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こどものそうぞうりょく

(注:就活やらなんやらに苦戦しているため、久しぶりの投稿になってしまいました…すいません…例に漏れず、長いので太字だけ、または適当に読んでいただければ幸いです)

A「ん〜、じゃあ、私はBくんのママね。」

B「え〜、やだよ〜」

A「いいじゃん!何食べたい?私が作ってあげる!」

春がきたのかどうか分からない、生暖かい昼下がりの公園。こどもたちは「おままごと」をしていた。Aちゃんは泥をこねて、特製のハンバーグを一生懸命こさえていた。しかし、突然、手を止めて、顔を上げた。

A「ん〜、つまんない。やっぱ、ママやめる!せんせーやるね!」

B「え〜、そんなぁ…」

こどもの「おままごと」はめまぐるしい。どんどん役割が変わる。それに合わせて、とってつけたように口調が変わっていく…

「おままごと」とは不思議なものだ。「おままごと」や「ごっこ遊び」は、子供が社会での役割を身をもって体験するための重要な成長の機会だと言われている。
「おままごと」や「ごっこ遊び」を通して、子供は「母親がなんであるか?」「消防士がなんであるか?」「サラリーマンの旦那がなんであるか?」etc...を身につけていく。

しかし、ふと思う。「おままごと」は子供だけが行うことなのだろうか?

いや、「おままごと」は大人になってもやり続けるのだ

僕たちは、普段生きている中で、人目に触れる時は、その状況に合わせて、なんらかの「役」を演じている(ロールプレイしている!)。そして、その役割に応じた、身振りや口調といった「形式」に則ってコミュニケーションをとる。

例えば、ある人が、飲食店アルバイトをしている時は、お客さんのことを第一に考え、丁寧な言葉遣いで気を配らなければならない。タメ口などはタブーとされており、大きな声で「いらっしゃいませ」と笑顔で対応する。しかし、バイトが終わって、友達と飲み会に行くのであれば、丁寧な言葉遣いはしないだろう。気取らない、くだけた言葉で、話しかける。むしろ、丁重な言葉遣いや振る舞いは、友達としての役に反する。

僕らは、常にその状況に合わせて「おままごと」をしているのだ。ふと、気づいたら、僕らは1日のうちに何役も演じる名俳優/女優となっているのだ。そして、人といるときにはいつの間にか劇団員の一員として、ドラマの成功に努めていることが多い。「劇団ビジネスマン」「劇団家族」「劇団飲み会」…

つまり、「おままごと」は大人になっても、不可視かつ精緻化された形で続いているのだ。

では、子供の「おままごと」と大人の「おままごと」を区別するものは何か?
それは、大人の「おままごと」が「内容」や「目的」のために行われるのに対し、子供の「おままごと」は「形式(役)」で遊ぶことだ。

大人が「おままごと」をするのは、円滑なコミュニケーションを図るためだ。お互いに役割が分かっていれば、コミュニケーションすべき内容がはっきりとしており、「目的」が達成しやすい。

例えば、市役所に行って、住民票の発行を依頼するとする。僕たちは、「市民」という役で、相手は「担当の市役所職員」という役であることを知った上で、役に応じた「形式」で、「住民票の発行」という「目的」に向かって決まった「内容」のコミュニケーションをする。だからこそ、住民票の発行が思ったよりも簡単に行える。

しかし、同時に大人のコミュニケーションにおいては「形式(役)」と「内容・目的」がピタリとくっついている。

「担当の市役所職員」は「市役所職員」の身振りや口調などの「形式」に則り、自身が担当しているおきまりの「内容」を話すだろう。この「形式」と「内容」はピタリとくっついており、どちらかが離れてしまえば、スムーズに業務を遂行できなくなるだろう。

しかし、注意すべきは、この「形式(役)」と「内容」の組み合わせにはまるで必然性がないのだ。別に、ある「内容」を話すのに、決まった「形式」を取らなくてはならない根拠は結局のところなく、「形式」と「内容」は慣習として結びついているに過ぎない。

一方、こどもの「おままごと」のコミュニケーションには果たすべき「目的」がほぼないと言っていいだろう。
こどもの「おままごと」で中心となるのは「いかに形式(役)で遊べるかだ」。

こどもは次々に役を変える。お母さんから、アニメのキャラクター、はたまた動植物…彼/彼女らは「形式」に擬態し、それを次々に自分の思うままに変えることを楽しむのだ。さらに、この「形式の転換」は、状況に左右されない。つまり、この状況だからこういう役を演じなければならないという意識がない。

だからこそ、こどもの「おままごと」には、思っても見ないキャスティングの組み合わせがある。
パパとママから、お花屋さんと特撮ヒーロー、鬼と科学者etc...そこで生まれるコミュニケーションは、役割と内容がセットになっていない。猫だろうが言語を発するし、鬼なのにとても優しい人格者だったりする。ただ、その「役」がひとり歩きしていくのだ。

こどもはあらゆる「形式(役)」の掛け合わせから何が(どのような「内容」が)出てくるのかを試しているのだ。
これは「こどものそうぞうりょく(創造力/想像力)」とでも言えるものだろう。

僕らはついつい、果たすべき「内容」や「目的」に目が行きがちだが**、これらはあくまで「形式(役)」から生まれるものなのだ。
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普段の生活で、あまりにも役を演じるのに疲れている。自分の立ち位置に閉塞感を感じている。上司であることに疲れている、会社員であることに疲れている、明るいキャラとして振舞うことに疲れている…
その時には「こどものそうぞうりょく」が役に立つ。

話す「内容」を変えてみるのではない。身振りや話し方などの「形式」、つまり、自分の演じる役を少し変えてみるのだ。

「期待されていると思い込んでいる」演技をやめて、別の演技をしてみる。

確かに、別の演技をすることは、コミュニケーションという「ドラマ」の進行を妨げる可能性もあるかもしれない。しかし、別の「形式(役)」は、既存のコミュニケーションのあり方からの脱却を促し、新しい「内容」を産む可能性が大いにあるのだ。

A「でも、本当にやりたいのはね…」

4月は、新しい役になることが多い時期だ。同年代の友人は、社会に出ていく。彼/彼女らの「ドラマ」がハッピーエンドになることを願いながら、僕は今日も街のあちこちで演じられている「ドラマ」を探している…

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