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ゼロから学ぶ総理大臣3〜石橋湛山〜

皆さんこにゃにゃちわ〜、もののふです!
皆さんってどんな仕事やバイトをしたことありますか??
わたくしは塾講師からコンビニ、郵便局、引越し、キッチン、派遣、はたまた教科書出版社編集局のしたっぱもやってました。
塾講師以外はそこまで長くやっていませんでしたが、それぞれの業界から学ぶ物は多くありましたね。
今思えば肉体労働の大変さや、正社と派遣との対立、やりがい搾取、したっぱ時代はゲンコツが飛んできたこともあってこの世は「あゝ無情」ということを学べました。
ある意味仕事が今の自分自身を作っていったのだなぁと思いました。
そう考えると政治家は政治家になる前になんの仕事していたか、気になりませんか?
たとえば田中角栄(たなかかくえい)は前は土建屋さん、それを活かして道路に関する法律をバンバン作っていきました。
かの吉田茂(よしだしげる)も元外交官という職歴を活かし、外交関係を深めて日本独立を叶えました。
戦後の総理の前職は地方議員、秘書、官僚等が多いですが、ここに新聞記者という少し変わった職歴があります。
権力を監視するジャーナリストの仕事から、権力の頂点である内閣総理大臣へ。
しかもそんな一風変わったジャーナリスト総理大臣はなんとお坊さんでもあったのです!!
「和尚」と呼ばれたその男こそ、そう石橋湛山(いしばしたんざん)です!

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ちょっと緊張してる石橋湛山

今回はそんな和尚でジャーナリストな石橋湛山を彼の人生を見ていきましょう。

湛山と3人の師〜合理的な自由主義者〜

石橋湛山は1884年9月25日の東京、幼名は省三(せいぞう)として生を受ける。(湛山という名前は中学卒業時につける)
当時は鹿鳴館文化の絶頂期で日本政府は諸外国に前ならえの時代だった。
そんな時代に湛山は「せいちゃん」「せいちゃん」と呼ばれ、可愛がられてた。
母からは木登りや水泳を禁じられるほどの「お坊ちゃん」として育てられたらしい。
父は杉田湛誓(すぎたたんせい)、名前からわかる通り僧侶であり、日蓮宗の法主(いわゆる宗教のトップ)まで登りつめた人である。(ちなみに石橋姓は母の石橋きん由来)
当初東京に住んでいたが父の住職への転身に伴い、山梨県へ。
父からは学校帰りに漢文を学ばされるほど「厳格」に育てられた。
そんなある時である、石橋湛山は親元から離れることになる。
父、湛誓が新たな地の住職に任されることになり、盟友の望月日謙(もちづきにちけん)に湛山は預けられることになったのだ。
この日謙が湛山の1人目の師匠になることになる。
日謙の元で過ごす湛山は修行僧と共に掃除や給仕等をそつなつこなしていた。
しかし中学時代の湛山は本人曰く「生来の怠け者」というのもあり、2回も落第。
しかもある時に中学への通学路で買い食いをしまくり、なんと学校への月謝を使い込む悪童っぷり(要はクソガキってこと)をみせる。
これに対して日謙は湛山を一切叱らず、黙って学校側に月謝を払ったという。
この寛容にもすぎる教育法は湛山を恐縮させ、心から反省させることになる。
これ以降日蓮宗も崇拝していき、いつも枕元には日蓮の教えが書かれた開目抄がいつもあったという。

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これは日蓮もニッコリ。

さて2年も落第した湛山だったが、これが幸いとなり中学で2人目の師匠に会うことになる。
その人は大島正健(おおしままさたけ)、新たに赴任してきた校長であった。
大島は敬虔なキリシタンであり、かの「少年よ大志を抱け」で有名なクラークの元で学んだ1人であった。
大島は学校の細かな校則を全て撤廃、自由なスタイルに湛山は「一生を支配する影響を受けた」と振り返る。
大島の自由なスタイルは欧米のキリシタン的な発想であり、それ学ぼうと湛山の枕元にはいつも聖書があったという。
日蓮宗の開目抄とキリスト教の聖書が横にならんだ枕元など湛山ぐらいだろう。

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湛山の頭の中は日蓮とキリストが2人で踊っていたのだろう。

そして湛山は今でいう東大を受けるのだが2年も落てしまう、その後早稲田大学の文学科に進むことになるのだが、そこで3人目の師匠に出会う。
実利主義の講師だった田中王堂(たなかおうどう)、その人である。
早稲田の学生達からは授業が難しすぎるため、避けられてきた。(今で言う落単する授業)
しかし難関な田中の授業を湛山は耐えに耐え、とうとう目覚めるのである!
仏教倫理とキリスト教の自由な博愛主義加え、社会発展を阻害しない限り個人の欲望を肯定する実利主義を併せ持ったのだ。
この時合理的な自由主義者、石橋湛山が生まれたのである。

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日蓮・キリストと同じように湛山の頭の中で踊る田中王堂もすごい状況である。


1つならまだしも、この3つの思想をうまく融合したのが石橋湛山、これが石橋湛山が癖が強い理由とも言えるだろう。
実際湛山の友達からは「各々の能力は非常に凡庸だ。ゆえに彼は凡庸の王だ」と評価されている。
確かに平凡な男かもしれない、しかしそれを3つ併せ持ったからこそ石橋湛山という男に深みがでたのかもしれない。
留年2回、悪童っぷりをみせたはずの湛山は、輝かしい目覚めにより早稲田文学科を首席で卒業、その後、今で言う大学院に進学して一年後ジャーナリストへの道を進むことになる。

ジャーナリスト湛山〜正論マシーン〜

最初は東京毎日新聞社に入社したが、東洋経済新報社に転職、またここで目覚めることになる。
東洋経済新報社、名前の通り経済を専門にした会社だ。
しかし石橋湛山はどちらかと言えば哲学や思想が専門で、経済はお初。
だがここでへこたれない湛山、経済の勉強を始める。
しかもJ.Sミルやセリグマン(外国のえらーい学者さん)の経済原論等を原書で読むのだ。(もちろん中身は外国語)
それを会社に通勤する電車で読んでいるのだから、周りからしたら『いつも洋書を読んでる変なおじさん』に見えただろう。(ちなみにほんとうに周りから街の経済学者と呼ばれていた)
しかしこの湛山の努力はジャーナリストとしての力だけでなく、のちの吉田内閣で大蔵大臣を務める時に大きく発揮することになる…。
ちなみに石橋湛山は読書として

1、書物は厳選する
2、一日の読書時間を決める
3、なるべく原書を読む


なのでみんなマネしてみよう!!(なお筆者は外国語はインドネシア語しか出来ないので外国産原書なんてほぼ無理だぞ!!)

さて、そんなパワフルな石橋湛山はどんなことを新聞記事に書いたのだろうか。


・最低賃金制定して貧民発生を予防しようぜ
・女性は人権を求めるが男のマネだけすりゃいいってもんじゃないべ→まずは女性の経済的独立が優先だわ
・普通選挙は国民への教育も含んでるからみんなに投票権渡そうぜ
・暴力革命とか多様性を排除したがるからやるなよ→でも考えるだけならいいと思うぜ(自由主義者感)
・暗殺事件起きるけど本人以上にそれを肯定する社会を作った我々自身も反省必要じゃねぇの??
・体調悪くて仕事できないなら総理辞めなぁ!?(直球)
・てか日本植民地いらなくない??

…これを書いたのは戦前である…。
もう一度言おう、戦前である!
今なら当たり前の話や、なるほどと思うような話が多い。(Twitterなら一躍有名になりそうだ)
当時とても先進的な思考の持ち主だったと分かる。
先程述べた通り湛山は日蓮宗、キリスト教、実利主義をうまく組み合わせ、合理的な自由主義者として爆誕したのだ。
合理的な自由主義者な彼は言いたいことを言う、正論マシーンとでも言おうか。
まさに合理的で自由、そして必要なら伝統も乗り越え、でも理想に溺れて人を傷つける暴力革命には与しない。
そんな彼から吐き出される言葉は先進的だが納得していく、そんな正論を吐く自由主義者こと石橋湛山が知名度を上げていくのは時間の問題だった。

特にこの日本植民地いらなくない??の考え方は『小日本主義』と言って石橋湛山の代表的の思想であった。
なぜ日本に植民地はいらないのか、湛山は満州を例に論を転じた。


①無理矢理植民地支配したら反日感情が高まる→禍根を残す
②日本が資源無い国だから植民地必要って言うけど、朝鮮・台湾・満州ってそんな資源無いよ?→それなら中国全土に開発協力して貿易した方が有意義
③領土を広げれば広げるほど相手も戦争の準備するし防衛費も必要→もし日本本土だけならば無意味な戦争を防止できるし、軍備費も抑えられる
④めっちゃアメリカがにらんできてる→日米対立を回避しないと日本はやってられない

満州事変が起こった当時、街には戦争ウェルカムのバルーンが上がっているような時代だった。
そんな時代に正論吐きマシーン石橋湛山は理路整然に満州事変・植民地拡大を目指す帝国主義を批判したのだ。

しかしそんな湛山をよく思わない人達がいた、そうそれは『軍部』である。
植民地拡大のため満州事変を起こし、反対した当時の総理大臣 犬養毅(いぬかいつよし)を五・一五事件で暗殺までした軍部である、そりゃやった事を批判されて心地よいわけがない。
当時新報社の社長にまで登り詰めた石橋湛山は筆を緩めることは無く、二・二六事件、日独伊三国同盟、大東亜共栄圏を批判しまくった。
これに対して軍部や軍に近い人達は記事の用紙を制限したり、湛山に社長退陣を求めた。
その退陣要求に対して湛山は受け入れるどころか、啖呵を切る。

「東洋経済新報には伝統もあり、主義もある。その伝統も、主義も捨て、いわゆる軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけを残したとて、無意味である!そんな醜態を演ずるなら、いっそ自爆して滅びた方が、はるかに世のためにもなり、雑誌社の先輩の意志にもかなう!」

正論マシーン石橋湛山は筋を曲げずに、最終的に不満社員を退社させてこの危機を乗り越える。
しかしその後も軍部からの睨みは変わらなかったどころか強くなっていった。
検閲で記事がしばしば削除・発売禁止を受けたり、とある軍人がサーベルを床にぶつけて威嚇しながら編集方針に文句をつけてくることもあった。
しかし湛山は知らん顔、いざとなれば新報社の建物を売って社員の生活費に当てて、自宅を新報社再建の拠点にする計画も立てていたという。(最終的には幸運にも潰されることは無かった)
暗殺されることも考えて湛山の書斎の前の扉が厚い鉄板だったことを孫の石橋省三(いしばししょうぞう)は語っている。
それほど彼が自由に正論をぶちまけるには命懸けだったのである。
湛山は1944年に敗戦後の日本をどう再構築するか考察・立案する「戦時経済特別調査委員会」に参加して、戦後の日本復興を考えながら終戦を迎えることになった。

異端の大蔵大臣〜そして政治家へ〜

終戦を迎えた日本、石橋湛山は決心をした。

そうだ、選挙に出よう

元々政治家にも興味があったし、言論活動の限界も感じていた。
そんな湛山は友人の片山哲(かたやまてつ)の社会党への誘いを断り、顔見知りの鳩山一郎(はとやまいちろう)の自由党へ入党する。(社会党は思想の自由さがなさそうだったからそう)
しかし石橋湛山、なんと準備が足りず落選、かなしい。
しかも鳩山率いる自由党自体は第一党になり鳩山総理!との予定だったのだが、なんと鳩山がGHQにパージ(公職追放)をくらってしまう。
だが鳩山がパージされた代わりに新党首、つまり新たな総理に吉田茂(よしだしげる)が就任したのだ。
なんとその吉田は落選して一般人であった石橋湛山を大蔵大臣に起用したのである!
党首はパージ、自身も落選と踏んだり蹴ったりな石橋湛山当時61歳だったが、笑う神もいれば拾う神もいるものである。

大蔵大臣に就任した湛山は大蔵省で、のちに総理になる池田勇人(いけだはやと)、のちの衆院議長の前尾繁三郎(まえおしげさぶろう)らから信頼を勝ち取り、ともに日本経済復興を目指していった。(特に池田とは師弟の関係に近かったという)
財政演説や放送原稿も自分で筆をとったと言われている。
まさに自力で経済を学び、街の経済学者と呼ばれた石橋湛山だからこそである。
そして湛山は「終戦処理費」をめぐる問題でまたもや正論マシーンのスイッチが入ってしまった。
「終戦処理費」とは進駐軍、つまりGHQの諸経費のこと。
これは敗戦国の日本が払っていたのだが、なんと日本の国家予算の3分の1を占めていたのだ。
使用内容としてはGHQの住宅地やゴルフ用地費、生鮮野菜用のプール建築費、花や金魚等の宅配費などなど…日本国民が食事もままならない状況でこの現状は見逃せないと湛山は追及。
たとえ日本が占領されていようとも、おかしいものはおかしいと啖呵をきった湛山は国民から心臓の強い「心臓大臣」と呼ばれ親しまれるようになった。
ここから石橋湛山は総理の座を噂されるようになる。
当時の自由党幹事長の大野伴睦(おおのばんぼく)は、次の総理・総裁は石橋だと公言するほどだった。
実際国民人気も高く再度選挙に挑戦すると静岡二区でトップ当選するほどだった。
これにいい顔をしなかったのがGHQだ。
そもそもGHQは終戦処理費問題等で湛山は占領行政を妨害する1人に見えていたのだが、そんな人物が総理になられたら占領統治に支障が出ると考えたのだ。
そしてとうとうGHQは石橋湛山を公職追放したのである。
理由は戦前に東洋経済新報の社長として、戦争を支持したとの事だった。
しかし前述の通り東洋経済は軍部に潰されかけるほど、戦争には反対であった。
実際日本人で構成された中央公職適否審査委員会で東洋経済を調査すると「自由主義の立場を守り切った」という調査結果が出た。
しかしGHQは結果に激怒、委員会を解散させてGHQ直々に湛山がクロの書類を作って公職追放を行ったのだ。
これに対して湛山は激しい憤りが全身に感じるほど激怒、吉田茂にGHQに取り合うように訴えた。
湛山にしてみれば事実と違うことで追放されるため激怒は当然だが、吉田は「狂犬に噛まれたと思ってくれ」と追放了承を求めたのだ。
この時吉田は湛山の言うべきことは言う正論マシーンの姿勢が煙たがったのだろう。
その後、のちの総理の池田勇人や芦田均(あしだひとし)、三木武夫(みきたけお)、社会党の屋台骨の西尾末広(にしおすえひろ)らが湛山追放撤回を求めた連名の書簡をマッカーサーに提出した。
それほどまでに湛山追放は狂気の沙汰に見えたものなのだ。
しかしそのまま公職追放になった石橋湛山は煙たがった吉田から離れ、同じように公職追放されていた鳩山一郎のもとに参加して吉田内閣と対決していくことになる…。

一世一代の総裁選〜7票差〜

その後の石橋湛山は公職追放後に鳩山派として吉田茂と対立、のちの鳩山内閣では通産大臣として中国との通商に力を入れ、確実に地歩を固めていた。
そして鳩山内閣が退陣、石橋湛山は総裁選に出馬表明をして一世一代の戦いが始まったのだ。
湛山以外に総裁選に名乗りをあげたのは幹事長の岸信介(きしのぶすけ)、総務会長の石井光次郎(いしいみつじろう)だった。

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個人的に1番激戦だった自民党総裁選とも言えそう(https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/057.html)


当時政党は自由党と、自由党から離脱した鳩山派らや改進党が合併してできた民主党が一緒になって出来た自由民主党、いわゆる自民党である。
その中で鳩山派の大部分と旧自由党の一部を抑えた岸、自由党の大部分の支持がある石井だが、石橋湛山はそんな大きな支持はなかった。
湛山の側近といえば自民党最左派と呼ばれた宇都宮徳馬(うつのみやとくま)、ハッタリで有名だった石田博英(いしだひろひで)らだった。(異名からして友達が少なそうだ…)
余談ではあるが宇都宮徳馬は当時の北朝鮮の金日成総書記が金正日を後継に決めた時に「政治家は一代限りにすべきです」と伝え、金日成が「本当の友人の直言はうれしいものだ」と喜んだという逸話があるのでやっぱり自民党内でも異端って感じだ…。
さてこんな少数精鋭の湛山達だが少しずつだが仲間が増えてくる。
岸達とあいそれない鳩山派の10数名が湛山についてきたのだ、これにて20名前後の石橋派を発足することになる。
そしてここから側近の一人、ハッタリの石田博英が湛山の参謀として活躍をする。

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石田博英、あだ名がバクエイなのだがよく本名と間違われたりする。三宅雪子の祖父。


まず石田は三木武夫と湛山を繋げる。
そもそも三木自体、湛山追放の時に撤回の書簡に連名しており考え方に近さがあった。
三木は湛山の自由主義者として戦前から貫き通す姿勢に感銘して支持を表明、しかも三木が所属していた旧改進党(自民党の前の民主党の前の政党だわね)の大半を湛山支持に引っ張ったのだ。
これだけでは終わらない、石田は次に大野伴睦を口説き落とす。
大野は自由党幹事長時代に次期総裁を石橋に語っていた男、スジを大事にする大野は大野系を石橋支持することを約束した。
余談だがこの総裁選で石田は「5人の代議士に通産大臣、8人の代議士に農林大臣を約束した」と言われるほど多数派工作を進めていたという。
他にも総裁選では石橋派1億5000万円使ったと喧伝したが、実際はこの半分にも満たなかったらしい。(ようは資金が潤沢で可能性があることをアピールしたかったらしい)
そして最後に石田は池田勇人と湛山の関係を修復しようとしたのだ。
そもそも石橋湛山と池田勇人は大蔵大臣、事務次官として師弟のような関係性だったが、池田は吉田茂を支持し、湛山は鳩山一郎を支持して対立していたのだ。
しかも今回池田は旧自由党系の石井の参謀役をしていた。
しかし久々に顔を合わせたふたりの師弟の関係は雪解けしていき、また厚く手を結ぶ。
そこで池田と石田は奇策を思い浮かんだ、「2、3位連合」を組むことであった。
総裁選で1位は岸と予想されるが過半数は取れない、そうすると決選投票が行われるがその時に3位だった者が2位の者を支持するという密約である。
参謀たちから話を受けた湛山と石井は、とあるパーティで2人で散歩ながら「それでいこう」とあつく握手したという。
これに焦ったのが岸信介を支持した人たちである。
無論起こる岸側から切り崩しの猛攻を受けつつ総裁選の日が迫ってくる…。

1956年12月14日
自民党総裁選 当日ーーー

寒空の下、東京大手町の産経ホールで自民党大会が開かれた。
まず総理として、総裁として政争の日々を過ごしてきた鳩山一郎が退任の演説を行った。
彼は涙を流しながら保守勢力の今後を訴え、演壇から、政界から姿を消していったのだ。
そして鳩山の後を決める自由党総裁選の火蓋が切って落とされる。
湛山は身体に流れる血の温かさを感じていた。
男、石橋湛山の一世一代の戦いが始まったのである…。
まず第一回投票はーーー

岸 信介 223票
石橋 湛山 151票
石井光次郎 137票

「おかしい…」
湛山の参謀である石田博英は動揺した、予想より湛山の票が20票近く少なかったのである…。
強い不安を覚えながら決選投票へーー

時計の針が天を周り、午後から直ちに決選投票の開票作業に。
空気が重い。
選挙管理委員として壇上に立っていた石田は滲み出た手汗でしわがれた投票用紙を宝石を触るがのごとく丁重に数えていた。
「ひぃ…ふぅ…みぃ……足りない…」
岸251票、石橋250票だった。
石田は思わず目の前が暗くなり、力がスーッと抜けていく感じに襲われた。
たった1票差の敗北、絶望する石田は「まだ票は残ってないか…」「岸の無効票はないか…」と藁にもすがる思いで周りを見渡す。
すると横で三木武夫の腹心、つまり石橋支持の選管、井出一太郎(いでいちたろう)が震えていた。
(敗北に気が動転したか、井出…)と悲しみを感じる石田は気づいたのだ、井出の手に投票用紙が握られていることに…。
そして、その時歴史が動いたーーー

石田は井出に耳打ちする。
「おい、井出それは石橋票か…!?」

目の焦点が合わない井出は声をふりしぼる。
「あ…ああ…」

「…何票だ」

「…8票だ」

勝った!!ーーーーー

石田はこの7票差で激戦を勝ち抜いた興奮で身体中の血が高速で循環していくような気がした。
そして石田はその興奮する身体で冷静に頭を回し、一世一代の大芝居をしかける。
(これほど接戦だと岸側から無効投票があるのでないかと声が起こり、結果がひっくり返される可能性がある…よし!)
そのまま石田は大会議長の砂田重政(すなだしげまさ)への元へ行く。
石田は飄々と「議長、ちょっと休憩したらどうですか?」と語りかける。
この瞬間、岸を支持していた砂田議長は考える。
(石田が休憩を持ち出したということは石橋は負けたな…休憩の時に無効投票やらなにか文句をつけるつもりだろう…)
「いや、休憩はしない!」と岸の勝利を確信した砂田議長は石田の提案を跳ね除ける。
石田は逆に湛山の勝利を確信し、握りこぶしの人差し指を立てて湛山へ勝利の合図を送る。
その時、湛山はわずかにほほえんで頷いた。

ーーー午後1時15分、開票結果発表。

石橋湛山 258票
岸信介 251票

劇的な逆転劇に、会場がどよめいた。
歓声を上げる湛山たち、驚きを隠せない岸、ほくそ笑む池田、岸の勝利を確信していた砂田議長は苦虫を噛み潰したような表情になっていた。
当時72歳の湛山はこの最初で最後の一世一代の大勝負に勝ったのだ。(ちなみに自民党でこのような2位が決選で1位になるパターンはこの湛山の時と、2012年の安倍ちゃんの時だけである)
最初は驚きを隠せなかった当時60歳の岸は、まだ次があると言わんばかりに笑顔で湛山と固い握手を結んだ。
岸の発声で「石橋新総裁バンザイ!」を三唱し、この激しい党大会は終わりを迎えた。

ご機嫌取りはしない〜日中米ソ平和同盟〜

さて仲間たちと共に闘争を経て政権を勝ち取った石橋湛山、とうとう自前の内閣を作ることになる。
しかし僅差で敗北した岸信介達は自分たちの議席を多く求めてきたのだ。
そんなドタバタな日が続くある日、参謀の石田博英が湛山の総理執務室を訪ねた。
すると湛山は机に向かってなにか楽しそうに書いている。
そう、それは閣僚名簿である。
石田は思わず「先生…僕はそれで苦労しているんですよ…」と口を尖らす。
すると湛山はゆったりと石田の方を向いて朗らかな笑顔で言った。
「分かってるよ。でもね、自分がいいと思う内閣を自由に作れたらこうなるというのを残しておきたいのだよ。」
さすがに石田もいかにも湛山らしいと苦笑した。(結局組閣は期限までに決まらずお馴染みの1人内閣で乗り切ることになる)

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圧巻の1人内閣(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E5%86%85%E9%96%A3)


その後、反対派に気を使いながらも湛山自前の内閣が出来上がる。
側近の石田博英は女房役の官房長官、師弟関係の池田勇人は大蔵大臣、ライバルの岸信介は副総理格の外務大臣につけたのだ。(ちなみに党内人事も三木武夫を幹事長にあてた)
そして湛山は自分のらしさ溢れる政策を訴える。
湛山は「五つの誓い」として「国会運営の正常化」「政界および官界の綱紀粛正」「雇用の増大」「福祉国家の建設」「世界平和の確立」を基本方針として訴えた。
特に雇用の拡大の積極財政は弟子の池田と「1000億減税・1000億施策」をスローガンに、世界平和は日中国交を目標に訴えていた。
そしてこの5つの誓いを訴える湛山はいつもこのように述べている。

「民主主義は往々にして国民の皆さんにご機嫌をとる政治になる。国の将来のためにこうしなければならぬと思っても、多くの人に歓迎されないことだと、つい実行することを躊躇する。これが今日、民主主義が陥りつつある弊害である。ずいぶん、皆さんには嫌がられることをするかもしれないから、そのつもりでいてもらいたい。」

この「ご機嫌取りはしない」発言はある意味湛山らしい、セリフである。
先程まで政争の話ばかりであったが、あくまで湛山は変わらず正論マシーンである。
どうもきこえのいいことを言いたくなるのは政治家のつねと言うものではあるが、湛山はそこはキッパリ言い放ったのだ。
これに国民は万雷の拍手を送り、党内不和なんぞ吹き飛ばすほど肯定的に受け止められた。(やっぱ正直って大切♡)
これに気を良くした湛山は「ご機嫌取りはしない」ツアーをはじめ、全国各地に遊説しに行くことになる。
全国遊説の後は早稲田大学主催の屋外での就任祝賀会に参加し、薄曇りの寒空の下で数時間の大演説をぶっぱなすほど精力的に行動していた。
しかし齢72歳の湛山くん、家に帰るとぶっ倒れてしまう、無理がたたり肺炎と軽い脳梗塞を起こしてしまったのだ。(なお我が早稲田生の旧友曰く、引き金になったこの祝賀会が我が校の1番の失策だったかもしれないと語っていた)
医師からは2ヶ月間絶対安静という診断をされるが、自民党は副総理格の岸信介を総理臨時代理として国会を乗り切ろうとし、野党の社会党もそれに呼応して戦闘態勢を取ろうとしていた。
しかし湛山は違った、悩んだ。(ちなみに湛山は健康にはかなり自信があったらしく、旅行先で朝からスキヤキと酒を浴びても乱れなかったことで有名である)
理由は簡単である、皆さんは湛山の記者時代の記事の1つを覚えているだろうか。

・体調悪くて仕事できないなら総理辞めなぁ!?(直球)

これは安倍ちゃんに向けてでは無く、暴漢から弾丸を受けた濱口雄幸(はまぐちおさち)への批判だった。
湛山はこのまま国会に参加できずに総理を続けたら、この時記事を見てくれた読者を欺くことになると考えた。
政治家たるもの多少の変節はよくあることである。
しかも総理という最高権力者の地位をまた手に入れるなど至難の業である。

しかし湛山は決意した、総辞職とーーー。
石橋湛山、彼は自身のスジを、正論を曲げずに貫いたのだ。
正論マシーンの湛山は周りからの制止も振り切り、たった65日の短い内閣は終わりを迎えた。
この時退陣表明は岸が代読したのだが、この湛山の潔さは社会党書記長の浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)に「政治家はかくありたい」と言わすほど与野党問わず、感銘を与えた。

その後療養を重ねた湛山は政治活動を再開。
湛山は総理時代目指した日中国交を少しでも進めるため、1959年に中国へ訪問した。
そこで中国のトップ、周恩来と会談し、とんでもない話をぶちあげる。
それは日本と中国のみならずアメリカ、ソ連とも同盟を結び、冷戦構造を打ち破ろうという日中米ソ平和同盟を主張したのだ。
なかなか攻めた内容だが、当時国連に加入してなかった中国(ここでは周率いる共産党)にしては国際社会への足がかりになると思い、賛成。
台湾を攻撃しないと約束した上で、日本と中国は極東と世界の平和を守ろうと石橋・周の共同声明を発表した。
その来年、1960年から貿易が再開されるようになり日本と中国関係は好転し始めた。
その後湛山はなんと1963年の選挙で落選、政界を引退することになるが日中国交に精力的に活動。
そして1972年には田中角栄(たなかかくえい)によって、とうとう念願の日中国交正常化が行われることになる。
この国交正常化は石橋・周の共同声明が骨子になっており、湛山の小さな1歩が大きな結果に繋がった瞬間であった。
角栄は湛山に敬意を表すように湛山宅を訪ねて、熱く握手を交わし、湛山は新時代へ思いを伝える。

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角栄と手を結ぶ湛山(LOOK!自民党春秋戦国史)

そしてその大望の日中国交正常化を見届け1年後、1973年4月25日湛山は脳梗塞で死去、88歳だった。
最後の石橋派を自称する宇都宮徳馬は亡くなった湛山の顔を見てこう語る。
「病床にあった時よりも生き生きと人に迫るものがあり、その濃い太い眉、引き締まった口元は、政治家が持つべき高風と気概を示し、低調な政界に空しく生き残っている私たちを叱責しているように感じられた。」

自分のスジ、正論を貫いた湛山はその高風な精神と潔さを今なお政界の語り草となっている。

石橋湛山の関連事物

石橋湛山に関わる人物や場所、小話を少し。

石田博英

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通称バクエイこと、参謀の石田。
ハッタリは天下一品で自由党時代は吉田反対派を取りまとめ幹事長就任を流産させたり元から一目置かれていた。
博打師としても強く、本人曰く「麻雀の強さなら俺は世界一だ。ただしスエズ以西の人とはお手合わせしたことはないがね」と人を食った発言も。(スエズ以西に麻雀の文化はないとかマジレスNG)
湛山には惚れ込んでおり、湛山が公職追放を受けて皆が石橋から離れて行っても、石田は「石橋側近」を公言する惚れっぷり。
当時最年少42歳で官房長官就任も考えると湛山からもかなりの信頼され、可愛がられていたのだろう。
どうやら石橋愛は尋常では無く、湛山退陣後の石橋派で議員達にお金を配る時、湛山以上にお金を渡したのだ。
理由は他の派閥より渡すお金が少なかったので、派の結束のためだったのだが見方によればクーデターにも見えてしまう。
そんぐらい湛山への愛情が強かったようだ。

池田勇人

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(https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/060.html)

師弟関係の石橋・池田コンビ。
そもそも池田は病気で長期休暇、復職後の遅れを取り戻すが如く働いていた所を湛山に大蔵次官へスカウトされる。
湛山の積極財政スタンスは池田に引き継がれ、湛山の「1000億減税・1000億施策」は池田内閣の「所得倍増計画」へ生かされていく。
池田はやはり湛山への敬意はかなりあったらしく、総裁選時も石井光次郎陣営だったにも関わらず1回戦目で池田の指示で票を湛山に回していたらしい。
もちろん石井は激おこプンプン丸だけどね。

疾風の勇人(著・大和田秀樹)

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疾風の勇人6(https://www.amazon.co.jp)

池田勇人のマンガ、なのだが敵役として湛山が登場する。
薄めのとんがり頭に結構頬を赤く染めるなどお世辞にもかっこいいとは言えないが、池田勇人のお師匠としての振る舞い・闘いは面白い。
吉田VS鳩山時代の鳩山派知将の湛山が見たい人はオススメ。
ちなみに湛山は表紙を飾った珍しいキャラやぞ。(オタク特有の(*´Д`≡´Д`*)hshs)

石橋うめ

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右から2人目(http://www.ishibashi-mf.org/profile/photo/photo_3_2.html)

石橋湛山の奥さん、石橋夫人。
軍部にも屈しなかった湛山が1番恐れてる最恐の人物、それがうめ夫人だった。
例えば鳩山らが自由党復党する話になった時に、復帰反対の急先鋒が湛山だった。
しかしまさかその湛山が率先して自由党に復党したのだ。
理由は簡単、うめ夫人が復党しろと強く押したからである。
他にも鳩山内閣の時に湛山が強固に蔵相をやりたがる。
が、鳩山参謀の三木武吉(みきぶきち)は裏にうめ夫人がいることを見抜き、石橋邸で夫人に直談判、説得したという逸話がある。
うめ夫人は元小学校教師でもあり、
かなり性格が強かったらしいが、それ以上に湛山がなにか弱みがあったのかもしれない。

おわりに


ここまで長文をご覧いただきありがとうございました!(今回も長かったなぁ笑)
稚拙な知識や文体ですが少しでも皆様の政治への興味関心に寄与できればと思っております。
もし間違い等見つけましたら何卒ご一報いただけたらと思われます。
また今回石橋湛山という人間像を調べたとき、思想家としての面が強く、人間性をもっと深堀したかったと思いました…。
ただ思想家の面ゆえに、スジ、私はこれを正論・正論マシーンと本文で述べましたが、強くあったと感じました。
石橋湛山という男はヒューマンドラマの主役ではないかもしれませんが、古代ギリシアのソクラテスのようにスジを通して、我々に思考のチャンスをくれるメンターなのかもしれませんね。
いやぁ、今回は資料も難しくて、ヘトヘトです…。

ちなみに今回の表紙のイラストはなんと黒幕てャンさんが描いてくださいました!うれしい!!
ありがとうございます!スペシャルサンクスです!!
よろしければ黒幕てャンのブログもご覧下さい!(緒方竹虎愛がすごぉい)
https://kuromakuja.hatenablog.com/

では皆さんまた次回でもお会いしましょう!
これからも何卒よろしくお願いします!!

もののふ

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参考文献

『自民党ナンバー2の研究』浅川博忠(講談社文庫)
『アホな総理、スゴい総理』小林吉弥(講談社)
『友好の井戸を掘った人たち』佐高信(岩波書店)
『日本の内閣総理大臣事典』塩田潮(辰巳出版)
『石橋湛山』姜克實(丸善ライブラリー)
『素顔の宰相』冨森叡児(朝日ソノラマ)
『歴代内閣総理大臣のお仕事』内閣総理大臣研究会(鹿砦社新書)
『戦う石橋湛山』半藤一利(中公文庫)
『総理の辞め方』本田雅俊(PHP新書)
『石橋湛山』増田弘(中公新書)
『歴代総理の通信簿』八幡和郎(PHP新書)
『LOOK!自民党春秋戦国史』山手書房
『日本の「総理大臣」がよくわかる本』レッカ社(PHP文庫)
その他石橋湛山に関連する記録等様々なものを参考にさせていただきました。

おまけ

ここでは最後に石橋湛山が公職追放される時に、湛山が珍しく辛い心情と怒りをGHQへ訴えた文を載せておきます。

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