見出し画像

拾われるかもしれない断片たち

注:これはまだ、思考になっていない思考以前の断片集です。だらだらと読んでいただけると嬉しいです。

7月某日

 レッドアロー号に乗って秩父から帰る。秩父にはよく行く。単に秩父の街並みが好きだということもあるが、研究も兼ねていく。その日も、フィールドワークっぽいことをした気になって、帰る。西武池袋線は、飯能を過ぎたあたりから住宅街になってくる。レッドアロー号から窓の外を見る。夕陽が家の屋根を照らしていた。ポツリポツリと灯りがついている。みなが家路を急いでいる。
 この灯りひとつひとつに個人の、家族の、地域の生活があるとふと感じる。みんなそれなりに悩みを抱えながらも、毎日を少しでも良いものにしようと自分なりの方法で生きている。そんなことを思ったら、少し涙がこみ上げてきた。街は、たくさんの生活が灯りの数だけ折り重なってできている…

7月下旬

 太陽が見えない日が続くと、気分が何かと落ち込みがちになる。少しでも体に空気を入れたいと思い、外に行く。近くの公園に。ベンチに腰をかけ、缶コーヒーを飲む。目の先には、砂場で遊ぶ男の子と女の子。ふたりの会話が聞こえてくる。ふと、ふたりの会話を文字にしたらと考えると、性別による言葉遣いの違いはあまりなく、ふたりの会話は混じり合うような感覚がする。たぶん、文字にしたらどちらが話しているかわからないだろう。でも、いつしか、子供たちは自分の性別に求められる語り方になる。語りがジェンダーを獲得するのは日本だけなのか?獲得するとしたらいつからなのだろう…

8月13日

 お盆に実家に帰省するためにバスタ新宿にいく。バスタ新宿は日本有数の高速バスターミナルで、国籍や性別、年代関係なく人がごった返している。スーツケースを引きながら初めての東京にドギマギする子供達、これからいく旅行先に夢を膨らませる若者たち、缶チューハイを片手に遠くを見つめバスを待つ人、パンフレット片手にあれやこれや談笑するを外国の人たち…いろんな思いを乗せて、バスは全国に向かう。バスというのは、新幹線や飛行機とは違って、何かしらの余白を持つ乗り物だと思う。電車も各駅停車だと何か余白のようなものを感じる。その正体は何かわからないけど…そんなこと考えながら、僕はバスに乗る。最寄りのバス停で降りる。バスの中にスマートフォンを忘れた。茫然自失。顔を上げれば、忘れてた風景。

8月16日

 いよいよ本腰で論文を書かなければと思い、重い腰を上げパソコンを開く。ワードを開くが、なかなか書き出しが決まらない。なんとか書き始める。途中で、自分が長い文章を書けなくなっていることに気がつく。文が何か茹で過ぎたパスタのようにプツプツ途切れてしまうような感覚になる。あれだけいろんな文章を読んでるくせに、なかなかうまく繋がらない。でも、よくよく考えたら、論理というものはそもそも繋がっていないものをつなげる作業だったことを思い出す。
 身もふたもない話だが、ある文とある文がつながる必然性などどこにもないのだ。僕らは時として、文と文の間でジャンプを試みているのだ。「かつ」「または」「しかし」などは、さしずめ安全な足場になり得るが、すべての文で使えるというわけではない。久々にこの感覚を思い出した。ただ、思い出しても書けないものは書けないものだ。

8月20日

 家の近くにあったトタン屋根のオンボロな建物がいつのまにか取り壊されていた。普段はあんまり存在を気にしていなかったが、なくなった途端にその存在を意識するようになった。不思議なことだ。「ない」ことによって、はじめて「ある」ことがわかるなんて。というか、「ない」ことを映像や絵で直接表現するのは不可能だ。「ない」ことを表現するためには、言葉や目印によって間接的に表現されなければならない。また、そのためには、「ある」がないといけない。なぜなら、「ない」とは、「ある」ではないことなのだから。つまり、何かを明るみに出すためには、それを支える影がないといけないのだ。

8月某日

 僕がいま住んでいる街にきて、かれこれ5年ぐらいになる。初めてこの街にきた時はとても華やかな街というイメージがあり、何か落ち着かなかった。僕の地元はコンビニまで徒歩30分ぐらいかかるようなところだったので、あちこちにコンビニがあるのに大層驚いた。あと、家と家の間隔がやたら狭いことにも驚いた。庭もない。今となってはすっかりと慣れてしまい、この街は東京の中でもかなり庶民的な街なのだということに気がついている。また、時々実家に帰るときには、住んでいたときには何にも意識していなかった建物や自然に目を奪われる。
 人はテリトリーをもつ。そのテリトリーを抜け、別の場所に移ると今までのテリトリー意識が崩れる。でも、またそこで新しい形でテリトリーを作る。すると、元いたテリトリーを外から新鮮にみることができる。生きることは、テリトリーを作り続けることなのかもしれない。学校のテリトリー、バイト先のテリトリー、家族のテリトリー、移住先のテリトリー…テリトリーを作り続けることで、僕らは変身し続ける。

8月23日

 アパートの玄関にある灯が切れていたにもかかわらず、数ヶ月放置していた。というよりも切れていたことすら忘れていた。なぜか、夜、ふと思い出し、近くのドンキに自転車を走らせた。LEDの割とお高いものを買い、帰宅。取り替え作業にあくせくしながら、なんとか取り替えを終えた。数ヶ月ぶりに玄関灯がついた。やたら明るくて、夜であることを忘れさせてくれるようだった。
取り付けが終わったので部屋に戻る。すると、なぜかいつもの部屋なのにやたら明るく感じるし、机の上の本がやたらと重なっていることに気がつく。不思議だ。玄関灯と部屋の中はなんの関係もないはずなのに。インテリアは、僕らには意識できないネットワークを作っているのかもしれない。一つのものが動くだけで全て動く。それは、あたかも、少量の色を混ぜただけで劇的に変化する絵の具のように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?