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なにもの

noteの募集を見て、ハッシュタグいらない!ってくらい、毎日のようにお金のことを考えている自分に気がつきました。備忘のつもりで、少しだけ。

儲かるとか、節約とか、そういう枝葉末節なあれこれではなくて、概して言えば、お金は何者なのか?ということ。

現金という形もあるし、定期券として日々ペタペタしてるカードの中にもあるわけです。完璧ではないけど、買い物をするたびにスマホのメモに入力していたりもします。どれだけのお金が数字に置き換わって、商品や満足、そして自分自身になっているのか、そして今後どうなるのか、どうなりたいか。

私は「お金持ち」という存在に、どうも鼻持ちならなくて、でも無視できないという感覚を持っていました。それは、お金そのものが嫌い(敵意に似た感情)だったのかも知れない、と結婚してから気がつきました。暮らしの中で、価値観の擦り合わせは日々あります。家族が増えればなおのこと。親族が増えれば言わずもがな。

そんなとき、お金に関する本を何冊か読みました。胡散臭さも感じつつ、自分のお金観を変えねばならないといった思いに至りました。

「お金は友達」
王様でも、奴隷でも、まして神様でもありません。価値の表示方法のひとつ、それ以下でもそれ以上でもないということを、最近ようやく納得できるようになってきました。

「お金に喜んでもらう」
途端に胡散臭いのは、この擬人化だと思うのですが、僕のお金観のとても大きな支えとなっているので書いておきます。お金を使うにあたって、お金に喜んでもらうことが肝要である、という文章に何度も出会いました。実際に、喜んでくれているかは分かりませんが、お金を使う場面でふとよぎる言葉です。

「お金じゃない」
という価値の発見も、お金観が変わったことで生まれたことです。例えば、感謝の気持ちとして何かをいただく、知り合いになったから何かを分けていただく、というときがあります。そんなとき、これはお金では買えないなぁなんて思うのです。


様々な本を読んでみて、そして生活を続けていく中で感じるているのは、お金は道具であるということでしょうか。断言できるほど理解も深まっていないし、お金に不安な状況は変わらないけれども、スマホとか、箸のような道具なのだと感じるのです。

もっと手に入れたい気持ちもあるけど、いまある道具をきちんと使ってみることにこだわってみたら、また違う世界が広がりそうです。

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