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"13年間、現場へ通った彼から聞きたかったこと"


『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』(東洋経済新報社)を書かれた松本創さんをインタビューしました。

 聞き手=朝山実

👆『軌道』のエピローグに出てくる、淺野氏の畑に実ったレモンの木。妻の陽子さんと弥三一さんが植えたもの(撮影者=松本創氏)👇



 松本創さんをインタビューしたのは2018年4月。事故現場を案内してもらえるというので、JR尼崎駅で待ち合わせた。

「福知山線の事故現場まで」

 タクシーに乗り込むと、松本さんは通いなれた口調で行き先を告げた。

「明日の慰霊祭の準備で、きょうは人が多いかもしれません」

 運転士を含む107名が亡くなられた大事故が起きたのは、05年4月25日。13年が、経過したことになる。
 現場近くの線路沿いで降車。本に掲載されている写真を撮影した陸橋まで歩く間、周囲はまばらな住宅地に風景を変えつつあるが、かつては町工場が点在し、ダウンタウンのふたりが遊んでいた場所だと教えられた。
 事故当時、電車が直進してきた宝塚方面を陸橋のフェンス越しに見ると、きれいな一直線で、運転士となって一年足らずの若者が度重なるミスと遅延を取り戻そうとして無理に加速させた、焦る姿がイメージできた。

「いまはもうATS(自動列車停止装置)が整備され、うるさいぐらいに警告音が鳴る。会社の意識も変わって、運転士が無理に加速することもないでしょうが」

 
 なぜ事故は起きてしまったのか。事故を起こしたJR西日本が変化していった経緯は『軌道』を読んでもらいたい。本書は、13年前の事故で妻と妹をうしない、次女も重傷を負った淺野弥三一(やさかず)さんという、都市計画が専門の市井の技術者が、事故原因の究明を「遺族の社会的責任」と言い、遺族としての感情を抑え、粘り強い折衝を続けた末に、加害企業のJR西日本を変えていった足跡を記したドキュメンタリーである。

 小雨まじりの曇天。傘を差した松本さんがタバコに火をつけた。聞けば、ヘビースモーカーではないという。初対面の間が持たないのか。
 陸橋を下り、電車が衝突したマンションのある場所まで引き返す間も、数分間隔で電車が通過していく。円弧を描くカーブのためだろう、車輌はかなり傾斜していた。

「明日は、ここも取材のカメラで一杯になります」

 線路の向こうに見える、パビリオンを思わせるアーチ状のドームは、電車が衝突した痕跡の残るマンションの4階部分までを、事故を忘れないために保存するためのものだという。報道陣の撮影ポイントだと聞いて、ちょっとそこに立ってもらえますか、と頼んでみる。
 目線を訊ねられ、適当にあっちと指示をする。ふだんはカメラマンと一緒なのだが、今回の「週刊朝日」の著者取材は、関西出張を許してもらう代わりに写真はわたしが撮ることになった。


 その後のインタビューは駅の近くの喫茶店で行った。
『軌道』
が読み手を惹きつけるのは、淺野さんはもちろんのこと、「JR西日本の天皇」といわれた井手正敬(事故当時・相談役)さんや、事故後にJR西日本の社長に就任した山崎正夫さんらの動きが「人物像」とともに臨場感をもって綴られていることだ。とくに淺野さんに関する記述は、日ごろ些細なことで落ち込むわたしにとっては、読んでいて励まされるところが多かった。そんな感想を述べたところからインタビューを始めていった。

「ありがとうございます。淺野さんという人は、たしかに社会的にすごいことを成し遂げた人なんですが、ただまあ、身近な人にしてみたら、ちょっとかなん(困った)人でもあるんですよね。頑固やし(笑)。
 エピローグにもちょっと書きましたが、これといった趣味もなく仕事一筋で生きてきて、人付き合いも上手じゃなく、淋しいところもある。
 事故後は広い家にひとりで住み、料理を覚えたら、それが小さな楽しみになって、知り合いと時々レシピの交換をしている。そういう人間的な面も含めて描きたかったんです」

 だから、英雄視する書き方はしたくなかったと松本さんは言う。「JR西日本を変えた男」という、一面だけではないものを描きたかった、と。

──事故の前から、淺野さんの奥さんも含め、知り合いだったと書かれていますが、そもそもは?

「淺野さんと知り合ったのは、尼崎の公害訴訟が最初です。僕は神戸新聞の記者で、フラットな取材対象者という関係だった。訴訟が和解した後、公害地域の再生に取り組もうと、淺野さんの事務所の若いスタッフと一緒に『南部再生』というフリーペーパーを作り始めたんです。
 僕は当時、新聞社の整理部に異動になり、取材できない、原稿も書けないフラストレーションがたまっていたので、勤務の合間によく事務所に出入りしていたんですよ」

 ここから話は、松本さんがなぜ新聞社を辞め、フリーランスのライターを選んだのかを聞いていくことになる。『軌道』を書いたのは、いったいどういう書き手なのかを知りたかったのだ。

「もともとは新聞じゃなく、雑誌や本を作る仕事がしたかったんですよ。新卒の時はいくつか出版社を受けましたよ。全部落ちましたけど(笑)。
 中高時代は、ひと言で言えば田舎のサブカル少年ですね。
 町山(智浩)さんがいた80年代の『宝島』とか、創刊したての『ロッキングオン・ジャパン』とか、青年誌から少女漫画まで熱心に読んでました。
 高校1年からバンドを始め、特に(
忌野)清志郎さんのロングインタビューを穴が開くぐらい繰り返し読んで、そこに出てくる小説を読んで……。いずれ、こんな記事を書く仕事がしたい、ぐらいに思ってたかな」

 その頃に読んだ本として松本さんがあげたのは、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンやリルケなどのドイツ文学だった。たまたま忌野清志郎が読んでいたのがきっかけだったという。

「高2ぐらいやったと思います。清志郎さんがオーティス・レディングになりたいと言えば同じように聴くし、口ひげはレイ・チャールズ風だと知ればマネしてみるという状態だったもので、本もそういう後追い感覚で手に取っていきました。
 高校は、函館ラサールという男子校で、寮生活でした。
 生まれは大阪ですが、父親の仕事の都合で、小学校の途中から仙台、中学は青森で卒業。高校でまた転校となれば大変なので、津軽海峡を挟んだ函館の、寮のある学校に入ったんですけど、これがツラかった。
 寮生活にうまく適応できず、成績もゼンゼンだし、どんどん精神的に落ちこぼれていった」

──ヘッセは面白かったんですか?

「『デミアン』や『春の嵐』も好きでしたが、やっぱり『車輪の下』が……。中学の課題図書で読んだ時は、もう暗すぎて苦痛やったんですけど、これも清志郎さんが『ロッキングオン・ジャパン』の初期の2万字インタビューで語っていたので再読したら、すっかりハマった。
 神学校の寄宿舎の話ですが、清志郎さんの言葉を借りれば、ヘッセの小説の主人公というのは、すごい才能の持ち主なんだけど、最後まで世間に認められずに寂しく、それこそ車輪に轢かれて死んでしまう。
 そのインタビューでは、RCの売れない暗黒時代と重ねて語られていて、以来、RCの暗黒話とともに大好物になりました(笑)」

──大好物って(笑)。他に印象に残っている本はありますか?

「バルガス=リョサというペルーの作家の『都会と犬ども』ですね。これも寮生活の話ですが、新聞の書評で見て、すぐに買って夢中で読んだのを覚えています。
 話をおおざっぱにいうと、故郷では秀才と呼ばれた純真な少年たちが、士官学校の寮で暮らすうち、卒業する頃には欺瞞や狡猾に染まり、心が汚れまくっている。すごいリアリティを感じました。
 高校生活がほんとうにシンどくて、でも、だからといって退学する根性もない。本もバンドも、そういう鬱屈からの逃避だったんでしょうね」

──それで大学は?

「大学は同志社です。第一志望は早稲田の文学部で、ドイツ文学をやる!とか言うてたんですけど、なんとなく併願していた同志社しか受からなかったんですよ(笑)。
 就職はさっき言ったように、いちおう出版社志望だったんですが、リサーチも就職対策もせず、なんとなく名前を知ってる会社だけ受けて……そんなんで受かるわけがないですよね。大学ではバンドばっかりやってたし、読書といえば、大江健三郎とか安部公房、大江の影響でサルトルとか、時代に遅れたものばかり読んでいました」

──大江に安倍公房って、カンペキな文学青年ですね。

「いや、ぜんぶナンチャッテです。ちゃんと読めてないし、全然身にもなってない。どの本も、なんとなくの雰囲気、断片的な文章や場面が少し印象にあるぐらいですもん。細部までちゃんと覚えてるのは、手塚治虫ぐらいですね」

 松本さんはベタな関西弁で、何度も「ナンチャッテで」「なんとなくの」と謙遜するのがおかしかった。わたしは作家さんをインタビューするのを仕事にしているが、10代の頃に最後まで読めた本は10冊もない。名著名作はほとんど読んて来なかった。『車輪の下』を手にしたのはつい一年前だ。だから松本さんがナンチャッテを繰り返すたび楽になれた。

「神戸新聞に入社したのは92年。3年目に阪神・淡路大震災があったんです。それがなければ、もっと早く辞めていたでしょうね。相変わらず本や雑誌を作りたかったし、10年目からは整理部で内勤でしたから。
 ただ、『整理が嫌だから辞める』みたいなのもカッコ悪い、辞めるなら一通りできるようになってからだ、という考えも一方にありまして……。
 結局、会社には14年間勤めたんですが、内勤の4年間は日々の鬱屈を、同じ会社の記者だった妻にグズグズぶつけていた。

 彼女は新聞記者になりたくてなった人で、ずっと外勤でした。で、僕があんまりグズグズ言うのが、鬱陶しかったんでしょう。
『それやったら、もうアンタ辞めたら?』と言われ、それが直接のきっかけで決断したんです」

 背中を押されて決断したのか。いいヨメさんだなぁと思った。
 意外だったのは、松本さんが新聞記者になるまで、ノンフィクションの類は、ほとんど読んでこなかったと話されたことだった。

「本を読むイコール文学という、きわめて狭い自分の思い込みがあり、しかも読むものは偏っているという……。
 あの、こんな自分の話ばっかりしてて、いいんですか?」

 問い返されたのは、インタビューを始めて30分くらい経過した頃だ。
 天候が気がかりだから、と事故現場を先に案内してもらった時点で1時間を費やしていた。場所を移してからの質問も肝心の『軌道』の中身に至らない。
 問いたくなるのはもっともだ。

『誰が「橋下徹」をつくったか 大阪都構想とメディアの迷走』『日本人のひたむきな生き方』など、松本さんの過去の著作も取材にあたって読み返した。せっかく会って話を聞くからには、本には出てこない松本さん自身のバックグラウンドを知りたいと伝えた。というのも、文体が新聞記者が書くものとはちがっていたからだ。


「取材して書くという行為が面白いと思うようになったのは新聞記者になってからですが、同時に違和感もわいてきたんですよ。
 たとえば、殺人事件なら『卑劣な犯行、許せない!』と紙面全体で憤り、震災報道なら『鎮魂、祈り、忘れない』と涙を流す。
 確かにその通りではあるんですが、『許せない!』『忘れない』みたいな見出しで括った途端、ひと言では片付けられない個々の背景や、もやもやした迷いが切り捨てられてしまう。
 整理部の立場から言えば、それもまあ、わかるんです。
 新聞の機能として、まず善悪や構図をはっきりさせ、多くの人にわかりやすく伝えようとする。でも、自分が書きたいのは、こういうことじゃないよなぁと常に違和感があった。
 記者になって、遅ればせながらノンフィクションに興味を持ち、一番読んだのは沢木耕太郎さんでしょうね。
 特に初期の作品に圧倒された。『テロルの決算』や『人の砂漠』のようなものを自分もいつか書けるんだろうか、いや、とても無理だな……と思いました」

──沢木さんのタイトルを聞いて、腑に落ちるものを感じました。『軌道』は人物記として、場面の描写が面白い。たとえば、事故後にJR西の社長に就任した山崎正夫さんが、新聞で見た淺野さんの講演会を聴きに行き、たまたま松本さんの隣に座る。休憩中、講演終了後の懇親会への参加を問われ、山崎さんが手をあげている場面です。体面を取り繕わない、周囲が呆気にとられる人物像がよく描かれている。

「ぜひとも書きたいと思った場面がいくつかあって、ひとつがいま言われた場面です。
 小さな講義室で講演の開始を待っていると、山崎さんがひとりでフラリと入ってきて、隣に座った。淺野さんの真正面、前から三列目の席ですよ。JRの人間なら、普通は遠慮して目立たない席に座るだろうに、よほど興味があったのか、なんなのか……。
 彼には、それまで何度も取材依頼をしては断られていたので、顔ぐらいは覚えているだろうと、こちらから名乗りました。
 講演中も熱心にメモを取っているので、今日はどうして?と訊いたら、『新聞で知って、自分で申し込んできたんだよ』と言う」

──山崎さんの気さくな口調が、本を読んでいても面白かったです。

「口調は、本当にあのまんまの江戸っ子で、なんやオモロイ人やなぁと。講演終了後に地下の居酒屋で懇親会をするので、希望者は挙手してという案内に、隣で真っ先に、躊躇せず手を挙げる。
 えっ!? 行くんや、この人……とびっくりしました。
 加害企業の社長だった人が、遺族側の内輪の会に参加するなんて、普通あり得ないでしょう。それが、彼は一人で参加し、しかも末席に座って、店員からビールや皿を受け取って、運ぼうとしている。
 3万人の企業のトップに立っていた人がですよ。
『山崎さん、そんなことは僕がやります』と言っても、『いや、いいんだ。慣れてるからさ』って(笑)」

──慣れているって(笑)。

「彼は、東京の下町の職人の家の育ちなんですよね。職人の家系であり、同世代の技術屋というのが、淺野さんとの共通点。その場に遭遇した時、この二人の人間性と、関係性を描きたい。
 はっきり思いました。
 もう一つ、どうしても書きたかったというか、取材で明らかにしたかったのは、山崎さんが、なぜJR西日本の社長に選ばれたのか、その経緯です。
 天皇と畏れられた相談役の井手さんに嫌われ、山崎さんは何年も子会社に出されていた。圧倒的に事務系が力を持つ組織で、技術屋の社長というのは本来あり得ない人事だった。
 舞台裏で何があったのか?
 ここは重要なポイントでした。
 山崎さんでなければ、あの巨大な官僚組織が変わることはなかったわけですから。当時、人事担当の専務だった坂田さんや、山崎さん本人に何度も話を聞き、最終的に井手さんからもウラを取りました」

──山崎さんに対するインタビューはどれぐらいされたんですか?

「3~5時間のインタビューを3回ですね。JR西関係者への取材が本格化したのは2017年になってからで、それまでは淺野さんの周りの、遺族側の取材を順次していました」

──この本について特筆すべきことの一つは「事故から13年後」に形をなしたということだと思います。

「結果的に時間がかかってしまったんですよ。淺野さんサイドの話をまとめるだけなら、もっと早くに書けた。だけど、浅野さんが事故後にやってきたことが、どのようにあの官僚組織を動かしたのか。JR西の誰が淺野さんの訴えに反応し、中から変えようとしたのか。
 組織の内情を書かないと、十何年も経って本を出す意味はないと思っていたので」

──前史となる国鉄改革の歴史も敷衍し、硬質で厚みにあるルポになっています。

「僕は国鉄改革やJRの組合問題に詳しくなかったので、この本を書くのは手に余ると思ったことも、正直あります。
 でも、たった一つだけ、他の取材者にはないアドバンテージがあった。
 自分は淺野さんという、ご遺族の意思を背負っている。ただのジャーナリスティックな興味で来たんやない。JR側に取材申し込みをする際、僕の背後にはご遺族がいてるんですよ、ということは強調しましたね。
 実際、淺野さんの負託に応えねばならないというのが、自分の第一のモチベーションでしたから」

👆写真は上から2015年、16年、17年、それぞれ4月25日に事故現場を撮影したもの。背後にあるのが車輌が衝突したマンション(撮影者=松本創氏)



 話を聞く中で、松本さんが『軌道』を書く上で重要な存在となった、ひとりの名前を挙げた。

「事故当時の専務の坂田さんの存在は、めちゃくちゃ大きかった。(本の中では、淺野さんと対をなす)山崎さんは真っすぐな性格の、ほんとうに飾りや衒いのない人なんですよ。しかし、あの会社では主流ではなかった技術屋さんで、社内政治や根回しもできない。空気を読むということをしないというか、できない人なんですよね。
 だから、自分がいいと思うことは臆さずやるわけですが、そういう人間だけでは、あれだけの巨大な官僚組織は動かせるものではない」

──たしかにそうでしょうね。

「子分を作るような人でもなく、言うたら悪いけど、社内では孤立していました。起訴され、退任が決まった時に、山崎さんが淺野さんの家を訪ねた際、事故原因の共同検証をしようという呼びかけに応じるんです。
 その場で、やりましょうと答えたものの、それをいったい誰が具体的にレールに乗せるのか、誰が社内を説得して回るのか❓
 共同検証の受け入れを山崎さんが独断で決めてきた時、社の幹部たちはびっくりし、慌てたと思いますよ。あんた、何を勝手なことしてくれるねん、と」

──それはそうでしょうね。

「そこで大きかったのが坂田さんの存在です。東大法学部卒で、国鉄時代から労務畑におり、JR西では井手さんの覚えもめでたい。経歴だけ見れば、バリバリのエリート官僚です。
 でも、坂田さんには遺族の思いをくみ取れる人間的な良心と、組織の欠陥を冷静に見極める、絶妙のバランス感覚があった。
 井手さんのことも尊敬しつつ、冷静に見ている。右に倣えで、おもねる人間ばかりの中で、坂田さんだけは、井手さんに耳の痛いことも言っていたと聞いています。井手さんもそういうところを買って、コイツは14期も下で生意気なチンピラだけど、見どころがあると思っていたようです」

 坂田さんを語る松本さんの口調、表情は弾んでいた。ノンフィクションを書こうとする者の多くがそうだろうが、取材を重ねるうちに対象の中に、自身と相似した一面を見つけ出し、何がしかを投影させて書くことがある。客観描写だけでは、面白いものにはならない。
 松本さんの場合、淺野さんや山崎さんであるよりも、それは坂田さんだったようだ。読み手としては意外でもあった。なぜなら、対をなす二人に比して、坂田さんを描写する場面がすくないからだ。

「坂田さんはバランサーですし、どちらかと言えば調整型の人ですから、井手さんや山崎さん、あるいは淺野さんのように強烈なアクがないんですよ。だから本の中でも、その三人ほどは印象に残らないかもしれないですね」

──人物記としては、遺族を代表する淺野さんと、加害企業側の山崎さんの物語として収斂していきます。『軌道』という二本のレールのタイトルの意味もそこにあるのでしょうし。しかしながら、対話の相手として認め合い、意識しあいながらも、実際にこの二人が対面して話をする機会はそんなにはないんですね。

「山崎さんの社長在任中、二人が直接対面して話したのは、山崎さんの就任時と退任時の二回だけで、遺族説明会などの場では、お互い離れた場所で向き合うという関係でした。けれども、どこか共鳴する部分を互いに感じていたのが面白いと思ったところです

──戦国武将の関係みたいですね。

「そうそう、敵に塩を送るみたいな?
 この本は淺野さんと山崎さんの関係が軸になるという考えは早くからあり、山崎さんを説得するのに苦労していたら、淺野さんが、坂田さんに相談したらどうやろうと言われた。で、会いに行くと、最初は『協力はするけど、自分が名前を出して語るのもなぁ』という反応だったんです。
 それが、何度か会って話をするうちにだんだん変わってきた。
 僕自身、坂田さんに共鳴したのは、自分にもバランサー的なところがあるからかもしれません。
 いつも書いていて、ここでズバッと言い切ったり、突き抜けた主張や感情を書いたりするべきなのかなぁ、と思うことがあります。それができないのが、自分のオモロなさかもしれない、と。でも、性格だからしょうがないですよね」

──個人的には、もう少し松本さんの場合、書き手の姿が出てもいいように思いますが。それで、気になったのは、松本さんは過去の本でも、文中の書き手としての主語を「私」にされていますね。「僕」ではない「私」にされているのは?

「それは別に一貫したものでもなくて、『ミーツ』という関西の雑誌で書いている連載コラムでは、『俺』にしています。ニュースをネタにした時事コラムなんですが、堅苦しくしたくないというのもあって」

──「俺」のこともあるんですか。それにしても、面白いのは「私」を主語にしながら、どれもが影武者の印象がする。カメラのようというか。カメラを構えている「私」が姿をあらわすのは、『軌道』でいえば山崎さんを講演会の場で声をかけられる場面とかに限られる。対象との関係性の中でのみ「私」が登場するんですよね。

「いま言われた問題は、ノンフィクションを書く上で重要な問題だと思います。自分が意識しているのは、まず取材対象に対する視点を、どの位置に、どんな距離感で置くのか。
 たとえばこの本だと、淺野さんの肩越しに事故とJR西を見る。
 橋下現象を書いた本では、メディアスクラムの一歩外から、橋下氏を取り巻くメディアごと彼を見る。
 ルポやジャーナリスティックな記事では、よく取材対象に『密着』すると言いますよね。あるいは、全体像を俯瞰する『神目線』で書いたりする。

 僕は、密着や神目線が必ずしも、いいとは考えていません。視点の置き方は、いろいろ工夫できるはず。それともうひとつは、『私』の濃度をどこまで出すか、だと思っています」

──「私」の濃度ですか。

「出しすぎて、自分語りになるとうるさいし、薄すぎても読んでいて面白くない。もちろん、その濃度は書き手の個性や、何を書くかによって変わってくるものだと思います。
 書き手としての自分は、『私』を前面に押し出して面白いタイプだとは思っていません。強烈な個性や、波乱の人生経験があるわけでもないし、さっき言ったようにバランサー的な面もあるので。
 ただ、この本に関しては、淺野さんという人を自分はどう見ているか、彼の言動に何を感じたか、そこは節度を保ちながらも出していきたかった」

──具体的には?

「たとえば、事故から1年の淺野さんの手記を、僕が聞き書きして雑誌に書いた場面があります。
 二人で向かい合ってゲラを読んでいると、淺野さんが、ふと『こういうのを読むと……』と漏らす。修正かと思って顔を上げたら、眼鏡を外してハンカチで目を押さえていた。

 そういう取材対象との関係性や距離感は書きこみます。あくまでうるさくない程度にですが。
 自己主張しすぎかなと、常に気になるのは、新聞記者的な習い性でもあり、それ以上に、自分のバランサー的な性格なのかなと思います」

──最後の質問なんですが、新聞社を辞める際に不安はなかったですか?

「もちろんありましたよ。
 僕なんか、ジャーナリスト的な正義感もないし、専門分野があるわけでもない。おまけに、力強く言い切ったり、糾弾や追及するよりも、ああでもない、こうでもないとモヤモヤ考える性分ですから、わかりやすい『看板』がないんです。
 ただその分、人物や物事の実像を、多面性や厚みを含めて書きたいとは思っています。この本で言うと、JR西の独裁者で、事故の張本人だとマスコミから猛批判を浴びた井手さん。彼を書く時に、そういう思いは強かったですね。
 傲岸不遜な独裁者だったのはその通りだし、遺族の怒りを買うのも当然なんですけど、彼には彼の主張や論理があり、功罪の両面がある。そこはちゃんと聞いて、記録しておきたかった」

──事故後に表に出ることのなかった井手さんのロングインタビューをする。その経緯を明かすとともに、発言内容の是非はさておき、言葉に人間が表れている。

「ありがとうございます。でも、どうしても自分の書きぶりだと、週刊誌なんかでは見出しが立たないですよね。読者の目を引くニュースにならない。もっと痛快に一刀両断してください、となる」

──時代の空気もあるんでしょうけど。週刊誌的な見出しが立てにくいということでは、沢木さんの『人の砂漠』はそうかもしれない。でも、松本さんの細部でモヤモヤされているところ、共感します。

「そもそも、見出しの立たないものをこそ書きたいという志向があるんですよね。あるいは、こういう構図で、こんな悪いやつがいて……と、さんざん報道され尽くしたことを、後からノコノコ出かけて行って、『エーっと、アレは実際のところ、どうやったんですか?』と、もう一度、ためつすがめつ考え直してみるとかね。
 そんなわけで、フリーになるのは、そりゃもう不安でした。こんなんで仕事くるんかなぁ、と。いや、過去形じゃなくて、いまだに不安です」

 時計を見ると、三時間は超えていた。お代わりができるというコーヒを三杯も頼み、飲み終えていた。
 駅へ向かう別れ際、夕飯の食材を買うのでスーパーに寄るという。「取材がない日は、ほぼ主夫業ですよ」と笑った顔がよかった。

■文責・朝山実
(松本氏提供以外の写真は、朝山が撮影しました)


週刊朝日2018.6/8号

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