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一人残らず蹴飛ばすつもりで生きていく

忘れられない文章がある。

受験生の頃、特に夢も目標も無いまま、ひたすらに過去問を解かされていたときのことだ。ただただ、授業時間の許す限り、毎時間毎時間過去問をさせられていたときのことだ。

現国のテスト用紙に、その小説は出てきた。

主人公は中学校の水泳部のキャプテンで、問題文として載っていたのは県大会の場面。

模試のために抜粋されたシーンだから、勿論前後関係はわからない。細やかな伏線や、前日譚はなく、ただ「問題にしやすそうな場面」だけが紙面に載せられていた。

後輩のひとりは、どうやら100メートルを泳ぎ切れたこともないのに、予選に出場していたらしい。同じ種目でエントリーしていた主人公が泳ぎ切り、自己ベストタイムを縮めた感慨に浸る暇もなく、後輩のコースでは無様な水しぶきが上がり、観客席から嘲笑が聞こえてきた。

主人公は、今しがたゴールしたところなのだから、さっさとプールから離れなければならない。他の選手の様子を見に行くなど、もってのほかだ。

それでも主人公は、係員の制止を振り切り、後輩のレーンへ駆け寄った。


「来い、ここまで来い。ここまで来れば、俺がプールから引き上げてやる。お前のことを笑った奴を一人残らず蹴飛ばしてやる!」


模試の過去問とはいえ、授業中で、試験のように臨んでいた時間だ。にも関わらず、私はその文章を読んで、嗚咽を漏らしながら泣いてしまった。

県大会だ。勝敗の決まる場だ。

真剣であればあるほど、足を引っ張る後輩の存在が鬱陶しくなったこともあったろう。上達しない後輩の練習姿に、嫌気が差したこともあったろう。

それでも彼は、自分が係員の注意を受けたって、後輩のゴールを見届けようとしたのだ。後輩を笑った奴を、一人残らず蹴飛ばすつもりで。


著者は、吉田修一。タイトルは「Water」。

問題を解き終わった後の確認も、授業後の自己採点も、どうでも良かった。

自分が選択した解答よりも、著者とタイトルを覚えておかなくてはと思った。

とにかくこの本を、買いに行かなければならないと思った。

本を読んだり、ゲームをしたり、は娯楽の一環だ。受験生の身分で、長々とそれに時間を割くのは、気が引けた。絶対に受験が終わったら、いの一番にこの本を買うのだと決意した。

ノートの切れ端に著者とタイトルをメモして、そっと筆箱の中に眠らせた。

春、泣いても笑っても、私の将来がどうなろうと、あの物語の結末を見ようと心に誓った。

あの県大会の行く末を、四角いプールと真夏のひと泳ぎと後輩のゴールに青春を賭けた彼のたどり着く先を、どうしてもこの目で、この心で見たかった。



結論から言えば、私の悲壮な決意はドラマチックな感動を呼ぶこともなく、粛々と高校生活は終わり、淡々と大学入学は決まり、私は家の近くの書店でこの本を手に入れた。

「Water」は、吉田修一さんの短編集「最後の息子」に一緒に収録されていた。


私が読みたがった県大会のシーンは終盤だった。

最終レースのメドレーリレーで、仲間たちとバトンをつなぎながら、主人公がアンカーとして大会最後の泳ぎを終えるところで、物語は終わる。勝敗は書かれていない。主人公が、順位が出る電光掲示板を仰ぎ見るところで、エンドマークだ。

吉田修一さんの作風をご存知の方はわかると思うが、彼の作品には主人公が「何も変わらない」まま終わるお話が多い。

勿論、明日や明後日は来るし、ずっとプールで練習していた水泳部が県大会に出場する日が来るし、自己ベストタイムが縮まる日が来る。

だけど、主人公が劇的な成長を遂げることはない。

ライバル校の選手には勝てないままだし、崩れていく家族を持ち直させることはできない。気になっている女子といい雰囲気にはなったけど、明確に付き合い始めたりするわけではない。

昨日があって、今日があって、明日に続くための生きざま。平凡な日々を泥臭く生きる人間が描かれている。

メドレーリレーでライバル校に勝とうが負けようが、主人公の人生は続いていくのだ。直前でケンカした友人たちと、宣言通り友達をやめるかもしれないし、もしかしたら仲直りしてまた狭くて暑苦しい部屋に集まって遊ぶかもしれない。気になっている女子と明日から付き合うことになるかもしれないし、甘酸っぱいただの初恋の思い出になるかもしれない。

でも、それでいいのだ。読者の私は、主人公たちが明日も明後日も生きていく、人生の途中を切り取って見せてもらっているだけなのだから。彼の人生のすべてを見届けるだけが、物語の楽しみ方ではないのだから。


高校を卒業するタイミングでこれを読めて、良かったなと思う。高校卒業も、大学入学も、大きな節目であることは確かだけど、それによって私が劇的に人間として変質するわけではないことを、この作品はじっくり教えてくれた。

環境やライフステージの変化に際して、努力して自分のスタイルを変える必要はあるだろう。だけど、努力しなければひとは変われないのだ。就職したら勝手に社会規範が身につくわけじゃない。結婚したら突然良き妻になれるわけじゃない。毎日が連続した私の人生の一日で、日をまたいだからといってすぐに何者かに変身できるわけではないのだ。

逆のことも言える。今日この日は、確かに明日の私を作る一日だ。もしかしたら問題文になるかもしれないくらい、大事な。

背伸びしすぎて疲れた日、逆に何もやる気が起きなくて自分を大切にできない日は、本棚から「Water」を引っ張り出してくる。

40分くらいかけて主人公の奮闘を見守ったら、立ち上がって気合を入れ直すのだ。

私のことを笑った奴を、一人残らず蹴飛ばすつもりで!


※この記事は投げ銭です。
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