その日を境に

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彼はその日、ある不思議な一日のことを思い出した。

インフルエンザにかかって休みを取った二日目の、夕方のことだった。

彼は、熱が上がったり下がったりを繰り返し消耗した身体をじっと横たえておくのも辛くなって、やがて落ち着きなくベッドを降り、這うようにして居間のソファまでたどり着いた。薄手の毛布を道連れにすることも忘れなかった。

横になれば足がはみ出るソファに、やっと落ち着いたかと思えば、すぐに尿意と喉の渇きを覚え、転がり落ちるようにソファから降りるとその力を利用してまずトイレへ、そして帰り際に冷蔵庫を開けて缶のお茶を取り、流れるような自分の動きに感心しながらまたソファになだれ込むが、動き出すと動けるもので、そこはかとなく元気が湧いて、テレビを見ようという気になった。

テレビのスイッチを入れたが音が聞こえにくい。音量を確認するといつもと同じだった。まだ熱があるのだ。お茶のプルタブがなかなか開かない。指先が隙間に入り込まず空振りする音に寒気がする。やっと開いた缶に口を付け、すぐにテーブルにおいて、毛布を引き寄せる。

テレビの中では

「山菜が美味しく感じるようになったとき」

「車の免許を取ったとき」

「肉より魚の方を選ぶようになったとき」

などと回答する一般人が何人も何人も映っていた。画面の右上に、「大人になったと思った瞬間は?」というお題がポップな文字で張り付いている。短い企画に違いないのに、実際彼が見たのはほんの一部だったのに、彼にはそれがテレビの中では延々と、朝から晩まで繰り返し行われていることのように感じた。

スタジオに画面が戻ると、パネルを前にした女性アナウンサーが「これが食べられるようになった、飲めるようになったという食事に関わる回答が、なんと62%と圧倒的だったんですね」と楽しそうに話している。

「ほおー、あれ、資格とか免許とか就職とかは逆に17パーセント? もっとあっても良い気しますけどねえ。食べ物のインパクトは強いんでしょうねえ。小さい頃食べられなかったのにーって。僕なんかだと、あーやっぱタバコがおいしーってなったときとか思い出すかなあ」

「大人になったの随分早かったんじゃないですかあ?」にやにや顔のコメンテーターが余計なことを言う。

「いやいや、ちゃんと二十歳越えてからですよ? でも本当においしーってなったのは、30過ぎくらいだったかなあ。本当に忙しくてストレスたまってた時期。それまでは半分かっこつけだったんだけど、自然にタバコ吸って、自然に落ち着いちゃってる自分、大人になっちゃったなーって」

スタジオに笑いが溢れる。

その後も「デパ地下で人気の絶品スイーツ」の特集や「紳士が集う猫カフェ特集」のような軽いものがあって、「では続いて」と、別のアナウンサーがどこそこの土砂災害についての話題を切り出す頃には、彼の熱はまた上がり始め、頭がズンズンと重くなり始め、テレビを見ているのか、夢を見ているのか分からないようになった。

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彼はその日のことを思い出していた。立ち上がれないし声を出せる気もしないが、耳にはまだ明るいアナウンサーやレポーターの声が届いていたし、目にはついさっきよりも濃くなった茜色が、瞼を透かして見えるようだった。だから彼は夢を見ていたのではなく、その情景を思い出していた。

ソファに横たわっていたはずの彼は、いますっかり座っている。あの日の記憶そのままの、濃い青色のパイプ椅子。体育館の西の窓にはちょうど彼の瞼の裏に透けているような茜色のグラデーションが輝いている。

懐かしい体育館の匂いがする。独特な声の響き方もよく思い出せる。

彼はその日、司会進行だった。児童会長だったから。小学校6年生。

司会進行? 何があった? 

演劇のワークショップだ。いや、警察か消防の人が何かを話に来てくれたのだったか。お芝居は観た。それは覚えてる。でも警察か、消防か、もしくは教育委員会の人か、そういう大人は確かにいた、自分たちの親もいた、ああ、もしかしたらあのときいたのは学生の劇団員だったかもしれない、ということを彼は思い出せる。児童会で体育館にパイプ椅子を並べて、舞台の上にもテーブルと椅子を置いたことも思い出せる。

しかし記憶はあまりにも断片的で、鮮明に思い出せるようであり、嘘のようでもある。夕日が差し込む時間になぜあんなにみんなでかしこまって座っていたのだろうと、彼は熱に浮かされながら考えた。真冬の、3時半くらい。それくらいの時間ならあの夕日もあり得る。放課後に少し時間を取って、何かが催されたのだ。

司会進行と言っても彼はヒマだった。彼らはヒマだった。はじめこそ、児童会長として少し挨拶らしきことをしたが、そのあとは他の生徒と同じように舞台の上を眺めたり、幕間には雑談をしたりした。隣に座る三上ちひろ、その隣には学年が一つ下の進藤ゆたか。

彼は当時ちひろが着ていた、無地の、細かく毛羽のある暖かそうな素材の、黒っぽいシャツを覚えている。大人っぽい、オシャレだと思ったのを覚えている。

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「そこ、蜘蛛の巣あるよ」

「蜘蛛の巣?」

彼はそこ、とちひろが指し示しているにも関わらず、そっちの方を見ずに言った。蜘蛛が、特に蜘蛛の巣が嫌いだったから。ちひろはそのことを知っていてそう言っている。嫌いだと言っているのに、好きなものを見つけてあげたとでもいうような声で、体育館の隅に置いてある、予備の古い演台の影に細かく張ってある蜘蛛の巣を指していた。

彼はしぶしぶそれを見た。蜘蛛の巣を嫌がる顔をするとちひろが嬉しがることが分かっていたからだ。実際に蜘蛛の巣は嫌で、恐怖の対象なのだが、ちひろの期待に抗うことはできなかった。彼は演台の下の方の影に蜘蛛の巣が張ってあることを認めて、それからちひろの顔を見た。

「取っといた方が良いんじゃない?」といってちひろは、彼に箒を差し出した。

「箒なんて、どこにあったのさ」

「いやそこの用具室にあるでしょ」

「だからいつ用具室になんか行ったのさ」

「さっきだよ、さっき」

テーブルや椅子を並べるとき、ちひろが蜘蛛の巣を見つけて、それから彼のことを思い出して、箒を用意しておいたのだ。タイミングを見計らって、蜘蛛の巣のことを教えようとちひろは考えていたのだ。

彼にはそれが嬉しかった。共にいない時間に、ちひろが自分のことを考えたのだという事実が嬉しかった。

だからちひろのその準備も、タイミングもばっちりだということを伝えるために、彼は渋々といった顔を作って、箒の先を演台の影にねじ込んだ。

彼は箒を伝って蜘蛛が這いあがってくるのではないかという嫌な予感に捉われた。箒の先に蜘蛛の巣が絡みついてしまった。箒を引き抜くと、絡みついた糸の先に蜘蛛がいないかどうかを確かめた。箒の先を踏みつけるようにして糸をこそげ取り、上靴の裏は舞台横の弾幕に擦り付けた。

その一連の動作が面白かったのか、ちひろは満足そうにニヤニヤしていた。

その隣のゆたかは、こちらには目もくれず、ぼうっと児童や父兄がざわめく体育館を眺めていた。

彼はちひろと二人でゆたかを一人ぼっちにさせてしまった罪悪感と、彼の浮かれた様子が体育館中の、とりわけ自分の親に見られてしまったのではないかという恥ずかしさで突然に目が醒めたようになり、そそくさと自分の席に戻ったことを思い出す。

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今、熱に浮かされている彼も、当時の決まりの悪さを思い出して目が醒めたようになり、背もたれを手繰って体を起こした。体を起こすと、彼は瞼越しに見える茜色が眩しかったのだと気付いた。眠るには眩し過ぎて、痛々し過ぎると感じたのだった。

背もたれに体を預け、毛布を首元まで引っ張った。足を畳むと心地よく、眠りに落ちそうになる。

するとまた当時の情景が浮かんできたが、このときにはそれが夢なのか、それともその光景を思い出しているだけなのかは、彼にもはっきりしなかった。

ちひろと、ゆかという生徒が舞台の上にあがった。

即興のお芝居に参加させられていた。

彼の頭の中にはその光景が再生される。夕日が差し込み、人込みと暖房器具の吐き出す熱気で体育館がけぶっているように見えた。季節も、土地も、その体育館だけ別のところに追いやられてしまったように彼は感じていた。

やはりサークルの劇団員か何かが学校に来ていたのだろうと彼は思った。消防士か、警察官も、確かにいた気がする。きっと防災時の注意を演劇形式で伝えるとか、そういうことだったんだろう。彼は古いビデオの映像を眺めるような気持だった。

ちょっとしたお手伝い。

誰かやってみたい人いませんか?

と若い女性に問われ、ちひろはすぐに手を挙げた。児童会の副会長に立候補したときも、ちひろはすぐに手を挙げた。

彼は、彼女のその迷いなさが、自分に関わりがあると思っていた。自分が児童会長に立候補したから、ちひろは副会長に立候補したのだと思っていた。

しかしどうやら、それは少し勘違いだったらしい。ちひろはこういう場面であまり臆病にならないらしい。目立ちたがりといっても良いのかもしれないけれど、彼はちひろが、こんなこと誰もやりたがらないだろうからと手を挙げたような気がする。そういう子だった気がする。

自分も手を挙げるべきだろうか、と彼は考えたけれど、ここで手を挙げたら、児童会の男女二人が、児童会長と副会長の二人が仲良く率先して生徒代表になるというあまりに出来過ぎて収まりの良い展開が逆に不自然なように感じて、できなかった。

親の視線を一度感じてしまった彼は、ちひろに尻尾を振って付いていくような自分をみんなに見せる気恥しさもあった。ゆたかがまた一人ぼっちになってしまうし、それを気にかけないような男にはなりたくないと、幼いながらに思った。

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ちひろは手を挙げながら、自分のクラスの列の、一番前に座っていたゆかを目で誘った。それが彼には分かった。目で、というか、それは最初だけで、なかなか目当てのあの子が手を挙げないから、「ゆか、一緒に来てよ」と口に出して言った。

そう名指しされてしまうともう周辺の空気はゆかが立つしかないようになって、もしかしたらもっと他に適任者がいたかもしれないけれど、ゆかが舞台に立つしかなくなった。

ゆかは渋々と言った顔で立ち上がった。

彼は、自分が蜘蛛の巣の方を見たときもこんな顔をしていたのだろうかと思ったし、こう客観的に見ると、ゆかはまるっきりちひろに振り回されているように見えるのだから、自分のときのこともあまり余計な心配はしなくて良かったかもしれないと思った。

それに、ゆかも渋々という顔を作ってはいながら、ちひろの期待に応えずにはいられないのだと彼には分かった。

ゆかが自分の席を立つと、その後ろの席に座る、近藤ひろしという男の顔が目に入った。

小学6年生にもなったのにまだ暴力的で、人を威圧する癖がある。

ゆかはもしかしたら、近藤が後ろにいる状況から逃れたいと思っていたのではなかったか。近藤に後ろから髪や、服の襟なんかを引っ張られそうで、居心地の悪い思いをしていたのではなかったか。ちひろはそのことも分かっていたのではないか。

舞台の脇で、ちひろやゆかとあまり身長が変わらない小柄な女性から、小さなカンニングペーパーが渡されていた。ちひろはその内容を覚える気はさらさらないらしく、そして役柄上それほど時間も無いらしく、紙を見ながら舞台に上がった。そしてその一番前面に立って、合唱でもするみたいに紙を目の前に広げて、大きな声でセリフを言った。

なんと言ったかは思い出せない。声は十分だったけれど、抑揚が足りず、なんだか不自然だったことを彼は思い出せる。

ゆかのセリフはちひろのものより長かった。だけど何を言っているのか、彼には全然聞こえなかった。

ゆかは舞台の中央に立ち、ちひろとは違ってセリフが書かれた紙は見ずに、真正面を見て、真剣に空間を見つめて、セリフを言った。堂々とした態度。しかし声は小さかった。彼は舞台の脇の方で座っていたので、他の人よりも聞こえにくかったかもしれない。

「信じられない……、明るい明日……、学校のお友達……」そんな単語だけが聞こえてきた。

彼はすぐに舞台に集中するのを止め、生徒と父兄が座る客席の方を見た。みんな不興気な顔をしているに違いないと思った。よく聞えないという意志を込めて目を少し細め、心なしか首を傾げているに違いないと思った。聞き取れないという不快さを伝える顔も演技と言えば演技だと彼は思った。

ところが、客席はゆかが真正面を向いて話しているのと同じ真剣な表情でゆかのセリフを聞いていて驚いた。

とりわけ、ぽっかり空いた席の間から浮き出て見える近藤の目が、ゆかの真剣な目とそっくりだった。

浮き出て見えるどころか、近藤はゆかの座っていた席の方へ顔を突き出し、ゆかの小さな声を聞こうと努力しているようだったのだ。ゆかの声を漏らさず受け止めようとしているようだった。

近藤の顔が開いていると彼は感じた。目も、口も、もちろん耳も開ききって、ゆかの声を受け取るアンテナになっていた。

このときのショックを、彼は思い出していた。ショックを受け直していた。

あの日のゆかも、近藤も、彼が思っていた人間とはまるで違うように見えた。茜色が差し込む体育館の、人いきれと暖房の熱気でけぶったように見える体育館の、不鮮明な異空間で、ただ一人舞台に集中していない彼は、取り残されてしまったように感じて、慌てて舞台に目を向けた。

そのとき、ちひろの席のひとつ向こうに座るゆたかが一瞬こっちを見ていて、微かに笑ったかと思うと舞台の方に首を向けたのを思い出した。彼は自分の心臓の音が聞こえるほど、彼の目線に動揺した。

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すべてが終わって、劇団員の人か消防の人か警察の人か教育委員会の人か分からない人達を見送る。彼が舞台の上に立ち、最後の挨拶をしておしまいだが、はじめの挨拶をしたときと今とでは、人の自分を見る目が変わってしまったような気がした。

生徒たちが自分の椅子を持って教室に戻ると、二人の教師と、児童会の三人が体育館に残った。父兄たちが座っていたパイプ椅子や、舞台の上の装置を片づけるためだ。

客席のパイプ椅子を一つひとつ畳んで揃えて舞台の下に運び込む。ゆたかが中に入って中で整列させる役だ。流れ作業で、すぐに終わった。ゆたかが舞台の上を掃き掃除している間に、ちひろと彼は体育館全体をモップで掃除した。二人並んで、端から順にじっくり押し進めていく。

ところがある小窓を通り過ぎるとき、ちひろが立ち止まった。

「ねえねえ、ここに女の人がいる」

「は?」

ちひろが急に立ち止まったせいで、二人が持つモップの間に隙間ができたのが少し苛立たしかった。

「ほら、この窓見て、女の人じゃない?」

彼はちひろが何を言っているかまるで分からなかった。その窓は確かに少し汚れていた。土埃が雨に溶け込んで吹きついて、それが乾いて模様のように見えなくもない。だけど女の人にはどう考えても見えなかった。

ほら、ほら、と繰り返すちひろのしつこさ。指で輪郭をなぞって「女の人」を作ろうとする仕草。指を指揮棒のように揺らしながら「ほら、目が合ってる」とか、「じっとこっち見てる」とか言うちひろの声は、舞台の上で発した声よりもよっぽどセリフらしかった。

そもそも見ている場所が違うのかもしれない、と彼は思った。

ちひろは本当の女の人を指さして言っているのかもしれない。窓のずっと向こう。僕には見えない怖い女の人を指さして、必死に自分と恐怖を分かち合おうとしているのかもしれない。

しかし彼にはどんな女の姿も見えない。

窓の汚れが女の人のシルエットに見えるというならまだしも、窓の外に女が立っているなんて、その人がこっちを見ていて、目が合っているなんて、どうしても分からなかった。

ちひろは死んでしまうのかもしれない。彼は直感的にそう思った。

ちひろもそれが分かっているから、こんなにも必死になって僕にも女の姿を見せようとしているのかも。それが実体で、実際で、現実にいることを確かめたかったのかもしれない。

ならば自分は嘘をつくべきではないのか。僕が女の人を見えると言えば、ちひろは安心するかもしれない。

だけどちひろはしっかり合っていると言い張るその女の目から自分の目を離さずに、まるで夢中と言った表情で、女の表情を説明する。

そのちひろの顔を見て付き合い切れなくなったそのとき、ちひろの期待に応えることに魅力を感じなくなったその瞬間、その日を境に、彼のけぶっていた世界は晴れて、体育館の床に張り巡らされている鮮やかな色のライン、バスケットゴールのネット、それらが、彼の嫌いな蜘蛛の巣のように、しっかりと現実を絡めとる構造をしているように見えた。

「お前らはやくモップ片づけろ」と言った教師の名は忘れたが、「まだ掃除が終わっていないのに……」と思ったこと、そして、それまで女の顔に夢中だったちひろが「はーい」と言ってさっさとモップを片づけたことは思い出せる。

床には二人が集めた埃が残っている。

彼はその埃をモップで絡めとって、そのまま、用具室に滑り込ませた。ゴロゴロと重い音が鳴る引き戸を閉めたときの鉄臭いにおいを最後に、彼の視界は暗くなった。内側から扉を閉めてしまったのだ、と彼は思った。

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目を開けると、既に6時を過ぎていた。入れっぱなしだったテレビでは天気予報の時間。白いコートを着た可愛い女の子が、明日の天気を叫んでる。まだ夢か、と思ったが、彼は自分の耳が今度は必要以上にクリアなことに思い当たった。聞こえにくいと思って、音量を上げて、そのまま寝てしまって、起きたら熱が下がっていた。

「ああ、ちひろから目を離したとき、俺の熱は下がったんだ」

彼は口に出してそう言いながら、テレビの音量を下げ、明るい声で週末の天気を伝える女の子が風邪を引きませんようにと少し祈った。

玄関のドアが開いて、桃花が帰って来た。ビニール袋のカシャカシャ音がするから、何か食べ物を買ってきてくれたのだろうと彼はおおいに期待する。それから彼は、自分がずいぶんと腹が減っていることに気が付いた。

「どお?」

リビングのドアを開けながら、桃花がただいまを言うより先にそういった。

「ああ、もうね、だいぶ楽。明日一日休めばもう大丈夫じゃないかな。明後日は普通に休みだし」

彼の目はビニール袋に注がれる。

「でも熱また上がるんじゃない? 波あるよ」

「そうだな、うん、また夜になると熱上がるかも」

「うどん食べれる?」

「んー肉食いたい」

「消化に悪いよ?」

そう言いながら桃花は冷蔵庫の中を探る。肉を探しているのではない、飲み物を探しているのだ。彼はさっき自分が開けたお茶が最後の一つだったことを知っていたので、心の中でひっそり謝った。

「あーもうお茶ないのかあ。一緒に買ってくればよかった」

「ごめん、これ最後の一個だった」

ろくに口もつけないまま眠り込んでしまった。

残っているからと言って桃花に飲ませるわけにはいかない。

「あ、まだ入ってるじゃん」

缶を振り、そう言って、桃花は缶のお茶を飲みほした。

「おいうつるぞ」

「いやもう今更でしょ。こんな閉め切った部屋で二人でいるんだから」

「まあそうだけど」

「治りかけならうつりやすいかもね。まあとりあえずなんか食べて、治しちゃおうよ。うどんにしよ?」

ビニール袋の中にカルビ弁当が入ってることを彼は知っている。それが彼のためのものなのか、桃花が自分で食べるために買ってきたものなのかは分からない。

「えーでもうどんじゃ絶対夜中に腹減るよ。俺さっきまでぐっすりだったから夜寝れなそうだし。夜中に腹減ったらうどん食う」

「一応カルビ弁当買ってきたけど」

「さすがだね」

「去年だっけ? 一昨年? もインフルなって治りかけの頃に肉食いたいとか言ってたなって思って」

「そうだっけ。桃花は何食うの?」

「うどんかなあ。冷凍のさぬきうどんとお惣菜のかき揚げ買って来た。揚げたてだったし」

「あ、かき揚げってもしかして二つある?」

「うん、どうする?」

「さすがにカルビ弁当とかき揚げはきついかな……桃花二つ食べれる?」

「食べれないですねえ」

「じゃあ、うどんにしようかな」

「そうしよう。足りなかったらカルビ弁当半分こしよ? 私も足りないかもしれないし」

桃花は鍋にお湯を張り、火をかけてから隣の部屋へ向かった。

桃花が居間から姿を消すと彼は立ち上がり、火のかかっている鍋の前に立った。

着替えをすませ、桃花がドアを開けるのを見計らうようにお湯は沸騰しはじめた。湧き上がるあぶくがどんどん大きくなる。大きなあぶくが沸き上がっては砕け、湧き上がっては砕け、その繰り返しに彼は見とれた。

あの後、ちひろは死ななかった。

ちひろが女を見たと言ったあの日から彼はちひろの死を覚悟していたが、彼女は一向に死なず、共に卒業して、同じ中学、同じ高校に入学した。

ところが不思議なことに、彼はあの日、ちひろが体育館で女を見たあの日から、ちひろとは隔たってしまった感覚をずっと持っていて、ずっと、高校を卒業するまで仲が良かったはずなのに、ちひろとの記憶は薄く、まるで彼の中では既にいないものとなっていたような、ずっと記憶の底で遊んでいたような、そんな感覚だった。

高校を卒業したあと、ちひろがどんな進路に進んだのかを彼はしらない。今どこで働いているのかもしらない。もう会える気がしない。でも死んでいないのは確かだ。死んでいたら、彼にもしらされるはずだから。でも彼には、彼女の死と、もう会える気がしないことの間に、どれほどの違いがあるのかが分からなかった。

「今日、てかさっきなんだけど、なんか怖い夢見てさ」

「あー熱あるときとかって変な夢見たりするよね」

「うん、でも、今となってはうろ覚えなんだけど、妙にリアルでさ、リアルというかあの夢、確実に俺が昔体験したことなんだよね」

「ふーん? じゃあ怖い体験をしたってこと?」

「いや、実際は怖くないんだけどさ、なんか気味悪いっていうか。気味悪いってのとも違うな。心細いというか」

「寂しい、みたいな?」

寂しい。そうだ。

「熱あったからだよきっと」

「違うんだよ。分かってもらえるか分かんないけど、あの日が無かったら、俺は桃花と結婚していなかったかもしれないと思ったんだ。あの日が無かったら、俺は桃花と会うこともなかったかもしれない。

あの日、窓に女の人見えるって言っていたら、俺たちはきっと会ってない。俺たちが会ってないかもしれない未来があったと思うと、怖い、うん、寂しい。ぞっとするんだ。分かる?」

桃花は目も口も開いて彼の顔を覗き込む。目で熱を測っているようだった。

彼は桃花のその必死になって何かを受け止めようとする顔に、あの日のゆかを見た。ゆかを見る近藤を見た。そして窓を見つめ、女の人がと訴えるちひろを見た。

「いやあ、分からないねえ。てか何? 窓に女の人って。怖いよそれ十分」

あの日を境に、近藤は次第に人と根気強く会話をするようになり、柔らかくなった。それまでには無い、真剣な顔を人に向けるようになった。

他の誰もが、そしてゆかも、近藤のその変化には気が付いた。

彼の暴力的な態度も、威圧感もすっかり、嵐の夜が過ぎ去ったみたいに穏やかになり、柔らかな引き潮に貝殻がさらわれるように、ゆかは、だんだんと近藤と仲良くなった。去年、ゆかと近藤は結婚したらしい。

ちひろのことは分からない。結婚したのか。誰か相手はいるのか。まったく分からない。

                         

その日を境に(完)

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