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あさになる

何度か書いている、西国分寺にあるカフェのこと。モーニングにまつわる自問自答。


2度目の来店。どうなるのか。

結果、どうにもならなかった。

この何となく治まらない気持ちは何だろう、そんな自分に気がついたら書いてみたくなってきた。

モーニングは夏休みシーズンの平日限定、今年から座席数と同じ数だけの提供になった。席が満席になったら、その日のモーニングは終わりなのだ。わかりやすくて親切でもある。

毎年、なんだかんだと都合をつけながら、モーニングを食べに来ている。というか食べることができている。メニューはとてもシンプルだ。パン、サラダ、飲み物。

これは2年前のモーニング。パンの前には、蜂蜜とバターも。


僕にとっては唯一の、顔が見えるパン職人が焼くパンと、新鮮な地元の野菜、そしてコーヒー。朝だから深々煎りは選んだことがない。

昨年はモーニングの提供は休みだった。毎年楽しみにしていたので、残念ではあったけど何にも代えがたいモーニングの思い出が強くなった。今年もかすかに期待をしていたら、なんと8月から始まるという知らせ。しかも、デザートが追加されるという。これは、行きたい。

妻と二人で。家族で。これがいままでのモーニングの思い出だった。今年はそれがなかなか難しそうだったので、僕だけひとりで行くことにした。

ある金曜日、午前中に仕事を休んで、娘を保育園に送り、妻を勤務先に送り、電車に飛び乗る。開店時間を30分過ぎて駅に着いて、早足で店へ。

期待を込めてドアを開けると、ぷーんといい香り。店員さんが僕に気づいて、ハッとして「もういっぱいなんです。」と告げる。だめだった。

そして数日後の水曜日、またもや午前休みを申請し、家族を送り、前回よりも早く着いた。店の前には行列。ざっと30人はいる、でも並んでみた。続々と後ろにも並ぶ人がいた。どうか。

僕の5人くらい前に並んでいた人が、満席を告げられていた。だめだ。モーニングは品切れだが、席があくまで待てば店に入れるということだった。

目に見えて、肩を落として歩いていたはずだ。しかも時々振り返ったりして。なぜ、そんなにモーニングに固執しているのか、求めている価値とは何なのか、考えながら歩くと、僕はどうも思い出を塗り替えることで安心している節があることに気がついた。


何年も通い続ける場所(行きつけ)が殆どない僕には、このカフェはひとつの居場所であり、なくては困るものだ。この店に来て、ほっとひと息つけたとき、店の存在とともに自分の存在を確かめられるのだ。

毎年、決まったメニューを食べたり、去年と同じことが続けられたという喜びは、安心感につながっている。それを感じたいがあまり、モーニングが食べられなかったことが、不安で仕方なかったのかも知れない。

今ならこうして振り返ることができる。落ち着いて、自分。大切な場所だと信じることは個人差があるし、このカフェならば変化しても許容できるとも思う。問題は、変化を恐れるあまりに、並んでいる人たちに敵意のようなものを抱いていた自分だろう。

大丈夫。このカフェは、今でも僕の大切な場所だ。

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