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人間は忘れる生き物だから、

忘れられない言葉がある。

「人間は忘れる生き物だから、だからこそ生きていけるものだから」

それは身内の言葉でもなく、友達の言葉でもなかった。

まだまだ日差しが刺さる残暑、学生だった私たちは汗だくになりながら、自転車をこいで印刷所に行った。
文化祭の冊子制作。その入稿確認と学生代表の挨拶セットはどうやら伝統のようで、今年は私たちにお鉢が回ってきたのだった。

依頼先は小さな印刷所で、代表らしいおばあちゃんが出迎えてくれた。
私たちは自己紹介をして、今年もよろしくお願いしますと礼をする。

今年も去年と一緒でいいかしら、何月何日の14時以降○○先生宛で、なんておっとりと的確に言われて、まあ確かにそうなんだけど、先生からスケジュールの確認もしておけと念を押された身からすると、ちょっと拍子抜けだった。

でも、そうだった。このおばあちゃんは、私の先輩の先輩の、さらに先輩の冊子も作っていた。つまり大先輩だ。

暑い中大変だったねえ、と中に招かれた。

そこは、教室や職員室とは全く違う様相の部屋だった。端的に言ってただの事務所だったのだけれど、当時の私には紙とインクのにおいだけで胸がいっぱいになった。
都度買い足したことが分かる、ばらばらの形の椅子をすすめられ、私たちはおばあちゃんと円になるように座った。
奥からおじさんが出てきてお茶を出してくれた。カラフルな花柄が入った、ころんと丸いグラスだった。おじさんはすぐに引っ込んでいった。

「職業柄、他の学生さんの文章も読ませてもらうけれど、あなたたちの高校のものが一番よくできているわ」

本当かなあ、と思いながら、私はすすめられるがままお茶に口をつけた。

コップの水滴が唇を濡らして、きんきんに冷えたお茶が体の中をすべっていく。私は汗をぬぐう。私は隣にいる友達に聞きたい気持ちをこらえて、コップを置く。ねえ、本当にそう思っていると思う?

お茶はほんのりと甘い、不思議な味だった。

おばあちゃんは色々なことを話した。
最近の天気、甲子園の結果、小説大賞の話。面倒を見ていたという、何人かの漫画家の話まで。
おばあちゃんの話は、学校と家の行き来しかなかった私にとって、とても刺激的だった。私はどのタイミングで切り上げるべきかもわからず、延々と話を聞いていた。
作品が楽しみなんだよ、と言ってもらえたときは、飛び上がるほど嬉しかった。

それなのに、私の記憶に鮮烈に残っているのは、たった一言だ。


「人間は忘れる生き物だから、だからこそ生きていけるものだから――」

事務所はクーラーがきいていて、すっかり汗も引いていた。お茶は残り少なかった。コースターに、水滴が気だるげにたまっていた。西日がまぶしかった。それだけは覚えている。
それなのに、何の話題から飛び出した言葉だったかは思い出せない。

過去がどんどん古くなっていく日々で、ただ、彫り物のように残っていた言葉だった。


今でもこの言葉を思い出すのは、たぶん、心をやすりにかけるような記憶に苛まれて生きているからだ。そういう記憶ほど、頻繁に出し入れするせいか中々古ぼけない。よく使う道具がほこりをかぶらないのと一緒で。

それでも、友達に言われた悪口も、身内の心無い言葉も、ほんの少しずつではあるけれど時間をかけて薄まっていく。

他者は、そんな言葉も記憶も、すべてをひっくるめて私という。私はそれを知っていて、それすら含めて私と呼ぶ。

だからせめて、彫り物のように残った言葉はほこりをかぶらないように。

時々は手入れなんかして、思い出したりして。




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