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生きる「→」について

私のお伝えしている魔術とは、ものすごく普通にいうと「自然に生きる力」みたいなものです。もっというと、ここでいう自然とは「調和」ということであり。「諦めて何もしない」ということでもなければ「自然になろうと不自然に頑張る」ということでもありません。

生きる。ということをシンプルに考える場合。「生まれる→死ぬ」の間の「→」を指していて、その「→」にだけ自分の意思は反映されます。

この「→」は「生きる」ということです。もっとも多くの場合「→」の最大の目的は、出来るだけ長く、出来るだけ無事に「生きる」となりますので、そのために必要な事柄が本来、人間にとっての最重要事項です。

衣食住というのは、そもそも生きるためですし。動く休む(寝る)というのも生きるために重要です。逆にいうとそれ以外の事柄はこれらの付け足しに過ぎないということです。

まぁ、こんなことを言うと非常に物足りなく、抵抗を感じてしまう方も多いのではないかと思います。言っている私もどうかと思いますから(笑)

でも、このシンプルなこと自体を見逃してしまうと、なかなかに現代社会においては生き難いのではないかと思います。手段と目的のすり替わりは日常的に起きていますのでね。

うっかりすると、死んでもいいから(生きるために)働く。とかありますのでね。気をつけなければなりません。

とはいえ、沢山の手段を持つということ自体は、悪いことではありません。多少目的を忘れたとしても、手段にこだわるということは、ある意味文化ともいえるでしょう。

生きるためには暖かい服を着ればいいだけなのにファッション(という文化)のために薄着する。とか。生きるためには栄養をとればいいだけなのに美食(という文化)のためにハイカロリーのものを食べる。とか。

生きる「→」ということだけを考えたら無駄に見えるようなことをしたり、自分で出来ることをあえて他人に頼んだり。逆に自分でしなくてもいいようなことをわざわざ自分でやってみたり。と自分の意思を反映させながら表現していくわけですね。

「生まれる→死ぬ」の間の「→」生きるということは、一本決まった線ではなく、人それぞれ何本も枝分かれして複雑に入り組んでいます。どのように入り組んでいるか?というのは「どんな文化を取り入れるのか?」ということでもあり「どのような意思を反映させるのか?」ということでもあります。

そして、この反映のさせ方が「個性」でもあり、自分の個性を生かす。ということはある意味「自然」なことだったりもします。

何を選び、何を反映させ、どんな表現をするのか?が、自分の個性に合っていてスムーズだった時、人は心地よく感じるのではないかと思います。とはいえ、それだけが「自然」なのではありません。

自分の個性に反しぶつかり摩擦し、あまり心地よくなかったとしても、そうせずにいられなかったとしたら、それもまた「自然」なのです。晴れた日も自然なら嵐の日もまた自然なように「自然」とは思い通りになるものではありませんから。

要するに、自然に生きる「→」とは、どんな形にしろ生きること。なのかもしれません。自然さは時にとても不思議なカタチや、奇跡のような出来事も生み出しますが。それもまた自然である。ということです。

「→」の中の幾つもの物語や、さまざまな要素のぶつかり合いや調和というバランスは、本当に美しいモノだと思います。


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