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『お弔いの現場人』を書くのに役立った本たち①浅生鴨さんのコラム「交渉」(『どこでもない場所』収録)

『お弔いの現場人 ルポ葬儀とその周辺を見にいく』という6年ぶりの本が中央公論新社から出ます。
 霊柩車の工場やドライブスルーのある葬儀会館など、葬儀にかかわる仕事をひとたちを訪ねたノンフィクションです。

《ひとは、なぜ弔いの儀式をするのだろうか?
 異端者・パイオニア・他業種からの参入……葬祭業界の最先端をゆく人びとと、お葬式の今を描く書下ろしノンフィクション》

 というオビの宣伝文を担当してもらった編集のFさんからもらったとき、ああ、そうか、そういう問題意識を抱きながらインタビューしつづけていたのだなぁと、我ながらあらためて気づかされました。本になったものを読み返していると、本文中にそうしたことを書いてはいるのだけれど、あらためて抜き書きされることで、「ああ、そうか」と納得するわけで、オビは編集者の仕事の見せどころともいわれますが、このひとと一年仕事をしてよかったと思える瞬間でもありました。
 お母さんが使っていたベッドを仏壇に作りかえた音楽家さん、新幹線で何往復もしながら実家の遺品整理をしたイラストレーターさん、ちょっと変わったお坊さんたちにも話を聞きました。
 取材をはじめたのが2017年の暮れだから前著『父の戒名をつけてみました』の担当編集者の異動を挟んで、2年かかったことになります。一部noteに下書き記事を掲載していますが、全面改稿しました。ご興味があれば、探してお読みいいただけたら嬉しいです。本に収録できなかったりした写真がたくさん掲載されています。
 で、しばらく巻末にあげた《本書を書くのに役立った本たち》の何冊かをちょこっと紹介します。資料として参考にした本をあげていますが、影響を受けたということでは、葬儀の場面が描かれている漫画や小説は、取材をしながら何度も読み返していました。

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 弔いなのに腹から笑ったのは、浅生鴨『どこでもない場所』(左右社)。生活上の体験を綴ったコラム集で、不思議な軽妙さのある作家さんですが(ひどい方向音痴という点にすごく親近感をかんじました)、なかでも十回ちかく読み返しているのが「交渉」という題名のコラムです。
 読めば、なるほどというタイトルですが、祖母のお葬式の日の記憶を綴った内容に、この題名をつけるというのが面白い。

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 本文に入る前の頁に、こんな一文が添えられています。
 どんな祖父なんだか(笑)。

 ちょこっとネタバレになりますが、話をかいつまんで紹介します。
 もうずいぶん昔のこと。実家にもどると、すでにシンプルながら祖母らしい祭壇が組まれていた。
「もう、大変だったのよ」と母親が嘆いている。
 祖父は相当にケチなひとだったらしく、病院から祖母を連れ帰る際に「霊柩車なんかアホらしい」自分の車で運ぶ、と葬儀社の人に言い、何かあってはいけないと諫められ、「だったら一番安い車を」と指定したという。

〈「祭壇は要らない、花も要らない」と祖父は言い切った。棺も適当な入れ物があれば段ボールでも何でもいいと言い出して周囲を慌てさせた。
 母が「せめて花だけは」と、なんとか祖父を宥めすかし、いちおう小さな祭壇と花が置かれた。僕が帰ったのはちょうどそういう一連のやりとりが終わったあとだった。「本当に酷い」と母は言った。「ケチなのは知っているけれど、何もあそこまでしなくても」と怒っていた。〉

 葬式は身内だけの質素なものだったというから、いまの「家族葬」がおもい浮かぶ。冒頭から強烈な祖父像だ。徹底してムダなものを排除しようというのは、性格もあるのだろうが、祖父が機械エンジニアだったというところに由来するのかもしれない。
 そういえば、拙著の『お弔いの現場人』には、母親が寝ていたベッドで仏壇をつくったひとが出てきます。動機のひとつが「捨てるのはもったいない」「これはつかえる」とのひらめきで、音楽家にして自分で風変わりな電子楽器をつくるひとです。
 だから、ただのケチではなく、不合理なことが嫌だったのだろうかその祖父は、と想像しました。

〈故人の死を悼むのは、実は生きている者を慰めるための行為なのだと割り切れば、祖父の言い分はわからないでもない。でも、何十年も連れ添った祖母に対して、最後にそういうことを平気で言える祖父のことを僕はよく理解できなかった。〉

 ちょうど葬儀の取材をしていたこともあり、〈実は生きている者を慰めるための行為なのだ〉という箇所を何度も目でたどりなおしたのを記憶しています。ひとは、どうして葬儀をするのだろうと考えていたからです。

 最高にヘンクツな祖父のキャラクターで、このあと葬儀はどうなっていくのか。ツカミとしても最高!
 期待に違わず祖父はやってくれます。お坊さんに「お布施はなんぼ払わないかんの?」とたずねる。お気持ちで、といわれ、祖父なりに考えたのでしょう。「お経、半分でいいですわ」という。
 お坊さんが、なんともエライ。立腹したりせず、静かな口調で、半分というわけにはいかないという道理を説明する。
 しかし、この祖父がすごいのは「そしたらですね。小さい声で頼みますわ。できるだけ小さい声で」と交渉するところ。

〈僕はひっくり返りそうになった。コントかよ。声の大きさでお布施の金額が変わると思っているのか爺さんは。もう何を言っているのかわからない。勘弁してくれ。〉

 そこで、家族が祖父を連れ出し、読経となるのですが、そこからがさらに吹き出しそうなくらいおかしなことになっていくわけで。そういえば、拙著の中に登場するインディーズのお坊さんは、最近のエコノミーなお葬式では出棺までの時間が限られていることが多く、「お経を短くしてくれ」と頼まれることがあるという。「えっ、どうしているんですか?」とたずねたところ、「速度をあげます」。テープレコーダーの倍速みたいに場によってスピードを調整するのだとか。たとえ端折ってもわかるひとは少ないだろうが、このコラムにあるように短くするわけにはいかないものらしい。そこはプロフェッショナルならでは、だ。

 そして、読経中に、さらにさらにあってはならないアクシデントが起きる。この紹介は抜粋なので、顛末はじかに本文のコラムで確かめてもらえたら紹介者としても嬉しい。言葉のリズムから、親族があきれはてる「祖父」が、やがて愛嬌を感じるようになるからだ。ここまで徹底していると、むしろすがすがしい。葬儀は笑いの中で終わったそうで、だれもが忘れることのない一日になったという。

 最後の一文を作者はこう記している。
〈祭壇に飾られた写真の中では、祖母が穏やかに笑っていた。この祖父と何十年も連れ添った祖母は祖母で、やっぱり只者じゃなかったんだろうな、と僕は思った。〉

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