っ込んだ手袋がどのくらいコートからはみ出るかまで計算されていると、その前の年の冬、言ったのが真紀だった。そのときくらいから、僕らは度々話すようになっていた。そのとき言った通りに手袋がはみ出している。萌え袖からどれくらい手を出すのが正解なのかも実は決まってるとも真紀は言った。女子高生には黄金比があるらしい。彼女は冗談が似合うタイプではないし、コートからはみ出た手袋がどうとか、萌え袖がどうとかいう話も、自信があるようだったが別に面白くはなかった。なんで面白くないって、痛々しかったからだ。彼女は面白い会話の空気を作るのに向いていなかった。陽気な気配を作り出すことができなかった。大きな声で笑えなかった。表情を作るのが苦手だった。プライドが高い。男子の軽口に手を叩いて笑う顔が良いだけの女を軽蔑してる。だけど人が笑い合うやりとりを指をくわえて見ている女。よく話をすれば私の方が面白いって考えてる。
きっと家族には、面白い物の見方をする子だとか、変わったことを考える子だとか言われて満更でもない顔をしながら育ったに違いなかった。その頃は表情も豊かだったに違いない。真紀の父親はなくなっていて、祖父母ももういなくて、僕はそのことを知っているからそう見えるのかもしれないけれどいつもいつも馬鹿の一つ覚えみたいに寂しそうな顔をしていて、そんな顔から察するに、真紀が面白い物の見方をする子だとか言って褒めたのは父親か、祖父母かもしれなかった。真紀が失ったのは家族だけでなく個性で、伸びるはずだった才能だったのかもしれなかった。


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どうして真紀が僕にばかり「女子高生の黄金比シリーズ」と名付けたつまらない冗談を毎度言うのか分からなかった。思いつく度に僕に教えてくれていた。教室の隅っこで、こうして駅で、電車の中で会ったときにも。
面倒臭かった。特に教室の隅で披露されるのは嫌だった。あわよくば誰か彼女の小さな声を聞いていて、面白いって言われるのを待ってるみたいな姿が痛々しかった。食虫植物みたいだよな。小さい頃なら褒めてもらえたかもしれないけど、もう高校生だし、そんな風に待ち受けていても誰も期待通りに何か言ってくれたり、何かしてくれたりしないんだ。面白い物の見方をする子だねって、そんなに思われたいのか。お父さんがもう言ってくれないから。おじいちゃんやおばあちゃんもいないから。お母さんが真紀を褒めてくれないから。
足りなかったのか。そういう時間が。期待通りに何かを言ってくれる人と一緒にいる時間が、そんなに短かったのか。
痛々しさが鼻についたまま、ストーブを挟んで真紀の向かい側に立って、はみ出た手袋が見えないようにする。もう少し寒くなったらマフラーを巻く。目が悪いけれど授業中以外はメガネをかけない。メガネの印象が主になってはいけない。普段直視できないメガネ姿にこそ価値がある。


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そうやって細かい女子の計算について教え続けられているから、僕は真紀のそういう姿のいちいちにはっきり意図を感じるようになった。
真紀が授業中メガネをかけているのを見た。ある時なんか、真紀は一番前の席に座っていたから、メガネ姿が見られることは多くない。斜め後ろの奴が気づくかもしれないけれど、基本的に影の薄い真紀のこと、どれだけ気にかけるか分からない。だけど真紀は健気に、女子高生の微かな魅力を最大限に引きだそうと努力していた。その姿は悔しいが少し面白かった。
真紀がコートを変えたら分かる。ムートンブーツを変えたら分かる。マフラーを巻く姿を見るといよいよ冬が来たと思うんだろうなと駅のストーブに当たりながら思った。本格的に雪が降る頃にはもう少し髪の毛が伸びて、その髪の毛ごとマフラーで巻き込んだり、胸の前にまっすぐ、マフラーの両端が並ぶように巻いたりと、色々工夫できるらしい。だから、マフラーは出し惜しみをする。寒くなり、いよいよ冬だと感じてもまだ頑張り、いよいよ寒くなり、小雪がちらつく朝、マフラーにうっすら雪の結晶が落ちるところが風流なんだと真紀は言った。それにも増して、マフラーをほどく姿にドキッとするのだと彼女は言った。
彼女の意図を知れば知るほど、僕は彼女が痛々しく感じて仕方がなかった。どうして僕に言うのか。女の子同士で話していれば良いじゃないか。
当時は本気でそう思っていた。


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真紀が僕のことを好きだったんじゃないかって気づいたのは、大学に入って丸2年、恋人らしい恋人ができなくて焦ってた頃だった。二十歳も手前だというのに僕は彼女ができたことがなく、童貞のまま大人になるかもしれないという瀬戸際で真紀のことを思い出したのだった。
僕には今まで浮いた話の一つもなかったのか。モテ期というヤツは来たことがないのか。そんな風に夜中考えて、よくよく過去を思い出そうとしたときに思い出したのが真紀だった。
当時あいつは僕のことが好きだったんじゃないか。そう思うと、逃した青春がひどく尊いもののように見えた。真紀のことはあまり女性として好きではなかった。女性としてというか、人として、興味がなかった。真紀がどれだけ見た目に気を使おうと、計算高い仕草をしようと、僕は真紀に興味がなかった。好意を向けられているという意識がなかったわけではなかったけれど、ありがたくない好意だった。
コートから手袋を出すだとか、たまにメガネをかけるだとかは気にするくせに、顔の産毛を剃らないのはどうしてなんだろう?っていつか本気でムカついたら言ってやろうと思ってた。晴れた冬の日、あの古い駅の中、鼻が赤くなって、口元がガサガサ。間近で見ると口元に産毛が生えていて、ほんの少し青白く見えた。そういうところを見てたぶん僕は幻滅したのだと思う。
だけど二十歳を迎え、女っ気の一つもない部屋でそういうことを考えていると、女子高生の真紀が精一杯艶めかしく誘ってくるような気がした。あんなに間近で女の子の口元を見られる経験をしておきながら、どうして僕はあんなに無関心でいられたんだろう。
僕は真紀でたっぷり妄想をした。
彼女のこだわりすべて、手袋、コート、そしてマフラー。こだわりのある順に一つずつ脱がせていって、どんどん取り繕えなくする想像をした。まだ聞いたことのないスカートの丈や下着へのこだわりもきちんと聞いて、それから取り除いていく。こだわりのすべて、計算のすべてに興味がないと言って、真紀の本当の、取り繕わない姿を愛してあげようと僕が言う。真紀は恥じらい、計算ずくの赤みが身体に差す。
強く勃起して、それから射精に至る。
真紀のことを強くイメージしたはずだったのに、頭に浮かんだのは見たこともない彼女の裸体だけだった。どんな顔が分からない。どんな顔してたっけ。僕は彼女の身体を僕の好みに設定して、彼女のキレイな身体から構築した、おそらく当時より数倍美しい顔を、目の端に思い浮かべた。本気で真紀の顔を思いだそうとすると、彼女の口元ばかりが浮かんできた。上唇の上の産毛。青白い、植物の茎の表面に生え揃っているみたいな髭。


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シャワーを浴びながら、あとで真紀に連絡をしてみようと考えた。今でもまだ僕のことを気にしているはずだし、こちらから連絡したら喜ぶに違いないと思った。
しかし浴室から出る頃にはその気持ちも冷めていた。そうだ、僕は女の子に対していつもいまいち情熱が足りないのだ。つい女性を前にすると欲が維持できなくて、是が非でも手に入れようという気にならない。
それは例えば、すごくお腹が減っているはずなのに脂ぎった鳥の唐揚げとか不自然に赤いエビチリがいざ目の前に出てくるといかにもカロリーが高そうで、飲み込むのが大変そうで、食欲がなくなるみたいなことに近かった。同じようなことが女の子の前でおきた。僕に言わせれば、誰もかれもカロリーが高すぎる。実際に関わるには煩悩とか欲とかが強すぎて、僕には毒なんだ。真紀のように、ああやって密やかに、それでいてあからさまに僕の懐に入ってきてくれれば良いかもしれないけれど、僕からのこのこ相手の懐を探って、取り入って、それからお互いをむさぼりあうなんてことはできない。
僕がこれまで恋人を作らなかった理由はここにあった。確かに、本当に欲するのであればこちらから欲を持って接近して、一瞬自らを取り繕うという行為も必要だろう。僕が本当に欲しているのかどうかは分からないが、少なくとも今の僕は真紀を欲している。彼女が当時、僕の前で取り繕ったいろいろに敬意を表して、遅ればせながら返事をすることは、人としてやるべきことなのかもしれない。
高校生のとき、真紀のことを食虫植物みたいだと思ったけれど、今考えればその性質は僕にこそ備わっているもので、要するに僕は彼女に同族嫌悪の感情を示していたのだ。それが今は、同族に対する親愛を感じる要素となっている。
彼女が求めていたものに気付くのは遅くなったけれど、僕は今更彼女の求めに応じる準備ができている。
考えてみれば、もう少しで成人式だった。わざわざこちらから連絡をしなくても、成人式の当日彼女を探して、昔を懐かしんでいるうちにお互いの感情の熱がまだ冷めていないことに気付いて、という風になれば良い。


7/12
成人式で彼女を見つけるのは簡単だった。
地味な振り袖を着ていた。
その姿を見るだけで僕は大変な興奮を覚えた。彼女は振り袖の着方一つにもこだわりを持って今日に臨んだに違いなかった。僕がいることも見越して、今日、僕にそのこだわりを披露することも考えてきたに違いなかった。
真紀のことはすぐに見つけたけれど、僕はあえて声をかけなかった。級友との会話に花を咲かせているフリをしていた。高校当時、ろくに誰とも話さなかった真紀が、クラスの女子とわかちあう過去なんかないはずだった。目の端で僕に話しかけられるのを待っている。首筋に僕の目線が食い込んでいることを感じていて、そしてじれて仕方ない頃を見計らって、ようやく話しかける。
「よう、小堺、久しぶりだな」
僕がそう言うと、真紀は口を半開きにしたまま僕の顔を見て、「ふーちゃん? ふーちゃんじゃん! 久しぶり!」と言って下手な笑顔を作った。
「いやあ、ごめん今すごい必死に考えちゃった。いや藤島君ってことはすぐ分かったんだけど、そんな呼び方してなかったなって」
「藤島でいいんだけどな」
僕はあだ名で呼ばれることを望んでおらず、馴れ馴れしいのは苦手だという風を装っていたが、本当は彼女しか言わないふーちゃんという呼び名をクラスの他の女子の前で呼ばれたことに満足を覚えていた。そう、俺たちは二人、他の連中とは少し別の領域で情を深めていた。誰も使わないあだ名の中に、そんな情の輪郭が現れているような気がした。
「ふーちゃんも小堺なんてよそよそしいなあ。真紀って呼んでくれてたじゃん」
「あー、実は久しぶりで下の名前呼ぶの恥ずかしくてさ」
「ははは、なにそれウケるんだけど。そんな人だったっけ?」
「振り袖、良いじゃん」
そんな人だったけついでに、僕は今まで一度も言ったことがないような褒め言葉を口にした。
「そお?ありがと」
真紀の返事はそっけないものだったが、そのそっけなさに女の駆け引きをする気配が感じられた。


8/12
成人式の二次会は、地元の居酒屋に予約が入っていた。小さな居酒屋だったので僕たちでいっぱいだ。ほかのお客さんが来たらどうするんだろう。
しばらくして少し息が詰まる感じがして外に出て気付いた。
N高校27年度卒業生一同成人式二次会会場により本日貸し切りとさせていただきます
という丁寧なメッセージが書かれた看板が表の扉にかかっていた。
居酒屋で繰り広げられている会話の端々に流れるマウントの取り合いのような空気に辟易していた。そんな気分を引きずってこんな看板を見たら、これすら精一杯の虚勢という気がした。店の中ではみんな思い思いに酒を飲み、高校を卒業してから積んだ経験を披露し合っていた。
無茶な酒の飲み方をするヤツがいたら冷ややかな目で見つめる。それでいて誰かがつぶれて管を巻くのを待っている。
みんなが酒を頼む中、僕だけはソフトドリンクを頼んだので、注文をまとめていたヤツが露骨に迷惑そうにした。
酒は二十歳になってからなんて堅いことは言わないが、僕はアルコールの分解酵素が乏しく、正月に飲む御神酒だけでも真っ赤になるんだ。後先考えないヤツ、人の体質に関心がないヤツ。僕はそういう想像力のないヤツが嫌いだ。そういうヤツは学歴や宗教で差別をしたり、女とヤったことがあるかどうかでランク付けをしたりするヤツだから、仮に何か議論すべき必要が生じたとしてもまるで議論にならないだろう。無視するのが一番ローコストだ。
そうだ、そもそも、僕は今夜真紀と青春の続きをすると決めているんだ。僕は少なくとも酔うわけにはいかない。そんなことも分からないのだから、こいつの女性経験も高が知れている。
とは言え僕には分かっていた。
みんなそれぞれ成人し、大人になり、プライドを持っていきている。
高校を卒業してからの二年間でみんな多くの経験を積んでいるようだったが、一番変わったのはやはり性経験のようだった。大学に入学してすぐに恋人ができたという連中は多く、誰も初体験のことなど語らないが、性的な接触など珍しくも何ともないという風に振る舞うことこそが、二十歳になる我々の腕のみせどころと言ったところだった。
僕はまだ性経験を積んでいない。親の目を警戒することなく自慰にふけることができるようになったことが唯一の成長である僕にとって、異性との物理的な接触が珍しくないように振る舞う級友たちの一皮むけた様子は素直に眩しかった。
しかし、今日こそ僕は一皮剥ける予定なのだ。今頃真紀もみんなの性経験の豊富さに焦りを感じているに違いない。


9/12
真紀は席の奥の方で縮こまって、茶色っぽい飲み物を飲んでいた。薄暗い明かりでは飲み物の区別はつかないが、ウーロンハイか、もしくはただのウーロン茶かもしれなかった。
居心地が悪そうにしている真紀をどうにか連れ出してやりたいと思ったが、真紀は席の隅の方に座っており、壁際に追いやられているので逃げ場所がない。
ちょっとトイレに、って口実を作れば簡単に前を通れるだろうが、きっと本当にトイレに行きたくなったりしない限り、彼女はトイレに立つこともできないだろう。変なところが素直でまじめ。要領が悪い。そういう女だ。
僕は真紀の顔をじっと見つめた。僕が見つめていることも分かっているに違いないが、真紀はうつむいてウーロン茶だかウーロン・ハイだかをちびちび舐めている。
僕がきっかけを作ってあげなきゃ話にならないと思ったので、思いきってテーブルの奥に座っている彼女に向かって「小堺さん! 真紀! 何飲んでるの?」と聞いてみた。
彼女はちょっとこちらを向いて「ウーロン・ハイ」と答えた。そっけない。「ウーロン・ハイっておいしい?もっと甘いお酒の方が良いんじゃない?」と僕はある気持ちを込めていった。
きっと彼女がウーロン・ハイを飲んでいるのは、彼女なりのこだわりがあるからだ。彼女はみんなが頼む可愛いカルーアミルクのようなカクテルではなく、ウーロン・ハイを頼むことに、必要以上の意味を込めているに違いない。こういう些細なこだわりについてのレクチャーを、僕は久しぶりに真紀から聞きたいと思ってる、ということを、僕は遠回りに、かつ真紀にとっては直接的に思える方法で伝えたのだった。
僕がわざわざ真紀に話しかけることそのものが、何より多くのメッセージを含んでいる。
「別に何飲んでも良くない?」と真紀が言った。


10/12
居酒屋から次へ流れるタイミングで、真紀の方から話しかけてきた。
薄い蛍光色がぽつぽつ灯っているだけの田舎の夜道でも、彼女が泣いて泣いて、目を腫らしていることが分かった。
酒のせいじゃない。真紀は酔いすぎるほどは飲んでいない。僕は彼女のことをずっと見ていた。あるときからトイレに入って、それから二次会が終わるまで、ずっと出てこなかった。僕は彼女がまだトイレに入っていることを知っていて、他には誰も気付いてなくて、それで、僕は最後に店を出て、彼女が店から出てくるのを待っていたのだった。
真紀の家に行くことになった頃には、僕が真紀の服を脱がせる想像とか、自分のモノを真紀に入れる想像ができなくなっていた。
彼女は尋常ではないほど傷ついており、せめて僕は彼女の傷の一部になりたくなかった。
僕らは冴えず、余り物で、積み上げておらず、置いていかれている。二次会のあと、みんながどこに行ったのか知らない。そんな僕らはお似合いなはずで、傷を舐めあうならそれも良いと思われるかもしれないけれど、彼女が本当に僕の想像通り、これまで、その努力にも関わらず誰にも見向きもされず、隅に居続けたのなら、自分の人生の踏み台にするなんて酷いと思った。
ただ、僕は僕の中で彼女を傷つけることに抵抗せずこの日を迎えていたのだった。あいつは僕のことが好きだったはずで、陽気でもなく、美人でもなく、あんなに冴えないのだからまだ処女に決まっていて、僕にそれを捧げられるなら本望なはずだと考えていた。今日、彼女の顔がどんな風でも、想像よりずっと整っていなくても、穴さえあれば良いとさえ思っていたのだった。これは本当で、だけど、真紀のことが可哀想だと思ったのも、愛しいと感じたのも本当だった。


11/12
真紀の部屋にあがってコートを脱いでいると、真紀がコーラと炭酸水を持ってきてコートのまま座った。
「あ、コップ一個しか持ってきてないや」と言った彼女の口調は、まだ少し酔っているようだった。
「コーラって、本当は薄めて飲むって知ってた?」と真紀が言う。
「嘘つくな」
「嘘じゃないよ。カルピスと同じ。だって甘すぎるでしょ。コップ、一緒で良いよね?」
「お前、ずっと泣いてたのバレて、置いてかれて哀れだったのもバレて恥ずかしいからって誤魔化そうとしてるだろ」
コップを一緒に使うくらいでおどおどした様子を見せたくなかったから少し高圧的に話を切り出すと、なんだか懐かしい空気が流れた気がした。
「うざ」
「うざくない。何があったか話せよ。なんであんなに泣いてた?」
「高校のときから思ってたけどさ、ふーちゃんってたまに謎の彼氏面するよね」
駅の取っ手。あの、赤いドアノブを触るのが嫌だったと、真紀の後ろから言ったことを思い出した。真紀もその日のことを思い出していたと思う。
「でもお前はそういう対象としては見てないからって態度も取るっていうね。ほんとムカつく」
「え、そんなムカつかれてた?」
「だってそうじゃん、なんか卑怯っていうか、人と向き合わないよね」
「向き合ってんじゃん今」
「そういうとこだよ。なんかのらりくらりする癖に要領良いわけでもないしさ、ビビりまくって生きてんだろうなって。それで自分と同レベルだと思ってるのか知らないけど私にはやけに気安くてさ。なんでそんなに人のこと馬鹿にできんの? あ、誰かを馬鹿にしてないと惨めなのか。はは」
馬鹿になんかしてない、なんて言っても空々しいだけだった。あんなに馬鹿にしてたのだから。
「この家、誰もいないの?」
誰もというか、母親がいないのかどうかを聞いたのだった。
「話逸らすなやー」
今このときに限っては、純粋に可哀想だと思って、それから少し愛しく思っていた。萎えそうだったけれど、どう考えても僕と真紀は同じ穴の狢で、その気持ちは同類を哀れむ心で、自己愛に違いなかった。だから馬鹿になんかしてない、とわめきたい一方で、だから馬鹿にしてたのだった。自分を傷つけたくないから真紀を傷つけたくないだけだった。


12/12
真紀はいつの間にかまた泣いていて、泣き続けながら僕に悪態をつき続けた。
「なんかさ、世の中人間の質っていうか、レベルって絶対あるよね。同じ学校で育ったのに、もうレベルが違っちゃってて、スタイルとか喋り方とか挙動?とかでさ、ぱっと見大したことない人って実際大したことないじゃん。ふーちゃんなんか真面目にヤバいよね。わ、わわたしも、ヤバい」と最後には声が震えている。
真紀はコーラを炭酸水で薄めて飲み、小さくゲップをして、ぐへへと汚く笑った。
嫉妬ばかりして生きてきた、と彼女が言ったのは、さんざん僕に悪態を突き続けて、薄めたコーラも3杯は飲み干そうかというところだった。
はじめは泉さんに対する嫉妬だった。
泉さんとは、僕のクラスのいわゆるマドンナで、清楚な外見と、派手な噂の組み合わせでやらしい想像がかき立てられる子だった。彼女は成人式に出席しなかった。いなかった。だからなぜ急に泉さんの話をし出したのか分からなかった。
真紀は彼女に嫉妬し、彼女の悪いところを観察しようと努めたが、誰よりも泉さんを見ていたせいで、彼女に惚れて狂ってしまった、と言った。
「女子高生の黄金比シリーズ」は「泉さん観察日記」だったという。
「おねえちゃーん? 帰ってきたのー? あの靴は誰のだって、お父さんが言ってるよー」という女の声が、真紀の部屋の外から聞こえてきた。少し意地悪な話し方。男を連れ込んできた姉をからかっている妹。
え?
「うるさーい」と真紀は、いつもより高い声で叫んだ。妹はきゃははと笑って、おそらく自分の部屋のドアを開けて中に入った。
僕は真紀のことを知ってた。彼女に母親以外の家族はおらず、父とは幼い頃に死別している。高校時代、確かそう聞いたのだった。妹なんていたのか?
真紀がクローゼットを突然開けた。広い、ウォークインクローゼットってヤツだった。
中に、口を塞がれ毛布で巻かれた泉さんが眠っていた。え?
尿をもらしているようで、クローゼット内にはアンモニアのにおいが立ちこめていた。
「どうしようふーちゃん、ここね、泉さんのお部屋なんだけどね」と泣きじゃくっている。まじか。
「私、二次会で泉さんの話になるまでこんなことしたの忘れててぇ! すぐ帰ってくるはずだったのに!」
「私が可愛くなったって、垢抜けたって言われて! のこのこついて行っちゃった! 馬鹿だ、私馬鹿だ!」
「本人がいないとあいつら! 泉さんのことまで馬鹿にしてぇ! レベル低いくせに! 泉さんのこと何も知らないくせに! 何もかも馬鹿にするんだ!」
「私も、行ってなかったら絶対馬鹿にされてたよぉ!」
「ねえふーちゃん、お願いだよっぉ。泉さんの身体を測りたいの。手伝ってよぉ!」
冗談だろ。冗談にしても笑えない。なんでそうなるんだよ。
試しに言ってみたんだ。
「はは、真紀はさ、真紀は、ほんと変わった考え方する子だよな。面白いよ、はは」
何が琴線に触れたのか、いや、薄々ダメージがあることは分かってたけど予想以上だった。真紀は目をひん剥いて、クローゼットの中に入ってドアを閉めてしまった。
ドア越しなのに真紀の奇声と、荒い息が聞こえるようだった。それから、ズルズルと啜るような音、バタバタする音。僕は反射的に泉さんの部屋を出て、たぶんさっき妹が入っていった部屋を叩いて助けを求めた。
泉さんの部屋に戻るとクローゼットの向こうは静かで、僕は、ドアを開けるのも、触るのも嫌だった。
ほんと、冗談じゃなく。


冗談がへたくそ(完)

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