父の「たまごライス」

こどものころは、どうしてあんなに毎日お腹がすいていたんだろう。家が貧しくて…とか言うわけではない。普通のサラリーマンの家庭だった。ご飯は毎日ちゃんと三度さんど食べていた。おやつだってあった。お仏壇の前には果物やお煎餅があったし、母が頑張ってドーナツを揚げたりふかし芋を作ったりしてくれた。

それなのに、「こどもの頃の思い出」というと真っ先に思い浮かぶのは食べ物のことばかりだ。駄菓子屋の木の枠にはまったガラスケースの中の丸くて黄色いパン(こども達が「これ買ーおう、でもやーめた!」と人差し指でつつきまわすのでベタベタしてた)商店街のたい焼き屋さんでベルトコンベヤー式たい焼きマシーンがぐるぐる回るのをいつまでも見ていたこと(「気持ち悪い子ねえ!」とお店の人に追い払われた)橋のそばの露店で焼いてもらったアツアツのお好み焼き(緑色の包み紙にたれたソースをなめる瞬間が好きだった)、その他その他、とにかく食べ物のことばかり思い出す。どうしたことか。

その頃は家の新築工事中で、私たち一家は近くのアパートに仮住まいしていた。父の言いつけで母は大工さん達に毎日三時のおやつとお茶を差し入れすることになっていた。慣れない狭いアパートで幼稚園児の私と小学生の兄、70もだいぶ過ぎて足腰の弱くなった祖母の世話と気難しい父の相手をして、大工さんのおやつを運び、茶飲み話に気の利いたことの一つも話す。気の休まるひまもなかったろう。母は過労で倒れて、そのまま入院してしまった。

母が家にいなくて困ったのは食事のしたくだ。夕食は伯母が作りに来てくれた。朝はパンと紅茶、これはこどもでも用意できた。しかし昼は、ちょっと何を食べていたか思い出せない。                   ある日幼稚園から帰ると父がいた。父は三交代勤務で残業も多く、家にいる時はだいたい疲れて寝ているのであまり顔を合わせることがなく、疲れのせいかいつも不機嫌だったので、私も兄も父にはあまり近寄らないようにしていたのだった。私は「オカエリナサイ」とあいさつして、ついうっかり「おなかへった」と口走ってしまった。まずい、しかられる…!目をギュッとつぶった。

父から怒られることはなかった。父は台所でなにかしているらしい。がたごとと動き回っている。そのうちどんぶりや箸のふれあうカチャカチャいう音とジャーッという油の音がして、しょうゆのこげたいい匂いがしてきた。まもなく父がやってきてお皿をさしだし「食え」と言った。        お皿の上にはなんだか茶色いご飯がこんもりと盛られて、ほかほかと湯気を立てている。パラっとした感じのごはんの上には細切りのハムがたくさんのせてあった。しょうゆのいい匂いがするし、腹ペコだし、食えと言われたからには怒られる心配もなさそうだ。「いただきます」と食べ始めて、全部食べてしまった。

「全部食ったのか」と父は意外そうな顔をしていた。私は「お父さん、これなあに?」と聞いてみた。「めしと卵があったから、しょうゆをかけて混ぜて、炒めたんだ。チャーハン…じゃないな、たまごライスだな」と父は少し照れたような口ぶりでそう言うと、そっぽを向いてたばこを吹かした。

ネット上にグルメ情報が多く流れ、ご飯に卵液をまぶしてから炒める「黄金チャーハン」というやり方がある事を知ったが、今から50年も昔にそんなことは知るよしもなく、ましてや普段料理などしない父がありあわせの物で思いつきで作ってくれた「たまごライス」は、素晴らしい偶然の一致で忘れられない味になったのだった。

自分で料理できるようになってから「たまごライス」をもっと本格的にしようと、ネギをいれたりスパイスを加えたり具を増やしたりしてみたが、あまりおいしくない。シンプルなのがいちばん美味しいようだ。アツアツのご飯の上にちらした「冷たいハムの細切り」が不思議によくあう。父が作ってくれたときはロースハムなんて上等なものでなく、ふちの赤いプレスハムだった。ひょっとしてチャーハンから冷やし中華を連想してハムを散らすことを考えたのではないかと思うが、死んだ父には聞くことができない。たとえ聞いたとしても、「そんなことがあったかな」とそっぽを向いて黙ってしまうだろう。


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もにか/monika

今日何してあそぶ?

自分のための文章放牧場。何を書いていいのか悩むんだよね。
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